地に落ちた者同士。
大いなる者さえ堕とした。なら、もうなんだってやれる。
巧の意志は全能の確信によって満たされていた。もはや人間ではなくなり、大いなる者・ラーの眷属である不死鳥そのものになった彼は大地を睥睨し、人々の住まうその世界を見渡していた。
そうして真っ先に思うことはただひとつ……灼き滅ぼしたい。それだけだった。
(あそこはまだ明るい。夜なのに、どうしてあんなに、明るいんだ)
人の身では見えなかったことが、不死鳥となった今なら見える。山の緑を剥いで建てたソーラーパネル、川をせき止めてつくったダム、処理不可能な廃棄物を垂れ流す原子力発電所……自然を穢すことで、人は莫大なエネルギーをつくりだし、必要以上の明かりを灯している。
(何だよ、これ。こんなだったのか、僕が住んでた世界って)
現にいまは夜のはずなのに、地上の一部は煌々と明るかった。眠らない街と格好の良い言葉を当てはめ、夜闇の怖さに怯えなくて済むといえば聞こえは良いが、それは自然を穢し、持続可能性という名のリスクを冒して無理やりに成立させた砂上の楼閣にすぎなかった。不夜城などというものは身勝手なヒトの幻想でしかないことが、不死となった今、もはや考えるまでもなく自明だった。
いじめと同じだ。犠牲の上に安寧を成立させる、どうしようもない愚者たちの発想。本来なら犠牲などなくても十二分に暮らせるはずなのに、暗い欲求を無視できず制御もできない愚か者どものために、誰かがみすみす犠牲になる。それがこの世界の掟なのだ、とでもいうように。
(道理で生きづらいと思った。ぜんぶ間違った奴らが勝手につくった、嘘の世界なんだ。偽りの世界だ、ここは)
やはり灼き滅ぼしても構わない。これは腐敗した世界に違いない――守ることは悪で、変革することこそが善だ。
――そうとも、不死鳥よ。
幻聴が、魂に食い込んでくる。それはすでに聞き知った者の“声”だった。
「バアル……いや、バエルか。どこにいる?」
地に落としたはずなのに、その幻聴は天から降ってきたように聞こえた。思わず不死鳥はその嘴をあげ、天を振り仰いでしまった。
瞬間、信仰が生まれる。
天を振り仰いでその存在を確認することは、地に落ちた追跡者に対して行う動作ではない。天に居る大いなる者にむけて実行される所作だ。つまり、巧の意識はバエルをバアルと認めてしまった――その、ほんの絞りカスのようなわずかばかりの信仰を頼りに、バエルはバアルとなって再び天にその身を顕現させた。
輝きのベールが吹き荒れてその身を包み、砂漠の大地を思わせる土気色の法衣を纏い、それでいて鮮やかな緑の葉で編まれた冠を頂いている。見上げてしまったがために復活した大いなる者・バアルは、今や不死鳥を見下ろしていた。
――不死鳥、いや、藤堂巧よ。貴様が楯突くべきは我ではない。愚かな者どもが造り上げたがために歪な醜態を晒し、腐り落ちていてもなお犠牲を積み上げることをやめようとしない、頑なな悪意がすべてを支配するこの不完全な世界だ。そうではないか?
お前の言葉には惑わされない。僕は誰の道具でもない……そう反発する一方で、本当に楯突くべきはこの腐った世界だという言葉を、ついに否定することはできなかった。
この世界を燃やし尽くしても構わないという理解、そうすることで幸福となれる利害。そのどちらも、この追跡者とは一致しているのだ。
不死鳥は逡巡した。バアルを見上げたまま動けず、先程までは世界を見下ろしていた威厳は瞬く間に損われた。そのことは不死鳥の魂である巧の意識もまた自覚していた。今なら世界のすべてを燃やし尽くせると思えた、あの全能感がいまはない。
見下す側から、見上げる側になってしまったからか? そう思い当たった。だがもう遅かった。
瞬間、不死鳥は自ら地に落ちた。人々に見上げられるべきラーの眷属であることをやめ、大いなる者を見上げるだけのヒトに成り下がっていった。
※
追跡者バエルはやはり、とんでもない悪魔だった。大いなる者の眷属であったはずのフェニックスを一瞬にして地に落とし、ただの追跡者の力を秘めた人間に戻してしまったその手管をみたユニコーン――一角徹也は、それを確かに悔やんでいる、自分の心の動きを自覚した。
(なにヘマしてんだよ、あいつ……!)
あと一手だった。地に落ちてバエルとなった敵の位置をとっとと掴み、ラーから賜った不死の炎で焼き尽くしてやれば、いつでも封印できる程度に弱らせることはできた。一般的な生命でいうところの瀕死の状態にもっていくことができたのだ。
なのに、あいつは幻聴と幻影にまんまと騙された。空に投影されたそれらしい幻影には確かな威厳があったが、即席の幻影に過ぎないのは遠目からみればはっきりわかった。なのに、そんな小細工にさえ気づかないほど藤堂巧は疲弊していたか、あるいは、まったく油断していたのか。実際、巨大な不死鳥にその身を化身させたにもかかわらず、しばらく地上を悠長に眺めていたのだから、これを油断といわずして何というのだろう。
「クソッタレが。甘いんだよ、お前はいつも!」
悪態をつきながら、本気で悔しがっているらしい自分。俺が失敗したわけじゃない。友だちでもなんでもない、むしろ憎んでも憎みきれない仇敵。その失態を、何故か本気でもどかしいと思っている俺は、いったい何なんだ。
ユニコーンは憤怒と悔恨のあまりその手を握りしめ、拳をふるわせ、自ら穿った掌から鮮血が垂れ落ちるのも構わず、誰もいなくなってしまった夜空を見上げつづけた。
藤堂巧は、フェニックスは、間違いなく大いなる者・バアルを葬るだけの力をもっていた。だが、宝の持ち腐れだった。訓練された体をもたず、高められた志ももたず、いじめられっ子のやわな魂を大事に大事に抱いているだけの気持ちの悪い奴が、藤堂巧という人間のすべてなのだ。
あいつひとりには決して任せられない。誰かがサポートに回って導いてやらなければ――冷静に戦力を分析したとき、そんな結論が胸に落ちてきた。
仮にあいつが負ければ、この世界はバアルに破壊されてしまうだろう。現にバアルの天候操作によって季節は今や滅茶苦茶になっている。いまが夏なのか冬なのかも正直判断できないくらいだ。空模様はバアル顕現前の夜空に戻ってはいるが、吹いている風はあたたかいのか冷たいのかさえわからない。そんな現状において、バアルへの対処が最優先課題であることは、火を見るより明らかだ。
問題は、いったい誰があいつの隣に行くかだ。妖狐の姿はみえず、その主である大いなる者・ウカノミタマがやってくる兆候もない。
「クソッタレ」
ユニコーンは舌打ちして、そして疾走した。
※
地に落ちた灼熱の炎には、憎悪の深さを思わせる紫と、夜の闇にもみえる黒き濁りが入り混じっていた。
暗い輝きを帯びて、その炎は一体の化物に化身した――通常態に戻った封印騎士フェニックスが、黒とも紫ともつかない隠微な輝きを放つ眼を開けて、同じく地に落ちた追跡者を睨んだ。
バエルは拍手を奏でていた。『よくやってくれた』、その嘲笑とともに、わざわざ肩よりも高い位置にあげた両手を大きくぶつけて、迷惑千万な音響を思うがままに打ち鳴らしていた。
『やはり傑作だな、貴様は。力をもちながらもその弱い心が枷になっている。英雄にはなれない、しかし追跡者にしてもなり損ないの、ただのバケモノでしかない。利用価値は十二分にあるものの、下手に強力なものだから処理には困るが……どうだ? 我が提案には、同意できるというのが、もっとも正直なところなのではないかな?』
バアルなど存在しなかった。復活などしていなかった。理屈はわからないが事実はそうだった。バアルと思って見上げたものはただの幻影で、しかし巧が確かに注いでしまった信仰を糧に追跡者として復活してしまっていた。
目の前にいるそいつは、バアルだったときに纏っていた輝かしさもなければ、自然の大きさを思わせる威厳もなかった。もはや人間に寄り添う大いなる者ではない。人間の世界に紛れ込んで同じ目線を共有しながらも、人間を見下し、嘲笑し、最後には滅ぼそうとする社会の癌細胞そのものだ。
大いなる者バアルとは手を繋ぐ価値があったかも知れない。だが、ただの追跡者に堕ちたいまの状態――バエルという本性に立ち戻ってしまったそれと、盟約を交わしたいと思えるか、否か。
「気持ち悪いんだよ、お前」
『何?』
巧は言ってやった。それが嘘偽りのない本当の気持ちだった。
「いま、お前は僕の目の前にいる。僕と一緒に、空の高みから世界を見下していたあのバアルはもういない。なら今のお前はこの世界の一部だ。僕が灼き滅ぼしたいと思った、不完全で、腐っているこの世界の一部だ。なら、僕はお前も灼き滅ぼす」
『ならば我の目の前にいる貴様もまた、この世界の一部ということになるが?』
「そうだ。だから、僕は僕も……すべてを、滅ぼしてやるんだ」
『なるほどな。それが我が提案に対する、貴様の答えというわけか』
人としての生理的感覚として、追跡者とはそもそも手を携えられるはずがない。答えは考えるまでもなく、すでに心の中にあった。
この世界のすべてを灼き滅ぼしてやりたい。その願いを実現し、人生を通して培ってきた世界への憎しみを果たしたい。己の決意と在り方に、何ら変わりはない。その途中に、ちょうどバエルという邪魔者が立っていた。それだけのことだ。
『だが、この世界のすべてを燃やす力はいまの貴様にはない。不死鳥から、我が同輩……いや、我が掌中におさまるたかが三十六位の追跡者の依り代でしかない貴様に、この世界は荷が重い。我の支援なしには、世界を滅ぼすどころか守護者たる人間の戦士たちに討ち取られる可能性がある。その点についてはどう考えているのだ?』
巧は一歩を踏み出した。バエルのいうことはもっともだが、人が追跡者に屈することはありえない。実際、巧はフェネクスの意志をねじ伏せて、その力だけを利用しているのだ。バエルの協力など得る必要はない。すでに、力は与えられている。
「黙れ」
フェニックスは拳を握り、突き出した。拳はフェイク――だが、狙いは外さない。
バエルは相変わらずの仮面のせいで表情がうかがえなかったが、目の位置にあいた穴からは暗い双眸が垣間見え、銃口のような冷気を放つそれが深い憎悪を思わせる。寒気がするほどの虚無の眼だが、それ故に人ではないとはっきりわかる。
顔も見せない奴と、手と手を携えるなどできそうにない。僕の人生は誰のものでもない。人間と追跡者、あるいは三十六位と一位、位階の差はあったとしても、屈するつもりもなければ配下になるなど言語道断。
僕は僕の人生を歩む。そのために邪魔者は排除する。変わらぬ決意が、邪魔者への憎悪を深くしてくれる。巧は――フェニックスは背中から紫炎の両翼を噴き出させ、羽ばたいて加速し、バエルとの距離を詰めていった。




