敵地の事情。
水の垂れる音がする。目を開けた……何も見えなかった。暗闇の中だった。視覚の回復と同時に、耳鳴りがする。何も見えないだけでなく、何も聞こえない――何も感じられない世界。
やってくるのは二度目。ごつごつとした岩場の感触を頼りに起き上がる。薄い光が見えた。この洞窟には果てがある。だが、遠い。何も見えない中、ひたすらに遠くに見える光だけを追って歩くことは、ひどく面倒に思えた。
巧は一歩を踏み出すのをやめた。
――またここに来てしまいましたね。
聞き覚えのある声が洞窟に反響してくる。おかげで発話者がどこにいるのかもわからない。
――そんなに、あなたの世界は居心地が悪いのですか。
嘲笑を含まない、心地の良い軽口。まるで母親の言葉のように聞こえた。おそらくこの洞窟の果ての、あの光の向こうにあたたかな言葉の主がいる。そう思いついた瞬間、面倒を乗り越えてでも歩き出したくなった。
――私はあなたのような者をこれまで、ただ放っておきました。でもそんな私のせいで、人の世は高慢な者どもであふれました。他者を思いやり、慈しみ、愛することよりも、見下すこと、威圧すること、従わせることが、人の世における高次の価値として認識されるようになりました。私の落ち度ではないかと、最近ですが、考えるようになったのです。
「いったい、何を」
いきなりそんなことを言われても……巧は戸惑うばかりだった。それは世間の有り様を的確に言い当てている言葉だと巧には思えた。だが同時に、何を今さら、とも思ってしまう。当たり前のことをただ言われても、そんな当たり前のことをどうしてわざわざ口にするのだろう、としか思わない。それに落ち度とはなんだろう。腐った世の常識を自分ひとりの落ち度と捉えられるなんて、それこそ高慢ではないのか。
――故に、救うことに決めました。あなたを。すぐここに来てしまう、私に似ているあなたを。だから安心してください。どうかあなたの人生を精一杯、謳歌してください。私は常にあなたを見ています。あなたを、守るために。
洞窟の果てに覗く光が急激に強まり、洞窟の隅々を照らし出した。洞窟の細部はしかし、見えなくなるばかりだった。視界が真っ白く塗りつぶされて、巧は意識を失った。
※
薬の臭いがする。断続的な電子音が聞こえる。首を曲げれば心電図が見えた。白い天井。おそらく床も白いのだろう。純白のシーツが敷かれたベッドからは柔らかい感触が返ってきて、さっきの何もない世界とはうってかわった、あらゆる刺激に埋め尽くされた現実世界に戻ってきたのだと知った。
居心地の悪い現実の世界。帰ってきてしまった、と思った瞬間、ではあの世界は何だったのだろうと思った。が、考える暇は与えられなかった。
「起きたな。行くぞ」
感情を抑えた声がした。見れば、一角徹也が壁際に座っていた。両目には憎しみが込められている。まなじりをつり上げながらも、極度に感情が抑圧されているせいで何を考えているのか読み取れない。実際、焦点はどこか遠くを結んでいるようで、少なくとも目と目があうことはなかった。
(僕を殺したいんだな、お前は)
口に出した瞬間、首を絞められるだろう。嗤うような気持ちで思い遣ってやることにした。
巧は何もしゃべらず自分で起き上がって、ベッドの傍に置かれていた靴を履いた。徹也が白い部屋から出て行った。ドアは自動スライドだった。徹也を追って、見知らぬ施設の中を進んだ。
白い照明がすべてを照らす、汚れのひとつもない綺麗な廊下。すべてが整然としていて、学校なんかとは比べものにならないほど規律が遵守された場所なのだとわかる。
燃やしたい。巧はそう思ってしまったが、実行に移そうとは思わなかった。徹也がデカイ態度をとってくるということは、ここはあいつのフィールドということ……敵地なのだ。下手に暴れると本当に処分されてしまう。いったいここが何の施設なのかは知らなくても、それくらいのことは理解できた。
広めの個室に通された。感覚的に、校長室と似た雰囲気がある。大きなデスクに厚めのクッションの敷かれた椅子がひとつ、窓際にセットされている。窓は一面ガラス張りで、夜景が綺麗だった。手前には一組の応接セットが置かれており、黒革の二人掛けソファが二つ、ガラステーブルを境に向き合うように配置されていた。絨毯の敷かれていない黒い床は硬く、証明も光量が絞られている。暗室とまではいかないが、決して明るくはない。刑事ドラマの取調室の印象に似ていた。
「目が覚めたか、魔人の少年」
「ケッ。よくもまあ眠れるな。オレなんてテメエのせいでイタリアから寝ずに呼び出されたってのによ」
室内には二人の男がいた。窓際のデスクの椅子に深々と腰掛けている中年がひとりと、応接セットのソファに横柄に腰掛けている外国人の青年がひとり。中年の方は白髪混じりで、校長とも教頭ともつかない雰囲気を感じさせる。他方、青年の方はヨーロッパ系の顔つきで年齢が読めない。しかし中年男を前にかしこまる様子もなく足を組んでいるし、出された茶をすでに飲み干しているし、おそらくまだ若いのだろう。
しかし対照的な二人だった。フォーマルとラフで見た目も違えば、性格も真逆だろう。
(似たような奴らばかりの学校より、マシか)
巧は率直にそう感じたが、室内の雰囲気は教室のそれよりも数倍堅かったし、なにより殺気立っていた。二人の威圧的な雰囲気から察するに、ここは敵地の中枢なのかも知れない。
巧は掌が汗ばみ始めたのを抑えるように、一度拳を握り直してみた。
「徹也くんもお疲れさま。よく殺さず、ここまで連れてきてくれたね」
「いえ。任務ですので」
「ヴィトを殺った奴だってなのになあ。ホント偉いぜオマエ」
「……いえ。では自分は、これで」
「ありがとう。下がって良いよ」
「失礼します」
徹也はやはり優等生らしく綺麗なお辞儀をして出て行った。外面だけは完璧な男――巧はその頭に唾を吐きたくなったが、やはり実行に移す気になれない。二人から感じられる殺気があらゆる行動をためらわせる。
身がすくんだ。
「それでだ、魔人の少年よ」
「巧、です」
「何かね?」
「藤堂、巧です」
「そうか」
中年の態度はにべもなかった。舌が乾きそうになりながらも抗弁するつもりで名乗ったが、頑固に名乗ったことが恥ずかしく感じられるほど、動じてくれない。
それは青年の方も同じだった。室内に冷めた雰囲気がたちこめる。
「偉く図太いヤツだなテメエ。いますぐ殺してやっても良いんだぜ? ハッ! モルモットみたいに泳がされてるって現実を認識してねえんだな」
「お顔の割に、ニッポン語がお上手なんですね」
「……マジで殺すぞ、テメエ」
「魔人の少年、君は起きたばかりで何もわからないのかも知れないが、我々は君をいつでも殺す用意がある。だがそうしていない。これから用事を話す。黙って聞いていてもらえないか」
「用事、ですか」
「黙ってろって言ったろ!」
青年が立ち上がり、素早く巧の胸ぐらを掴んで突き飛ばした。尻餅をついて睨む巧を、中年はデスクにおさまったまま見下ろして告げた。
「君が殺した我が同胞、ヴィトは非常に強大な力をもつ戦士であると同時に、大きな重責を担う騎士だった。彼が死んだことで、追跡者を封印するための魔術兵器“ゴエティア”にアクセスすることができなくなったのだよ。臨時的に、イタリアから混沌魔術を扱えるウーゴさんにわざわざ来て貰ったが、限界がある……そうですよね?」
「ああ。オレが着用する魔書業鎧は最新のOSを搭載してはいるし、だから最高クラスの完成度で過去の魔術をコピーできる。つっても、コピーはコピーだ。ヴィトさんのように強大な封印を維持しつづけることはできないだろう。だから、今ゴエティアを攻められたらやべえ状況ってわけだ」
「というわけだ。君には想定されうる最悪の事態を防ぐべく、次元空間にて秘匿されている封印牢獄を破壊する力をもった高位の追跡者どもを片っ端から狩り尽くしてほしい。当然我々警察機構からもサポートはさせてもらう。ウーゴさんたち“組織”の戦力を借り受けることもすでに合意済みだ。君が担当するのは最高位の追跡者“バエル”。アレの相手さえしてもらえれば、それだけで良い。いいかな? 君はアレに何度か出くわしたこともあるそうじゃないか」
「バエル? ああ、でもそれこそ、あのヴィトって人に横取りされて」
「うるせえ!」
言ったそばからウーゴが胸ぐらを掴んで無理矢理体を起こしてくる。だが今度は殴られることもなく、突き飛ばされることもなかった。まるで炎が噴き出るのではないかと思えるほどに強い怒りを示した両目を向けられ、「全部、テメエのせいなんだぞ」と低く吐き捨ててきた。唾がとんでくるが、構っている余裕もない。
「ヴィトさんが死んで、ゴゥエが砕け散って、何体かの追跡者が牢獄から脱走したんだぞ。あのバエルを封印して……その日のうちに宴が開かれる予定だった。ヴィトさんが任務から戻ってきたら必ずってな。イタリア住みのヴィトさんの奥さんだって、日本に呼んでお祝いしようって。台無しになっちまった。全部、テメエのせいなんだよ!」
すべて言い切って満足したのか、今度こそ突き飛ばされた。また尻餅をついて、痛みには顔をしかめるしかなかった。
全部、テメエのせい。はたして本当にそうなのか。勝手にバケモノ扱いしてきたのもあちらなら、ナイフを突き刺してきたのもあちらだし、最終的に家を燃やして両親ともども殺してやると言ってきたのもあちらだった。
僕はただ自分と自分の家族を守っただけだ。それなのにどうして……僕は、生きていてはいけない人間だとでもいうのか。社会の教科書に記されている“基本的人権”さえ適用されない、差別されて当然の人間とでもいうのか。
ふざけるな。結局、いじめと同じなんだ。一方的に見下し、傷つけていい人間と勝手に設定して、好き放題やっているだけ。抵抗した瞬間被害者面されてさらにエスカレートしていくのも、すべて同じだった。
にらみ返そうとして視界が滲んだ。泣き顔をみられるわけにはいかない。ただ、悔しかったのだ。
あのヴィトとかいう殺人未遂の男に奥さんがいたとか、祝宴の予定があったとか、知ったことじゃない。僕はただ必死に抵抗して、当たり前の人生を守ろうとしただけで。それなのにどうして、こんな扱いを受けなければならないのか。
ため息を吐き出したくなったが、抑えるしかなかった。涙まで出てきてしまいそうだった。




