それは救済の夢。
その背中を引き裂き、臓腑をほじくり出して、その心臓を握りつぶしてやる。これまで僕がそうされてきたように、お前の全身を弄んでやる。
(僕にはその権利がある!)
復讐の時は来た。そのためにこの体が化物になったのなら、化物として生きてやる。もうすでに死んだ身なら以降の人生なんてどうだっていい。
大和田猛の屈強な背中も、いまは怖くない。矮小なニンゲンの体ごときこの指先ひとつで簡単に切り裂ける。巧はすでにこの力を理解していた。それはまさしく超人的な力だった。
一秒で追いつき、その次のコンマ五秒で指先を大和田猛の背中に食い込ませる。
瞬間、もっとも大きな歓喜が心の内に噴き上がる。苦しかった学校生活が、いまここに終わるのだ。まさに人生の総決算だった。
が、その拡張された聴覚で横槍の声をも聞き取ってしまった。巧は思わず、声のする方を確認する。
「そのへんにしておけよ、新人」
「何だ?」
巧は首を傾げた。そして大和田猛の背中が、何故か消えた。代わりに、白色のスーツを着用した奇人――それは、まさに自分と同じ存在――巧はまたも瞬時に理解する。
額から三〇センチメートルほどの一本角を生やした、白と青の表皮を纏うそれは、巧の新たな肉体がもつ毒々しい印象と比べればはるかに美しく、聖騎士、あるいは王子様といった高貴な印象を与えた。
そいつに手を掴まれ、直後、ひねりあげられた。
「邪魔を!」
叫んだが、相手の腕力は強靱だ。腕をひねりあげられたことで体の動きを止められ、その挙げ句、キックで吹き飛ばされた。駐車場の端から端まで転がった巧は、起き上がった瞬間、剣の切っ先を眼前にみとめた。
「諦めろ。死にたくなかったらな。人間を殺せば本当の化物になるぞ。踏みとどまれ……化物の力に、飲みこまれるな」
それは力強い言葉だった。だが、単なる理想論であり、あるいは、一般的な道徳心の一方的な押しつけでしかないということも、巧はよくよくわかっていた。その類いの言葉は何度も聞いた。聞き飽きた。要は、何も解決しない事なかれ主義の教師の言葉と同じなのだ。
「何もわからないくせに。僕が、あいつにどんなことをされてきたかもわからないくせに! ふざけるなよ。僕の人生は、この時のためにあったんだ!」
復讐の時がやってきた。これまでは力に組み伏せられ、多数派の圧にも押されて、渋々飲まされてきた腐った現実を、ようやく清算する時が訪れた。千載一遇の好機を逃すバカなどいない。
巧は突きつけられた剣の、その白刃を迷わず握った。ためらうことはない。邪魔をするものはすべて排除する。それだけの力が自分にあることはもうわかっている。
手の平が残らず切り裂かれて鮮血が噴き出したが、結果はそれだけだった。血の滴るまま白刃を握り、折る。
もう怖いものなど何もない。この身に宿った復讐の力はあらゆる行為を実現してくれる。誰にも邪魔されずに復讐する、これはそのための力だ。そのはずなのだから。
巧は再び大和田猛の背中を視界に入れた。
直後、折られた剣を捨てた一本角の奇人――いや、怪人が立ちふさがってきた。
「どうやら、お前は人間の時からすでに化物みたいな心を育てていたようだな。仕方ないな。俺がお前を倒してやるよ」
「育てた? そうさせたのは誰だ? それくらいのこともわからないくせに、僕の前に立つな!」
巧は拳を握り込んだ。鮮血の滴る拳は何よりも硬い。今なら学校の壁さえ簡単に打ち砕ける気がした。目の前の怪人の腹を貫いてやるくらい、どうってことはない。
勝利を確信した巧は一歩を踏み出し、直後、その拳を突き出した。
刹那。
明瞭に見えていたはずの一本角の怪人は、突然、ぐにゃりと歪んだ。いや、一本角の怪人だけではない。世界のすべてがぐにゃりと曲がって捻りあげられ、巧は瞬時に、何もかもがひん曲げられた幻の世界に落ちていった。
落ちながら、眠っているのか起きているのかもわからなくなった。体から一切の平衡感覚が奪われたのだが、その理解さえその時の巧の認識能力では不可能だった。
※
目を開けると、夕焼けに赤く照らされた天井が見えた。そこは保健室……もちろん、今は一瞬で理解できた。何度かみている。
巧は起き上がると、保健の先生に体の異常がないことを報告した。反対に、巧はこれまでの経緯を聞くことができた。どうやら学校の駐車場に倒れているところを、とある三年生の男子がおぶさって運んできてくれたらしい。
その男子が匿名を希望したため、名前を教えることはできないということだった。礼を求めて人を助けたいわけじゃないと、実に爽やかに去っていったのだという。保健室の先生いわく、イケメンくんだったらしいがどうだっていいことだ。
目をこすりながら保健室を後にした巧は、ふと己の両手をみた。
肌色をした、か細い自分の両手。
先程まで見ていたはずだった、毒々しい肌の、化物の表皮を纏ったあの両手はどこへいったのか。
普通に考えれば、あんなものが現実であるはずがない。校舎から飛び降りたところから含めて、すべてが夢だったと片付けてしまうのがいちばん無難だと思えた。それほどまでに保健室は静かで落ち着いていたし、窓越しに見える駐車場の様子も、何事もなく平穏としていた。血も肉も見当たらず、砕けたはずの自分の肉体はちゃんとここにある。
生きている。それは本来、喜ばしいことだ。
ならば、あの死の実感――飛び降り自殺の記憶は何だったのか。夢だった、というしかない。そう結論するしかない。化物なんてこの世にいるはずがないのだから。
巧は寒気を覚えて震えたが、一歩を踏み出して下校した。大和田猛とその取り巻きたちは、今日は珍しく先に帰ったらしい。校舎にも下校路にも、奴らはどこにも潜んでいなかった。
珍しい。まるで夢のようだ。だが、これは明らかな現実だった。
あるいはあいつらに殴られて気絶させられたから、僕は保健室で寝ていたというのか。その可能性が非常に高い。
そう思えば、全身がかるく痛む気もしてくる。だがこれは服を脱いであざを確かめてみなければわからないことだった。面倒だ。やはりそれも、もうどうだっていい。生きることも、何もかもがどうでもいい。どうせ明日も殴られる。
帰宅した。両親が去年のクリスマスプレゼントに買ってくれた最新型のゲーム機を起動して、居間の大画面テレビで遊び尽くすつもりだった。
家に帰ってしばらくすると共働きの両親が帰ってくる。夕方五時にはきっちり仕事を終える両親が残業で遅くなったことはほとんどない。それでいて仲良く揃って帰宅してくる父と母は毎日、仕事帰りに買い物にいく余裕があった。
アニメや漫画では、両親が共働きという設定はしばしばその家庭の子どもが孤独であることの記号になる。だが巧の家に限っては、共働きというのは両親が揃って仲良く帰ってくることだった。
やっぱり僕は恵まれた家庭にいるのかも知れない。巧はそう自覚しつつも、しかし、だからといってその小さな幸せを言いがかりにしていじめをしかけてくる猛の内心は、絶対に理解できない。
『オレの母ちゃんはパートさえ苦労してさ、いつもストレスまみれで帰ってくる。父ちゃんは朝帰りで、酔っ払って帰ってきて、母ちゃんとケンカばかりだ。なのにオマエの家は……ふざけんなよ、なあ!』
猛からいつか言われた言葉が記憶の底から木霊してくる。同時に、怒りがわき上がってくる。
ふざけるなと言いたいのはこっちだ。何故、幸せであってはいけないのだろう。勝手に突っかかってきて、一方的に殴ってくる。そんな権利なんて、誰も持っていないはずなのに。
次は殴り返してやりたい――自室のベッドに寝転んで、巧は天井のシーリングライトを己の五指で覆い隠すように右手を掲げ、そして拳を握ってみた。夢でみた化物の腕が思い出された。あの夢の中で発揮していた超人的な力を想起した。
あいつくらい、簡単に殴り殺せる。そう思えば満足できた。猛を殺す場面を想像しながら、快く眠りに落ちた。
※
やはり、これは紛れもない現実だった。登校した瞬間その事実を突きつけられた。
片方しかない靴。もう片方はおそらく教室のゴミ箱か、あるいは体育倉庫のどこかに埋まっているだろう。ため息を吐き出して、いっそ内履きを履かずに学校に入り、来賓用のスリッパに手を伸ばそうとした、その時だった。
「それはお客様用だ。お前は生徒だろ、な?」
体育教師の田口だった。サッカー部のコーチを務めており、同じくサッカー部の顧問でもある担任の福原とは仲がいい。同時に、体育の授業では優等生である大和田猛とも友人のように話しており、つまりは巧のいじめを容認している大人のひとりだった。
「上履きが隠されてて」
「ほう? 誰がやった?」
「わかりません。でも、いつもは大和田くんがやります」
「アイツがそんな馬鹿げたことをするはずがない。そうだろうが。あいつはな、口は悪いが根は良い奴なんだよ。能なしなお前がなくした上履きを、あいつがいつも親切に見つけてやってんじゃないのか」
「そうかも知れませんね」
「見つかるといいな、上履き」
田口は巧の肩をぽんっと親しげに叩くと、小声で呟いた。
「客用のスリッパを汚すんじゃねえぞ。掃除してんのは俺たちなんだからな」
お前のことなんてどうでもいい。仕事を増やすな。つまり、そういうことか。
巧は拳を握ったが、相手は教師だ。教師を殴るわけにはいかない。内申点という言葉は、もう中学生の頃から知っている。
「はい。ちゃんと、探します」
巧は田口に頭を下げると、結局は靴下のまま教室まで行った。教室に入ると、机の上に上履きの片割れが置いてあった。それを持ち上げ、異常がないか確かめていると、そう遠くない席から視線を感じた。
大和田猛とその取り巻きたちだった。クスクス笑いながら巧を見ている。
「よかったなあ、見つかってさあ」
猛が笑いながら声をかけてくる。巧は上履きを持ち上げて窓に投げ捨てたかった。しかし堪えて、それをもって玄関まで戻った。
ようやく揃った両の上履き。履いた瞬間、靴箱を蹴った。重い音が響くと同時に、つま先に痛みが広がっていく。どうして自分が痛みを覚えなければならないのか。本当に痛みを感じなければならない奴は他にいる。
教室に戻るまでの間、巧は昨日みた夢のことを思い出した。気にくわない一本角の怪人が邪魔に入らなければ、猛を殴り殺せていた。あの一瞬を思い出して、刹那、壮絶な快楽が巧の全身を疾走し、思わず震えた。
僕にもいつか、あいつを殺せるだろうか。もしそんな未来があって、あの夢がその暗示だとしたら――もしそうなら、今を生きていける気がした。あいつらを血祭りにあげるために、復讐の機会を掴み取るために、この人生があるのだとすれば。
復讐、殺人衝動。あの不可思議な夢が与えてくれた新たな感情の萌芽だけが、今や支えになる。その願望だけが、長い苦しみしかない、あの教室に入る力を与えてくれる。
あれは最高の夢だった。
いつか殺す。そう思えば、あいつらの不快な笑い声も無視できる気がした。
生きていけそうな気がした。