追跡、完了!
頭上に雲海が展開していた。先程までは存在しなかったものだ。天候操作――やはりバエルは次善の策を準備していた。フェニックスと真正面から向かい合ってはいても、その眼はすでに獲物である大いなる者・アマテラスしか見ていない。
まるで嗤っているかのように、仮面越しの空虚な瞳は歪んでいた。愉快そうに嗤う、醜い人間の残酷な瞳と変わらない。他者を穢して踏みつける存在は人であろうが追跡者であろうが、変わらぬ醜さを湛えるということか。
それを打ち破るために僕はこの力を得た――フェニックスは雲海が投げかける影の中で、拳を思いきり突き出した。
そうして、バエルの顔面を打ちたたいた。
『本気で届くと思っている。愚かにもほどがあるな、貴様は』
黒炎を纏った拳がバエルに到達したと思えた、刹那、霧散した。拳は虚しく空を切る。
幻影だったらしい。
(そんなはずはない)
フェニックスは自らの視覚を信じた。さっきまで見ていたものは間違いなくバエルそのものだった。ただ霧散したように見えたのは、瞬時に霧を発生させ、それを殴らせて散り散りにさせて、そうして幻影の消失を見事に偽装したのだ。
絶対にバエルはまだ近くにいる。だがフェニックスは周囲を観察する間も惜しんで上昇を開始した。すると対面の空に、同じように上昇するバエルが見えた。
『勘は優れているようだな。ニンゲンは今も昔も、優れた動物であるということか』
言いつつバエルはわざとらしく指を鳴らした。パチン! と乾いた音が空に反響し、頭上を覆い尽くす雲海が濃密に変色し、一瞬後には黒々と染まっていった。
雷雲。勘づいたときには稲妻が放射され、それは迎撃装置の如くフェニックスを包囲する。いったい何条の稲妻が撃ち出されたのか、数えるのも馬鹿馬鹿しい。雷雲の中で響き合って増殖でもしたかのように連続放出された稲妻の群れが、まるで巨大な蜘蛛の糸のように絡まり合って、天空に網目を形成した。
「騙されるか!」
フェニックスは叫んだ。稲妻を避けるために方向転換することも考えたが、これはバエルの次善の策なのだ。目的がこちらの減速にあるとすれば、方向転換こそ向こうの思う壺になる。
愚かであってもいい。馬鹿にされても構わない。僕は死んでも死なない。つまり、恐れることは何もない。
フェニックスは雷鳴の中を直進した。
『そうか、ならば滅ぶといい』
バエルの冷笑が響く。黙れと叫ぼうとして、フェニックスはその時、奇跡をみた。
雷雲が一瞬にして晴れていく。雲海によって隠されていた純白の光が空一面からあふれだし、それが雷雲もろとも稲妻のすべてと同化して、何もなかったことにしてしまった。
――私の輝きを覆い隠すなど許しません。さあ、道は開けたはずですよ?
大いなる者の幻聴が胸に届く。これは援護ではない、ただ自らの権能が穢されたから対応しただけ……だが、事実としてフェニックスは救われた。
不干渉ではあっても見捨てはしない。これもまた、アマテラスのやり方なのか。
「ありがたいって、言えばいいのかよ!」
目に見えないその存在に感謝を捧げるために、フェニックスはバエルに接近する。結果をもって感謝としなければ、アマテラスの安全を保証する責務を果たせない。
風を操って空を渡るバエルに対し、炎の翼をはためかせるフェニックスの方が加速力は上だった。障害物がなく、強烈な閃光によって視界がクリアーになった今、追いつくのは簡単だ。
「今度は、捉える」
『どこまでも追いかけてくるなら、振り払ってやるとしよう』
バエルはため息を吐き出し、そこで上昇をやめた。ぴたりと動きをとめ、そしてフェニックスはバエルを見下した。上昇をやめず動きもとめず、見下したまま黒炎を全身に纏う。純白の閃光を背にして、フェニックスは今や白い空の中でくっきりと浮かびあがっているバエルの姿を捕捉すると、一転、急降下した。
「一撃で終わらせてやる」
フェニックスは全身を紫黒の炎で覆い尽くしたが、自らを火葬することはしなかった。その肉体を保ったまま、人の輪郭を維持したまま――あくまで民のひとりとしての体裁を維持しながら、炎で象った不死鳥とともに、その足を繰り出した。
つま先から爪がのび、それが不死鳥の嘴の形になる。それは封撃幽殺の構えだった。
だが、バエルの対応は早い。今や割れた仮面は剥落し、故にこそ大いなる者・バアルの力を部分的に解き放つことが可能となっていた。バエルは片腕だけを大いなる者の巨腕に変化させ、ヒトの大きさを超えた大いなる拳でフェニックスの視界を一瞬にして埋め尽くした。
封撃幽殺で迎え撃てば問題ない。だが、そのためには加速力がまだ不足していた。距離が欲しい。だが、バエルの対応が早すぎた。このままでは先にたたき落とされる。
(そんな、こんなことが……!)
間に合わない。絶望が頭を真っ白にした。呆然として何も考えられなくなった脳裏に、失われていたはずの死の恐怖が噴水のようにわき上がって止まらなかった。
フェニックスは――藤堂巧は、不死鳥を象った黒き炎のなかで、震え上がった。
巧は敗北を味わい、意識を失うその直前に、幻をみた。自分の足が歪んでいく。同時に、バエルの巨腕もまた歪んでいく。世界のすべてが歪んで見えた。まるで何者かに握り潰されでもしたかのように、ぐにゃりと曲がってしまった世界のなかで、巧は眼前の拳の威力を思い知った。
悔し涙だった。それで世界を歪めて、巧は己の一生の歪みを呪った。
(及ばなかったんだ、僕は)
現実はやはり冷たくて残酷だった。炎の翼でどこまでも高く飛べても、最後には強者に叩き落とされてしまう。死なんて怖くないと言い張ったはずなのに、結局は敗北を受けいれて屈してしまう。現実も、僕自身も、どちらもつまらない存在だ。
巧はため息を吐き出して、そうして意識が消失していくのを受けいれるしかなかった。僕の人生なんて、そんなものだったんだ。そう、結論づけるしかなかった。
力が及ばなかった。いや、僕は自分の力を高めることに、失敗したのか――。
幻覚によって意識を失ったフェニックスは、通常態から魔人態へと変化する。シルクハットのような、頭部を覆う漆黒の器官に片手を触れ、フェニックス魔人態は仮面の下の両目を、ゆったりと押し開けた。
彼は藤堂巧の怨嗟を引き継ぐかのように、まだ継続されていた封撃幽殺の体勢を保持すると、背中から黒炎を噴き出して最後の加速を完了させた。そして幻覚によって惑わされ、一瞬だけ動きをとめたバエルの拳をやり過ごし、その胴体に足先を向けた。
『フェネクス。三十七位の分際で、一位の我に刃向かうな』
『その態度が我輩には気に食わんのだよ、バエル』
バエルを嘲笑したフェネクスの言葉につづけて、フェニックス魔人態のつま先が――嘴を模した不死鳥の黒炎が、半分仮面を損ったバエルに――半分は大いなる者でもあるバアルに、直撃する。
追跡者フェネクスによる、大いなる者・バアルへの“追跡”が今ここに完了した。
黒炎に燃やされながら鎮められ、世界の奥へと退散していくバエルを愉悦の視線で見下した後、フェネクスは自らもその目を閉ざした。
『我輩はもう満足だ。追跡者の任、侯爵の誇り、どちらも守ることができた。このようなことはもう二度とできないだろう。だがお前の中に居続ければ、あるいは再演できるやも知れん。この奇跡のような、二重の逆転劇をな。楽しみに待っていてもいいのだろう?』
なあ、藤堂巧よ……そう呟いて、フェネクスは自らその意志を封じ込めた。藤堂巧の、心の中に。




