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救いという呪詛。

 自分の人生は自分の力で切り拓くしかない。本当に困っているときは誰も助けてくれない。それが他人というものだ。だから最後に頼れるのは自分だけなのだ。


 学校がいじめという特別カリキュラムで教えてくれた、きっと人生で一番大切なこと。


 その学校から電話がきていた。ナンバーディスプレイで番号を確認した上で不在着信からリダイヤルする。気分が悪くなったと告げ、今日は行けない旨を伝えた。いつもならそんなことは困ると言ってきそうな教師たちだったが、今回は昨日の今日、気分が悪くなるのも当然と慮ってくれた上で、待機している警察側にも事情を伝えて明日にまわしてもらうようにする、などとずいぶん殊勝な態度をとってきた。


 電話を置き、巧は自分の部屋のベッドに背中をあずけた。


 大きくため息を吐き出そうとしたが、馬鹿馬鹿しくなって普通に息を吐くことにした。


 まだ両親は帰ってこない。帰ってきたからといって何かができるようになるわけでもないし、むしろできないことがひとつ増える。外出するにもいちいち挨拶や許可が必要になってしまう。「この時間に外出するの?」母は心配そうに問うてくる。大和田たちに呼び出されて出発し、その後痛めつけられて帰ってくる息子をみつづけてきた結果、母の神経は過敏になっていた。おかげで正当な理由を用意できなければ自由に外出できない。


 かといって外に出て特別なことがあるわけでもない。僕の人生っていったい、何なのだろう。


 キミの中には何もないって言ってるの。


 妖狐に言われたことが頭のなかで何度も何度もはね返って、傷を抉っていく。


――誰かを殺したところであなたの人生はひらけない。努力なさい、己を高めなさい。誰かを貶めるのではなく。自分自身を高めるのです、強者になるのです。


 さらに妖狐の主にも言われてしまった。あれはまさに強者の言葉だった。強い言葉を一方的に投げつけるのもまた、いじめと何ら変わらない。


――悔やみを力に変えなければ、何の学びにもなりませんよ。悔いは糧。活かしなさい、すべてを。


「黙れよ、黙れ」


 今は叶わない反論を、ひとりの部屋で呟いた。呪詛でしかないが、それこそが救いだった。呪詛をぼそぼそとこぼして、たまった本当の気持ちを吐き出して、少しだけ楽になれる。これが救いだった。現実を自分の力でどうにかするなんて、圧倒的な理不尽の前では無理な話だ。たとえば、迫り来る洪水を自分の力で押し戻すなんてできるはずがない。どうにもできないものは、やっぱりどうしようもないのだ。


 部屋が暗くなっていく。電気をつけることも忘れて、やがて黄昏がやってくる。中学のころに父から買って貰ったコンポのリモコンに手を伸ばそうとして、やめた。聴きたい曲があるわけでもない。音楽を聞いたところで現実はなにひとつ変わらないのだ。


 何をしても無駄なように思えて、何も、することがなかった。



 両親が帰ってきた。同じ職場で出会って結婚し、巧を産み育てても、未だに恋人のような関係性を変えない華やかな夫婦だった。この家はそんな夫婦の持ち物だった。


 父は欲しいものを買ってくれる。母は料理をつくってくれる。ふたりとも仕事から帰ってきて疲れているはずなのに、一緒に料理をつくれば辛いことなんて何もないと言って、父と母はいつも笑いながら料理をつくり洗濯をして風呂も沸かす。


 幸福な二人。僕はそんな夫婦の持ち物だった。だから、僕の中には何もないのかも知れない。持ち物に魂が宿る必要はないのだ。


 そんなことを思ったとして、しかし現実が変わったりはしない。


「ご飯、おいしい? 今日はお父さんが揚げてくれたんだよ」

「ありがとう、二人とも」

「天ぷらなんて久々だったし、失敗してなけりゃいいんだけどな」

「私が見てたんだから大丈夫よ。さ、食べましょ!」

「いただきます、お父さん、お母さん」

「召し上がれ」


 父が丹精込めてあげてくれたらしい天ぷらを最初に食べた。自然と笑顔になる。美味しいのは本当だった。だが、それで人生が変わったりはしない。むしろそのまま変わることなくいつも通りに一日が終わっていくだけだ。



 風呂に入れば気持ちよくなれた。かといって何か新しいことが得られたわけでもない。


 牛乳をのみながらリビングでテレビをみた。いつものニュース、くだらない報道――水泳選手が最年少で世界規模の大会に優勝したという。年齢をみた。14歳――中学生。


 僕よりも年下なのにすでにこの人は社会で頭角を現わしている。己の人生はこれだ、というものをもっている上、それを他人に喧伝できるレベルにまで高めている。


 テレビを消した。


――自分自身を高めるのです、強者になるのです。


 頭のなかに響きつづける大いなる者の声は消えてくれない。僕の人生も消えてくれない……まだ消したくないと思ってしまっているのだ。


 僕はいったい何だろう。何もすることがなく、何もないのに、死ぬことだけが怖くて仕方がない。その死さえ、今や二度も経験したというのに。そんな体験をしてもなお僕の中には何もないというなら、これからどんなことをしたとしても、僕の人生の持ち物は増えず、一生両親の持ち物のままの人生を過ごすのではないか。


 ベッドに伏せって布団をかぶって目を閉じた。


 眠れなかった。


 何度も寝返りをうって、そのたびにスマホに手を伸ばした。ゲームを起動しようとして、ふと思った。こんなものが何になる?


 それでも、すぐにゲームを起動していた。他にすることがない。眠るためには頭を疲れさせるしかなかった。


 心も体も疲れていない。一度死んで復活した際にあらゆるものが再構成された今の肉体は、むしろ動き回りたがっている。だから何度も寝返りを打ちたがる。


 叫びたくなったが、ここは家のなかだった。あらゆる衝動を抑えて、夜中のゲームにのめりこんでいった。


 バカみたいな人生。もうどうしようもないと思えた。ゲームの画面のなかは、しかし燦然とした功績が表示される。


(こんなの、できたって……)


 スマホを投げ捨てたくなった。ついでに我が身を窓から投げ捨てたくなった。それで死ぬことができないことは、体験済みなのに。



 いつの間にか寝ていたらしい。目が醒めてそれがわかった。気持ちよくもなんともない、ただ気づいたら起きていたというだけの生理的反応ともいうべき起床だった。


 リビングに降りたら、出勤直前の母に言われた。


「あのクソ担任から電話あったよ。昨日は来れなくて心配だったけど、元気だったら今日は来て欲しい、警察の人も待ってるからって。朝からうざったい声だったわ」

「学校から?」

「そんな感じ。でも静かだったよ。あのクソ担任、きっと他の教師が休んでいる間に呼び出されてるのよ、無理矢理。いい気味だわ」

「そうだね。じゃあ、その顔をみてやらないとね。どんな風だったか教えてあげるよ」

「別にいいよ。あのクソ担任のことなんてどうでもいいわ。巧も無理に行くことはないんだからね」

「大丈夫。することもないしさ、暇つぶしに行ってくる」

「そう? じゃあ気をつけてね。私も行ってくるから」


 母は手を振り、スーツ姿で出て行った。同じくスーツ姿の父と戸口で合流し、二人はもう一度巧に手を振ってから扉を閉ざした。


 笑顔も声も車道の音も、扉ひとつで遮断され、巧はまた独りになった。


 前までは独りの時間が嬉しかった。それは誰にも害されることのない、自由が約束された、本当に素晴らしい時間だった。だが今は、何もない自分と対面することになる恐ろしい時間になりはてている。


 あの言葉のせいだった。いじめのような、呪詛のような、己の在り方をたったひと言で看破し規定してしまったあの言葉のせいだった。


 キミの中には何もないって言ってるの。


 いてもたってもいられない。何かをせずにはいられない。


 巧はまた学校に行った。

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