もう要らない救い。
「待てよ」
治癒が完了し、フェニックス妖狐態は立ち上がった。同時に声がした。
「お前は……」
腹ばいになって、片手で何とか立ち上がろうとしているユニコーン・通常態の姿がみえた。自然と見下ろす形になったが、その瞬間、ユニコーンは激昂して叫んだ。
「黙れ! ふざけるな!」
声が掠れるのもかまわず、ユニコーンはフェニックス妖狐態を睨みあげた。その体色は灰から白に戻っていた。心身の支配権はアムドゥシアスから一角徹也に戻されたようだ。
「なんなんだよ、お前」
フェニックス妖狐態は舌打ちした。見下ろされるのが嫌だったらさっさと起き上がればいい。それができないくらい体が痛むんだったら、僕が立ち去るまで死んだふりでもしていれば良かった。なにせ僕はお前のことなんて忘れて、学校のことさえも忘れて、半殺しの状態から回復したのをただ喜んでいたのだから。
フェニックス妖狐態はおかげで、憎悪を思い出してしまった。徹也の憎たらしい声を聞いたせいで学校に用事があったことも思い出してしまった。もう、家に帰ることもできなくなった。学校に行くにしても、遅刻したことを教師や警官たちに形だけでも謝罪しなければならなくなった。
面倒くさい。ぜんぶお前のせいだ。殺してやる。
「何だったんだよ、お前は!」
フェニックス妖狐態は吐き捨てるように声をあげ、唾を吐くようにキックを繰り出した。妖狐態特有の爪のついた足先がユニコーンの胸を強打し、同時に裂傷を与えた。
ユニコーンの胸部はプレートのように硬質に発達した組織に守られている。一文字に傷がついただけで流血には至らない。だが強打の衝撃によって、起き上がろうとしていたところを仰向けにさせられた。
容赦はしない。殺すと決めたのだから。
「答えろ。結局お前は何がしたくて僕の前に立ったんだよ、なあ!」
答えなど欲しくはなかった。ただ屈服させてやりたかった。身体を傷つけるのは今や簡単だった。妖狐態の力をつかえばいいのだ。だが心を抉ることはできない。言葉でしか、心を屈服させることはできない。
だから巧は――フェニックス妖狐態は口を開きつづけた。
「答えろ!」
「守り、たかったんだよ」
「何だ?」
「俺は、誓ったんだ。絶対に、守るってな」
答えなど求めていない。屈服させることが望みだ。徹也が自慰にも似た言葉を出しきってしまう前に、足裏でユニコーンの胸部を押し込んだ。踏みつけにして、見下してやる。あとは足の力を強くしていくだけで良い。やがて心臓は潰れ、背骨も砕けるだろう。
「守るって、誰をだよ。僕がどんなに殴られても放っておいた奴らを、守る? 何が誓った、だ。そんなに強く誓えるんなら、僕がいじめられてる時にも、同じように、誓ってくれても良かったじゃないか!」
一角徹也、こいつはやはり終わっている。間違っている。守るだとか誓うだとかそんな清潔な言葉を都合のいいように使うことで自己陶酔に浸ってばかりだ。自己陶酔では誰も救えない。そればかりか救われない被害者の憎しみを引き寄せる。
この憎しみのためにお前は死ぬのだ。お前が引き寄せた自業自得の憎しみの中でお前はこれから殺されるのだ。
フェニックス妖狐態は手の平をユニコーンの頭部に向けた。ためらうことは何もなかった。むしろそうすることが当然の義務だとさえ思えた。もう足の裏で心臓を潰すまで待てない。狐火を射出して、その腐った魂ごと火葬してやる。
怒りに燃えた熱い憎しみで狐火を点火した。火炎の球弾が迸り、すぐ近くのユニコーンにぶつかるのも一瞬だった。
刹那、ユニコーンの顔も含めた世界のすべてが溶け崩れ――空間の転移が始まった。
『殺生はダメ。とくにその一角獣の騎士を殺めることだけは』
妖狐の声がきこえてくる。さっきまでは警告や助言をしてくれたはずのその声が、いまは巧を牽制してくる。
「何ですか? 僕の味方じゃ、なかったんですか」
『違いないわ。でも私には主がいる。あなたが主様の命に背こうとするなら、それを止めることも私の仕事』
「僕には関係ない」
『そう。あなたには関係ない。これはぜんぶ私たちが……いえ、我ら大いなる者とその眷属が、勝手にやってることに過ぎません』
景色が歪み、学校近くの団地の一角から一転、山奥の祠へと転移する。
空間移動。もう見慣れ過ぎて超常現象のありがたみも感じない。ついでにいうと、古き社に対する威厳も感じなくなっている。もう、ただうざったいだけだ。
『悪いけど死んで貰うわ。こうすることもできるんだって、わかってもらうためにね』
「は? いま、なんて」
巧は呆れて笑った。それくらい突拍子のない殺人予告だった。突然すぎて、軽すぎる。蚊を潰すくらいの軽さで口にしていい言葉じゃない。
さっきまでは一緒に戦っていたはずなのに、ユニコーンを殺すために協力していたはずなのに、最後の最後で裏切ってくる。最初に説明すべきだったことを、最悪のタイミングでうちあけてくる。うざったい以外の感想があるだろうか。
じゃあさっきまで一緒に戦っていたのは何だったのか。追跡者に呑まれてしまったユニコーンを、一角徹也を、殺すために戦っていたんじゃなかったのか。
「妖狐さんは、どうして戦っていたんですか!?」
『二度も言わせないで』
「答えてもくれないんですね。それで僕を殺すって言うんならなら……僕が、先に!」
『……なるほど?』
憎しみで紫色の炎を燃やし、心に巣くう妖狐を焼き殺す……巧はそんなイメージを脳裏に描いた。それだけで心が熱く、静かになっていく。うるさい幻聴は聞こえなくなった。
あんたは僕の心のなかにいる以上、僕の心に燃える炎からは逃げられないはずだ……巧は勝利を予感した。だが、戦闘を重ねてきた経験がそれは錯覚だということも、自ら把握してしまう。
「……簡単にはいかないか」
『先に牙を剥くなんて、まあ好都合だわ。ちょっとショックだけどね、あなたは、いい子だったから』
妖狐の幻聴が遠くから聞こえた。心のなかにはもういない。つづけて、巧は白い布地をみた。それは赤く縁取りされた巫女装束だった。妙齢の女性が着用している。
いつも妖狐態に変化する時に現われる、あの神霊のような女性だ。妖狐はいま、巧の心の中から外界へと出てきたらしい。
フェニックスの身体もそれにともない変化する。まず全身の体毛が消え、狐の耳も引っ込み――妖狐態は完全に解除され、通常の形態に戻っていく。毒々しい紫色の表皮に、鶏冠か翼を思わせる左右一対の突起を頭から生やす――鳥人、鬼人、どちらの特性もあわせる異形、封印騎士“フェニックス”通常態は、暗く熱い紫色の炎をいま再び全身に纏った。
以前よりもこの力をイメージ通りに発現させられるようになっている。巧は再び通常態となって、実感した。妖狐とともに戦い、培ってきた戦闘経験が追跡者の力を肉体に順応させているらしい。そういう意味では、巧は妖狐にお礼をいいたい気分だった。敵にならなければもっとよく力を使えるように導いてくれただろうに……内心、そうも思ってもいる。
刹那、爆炎が巧――フェニックスの視界を覆い尽くした。
妖狐そのものから放たれる本物の狐火だった。封撃幽殺並みの威力があり、周囲の大気が高熱によってプラズマ化している。文明を滅ぼす大火をフェニックス一体にだけ向けて撃ち放ったのだ。
光栄なことだ。フェニックスは笑った。
「なら僕も、全力で!」
歓喜の声で応じる。フェニックスはどこまでも飛び立っていきたいような高揚感で胸を満たした。その意志に呼応するように、光り輝く炎の翼が背中から迸る。黒々とした紫色の翼だ。それは激しく燃え上がって金剛石のような輝きを帯びた。
フェニックスは光の翼をしならせるや、羽ばたいた。それだけで地表から大きく離れ、狐火をゆうに飛び越える。直後、急降下し、飛び蹴りを妖狐に対して繰り出した。
「これで!」
尖ったつま先が妖狐の腹に食い込み、突き破る――瞬間、妖狐の全身が煙のようにかき消えた。
化かし合い……ユニコーンとの戦闘中、妖狐は何度もそう言っていた。その言葉が背筋を凍らせながら巧の脳裏に再生された。
『キミはまだまだ若い。力も、戦い方も、まだその程度』
妖狐の声が耳元で聞こえた。いつからそこにいたのか、右肩に妖狐の豊かな胸が当たった。至近距離に接近されたのだ。
「僕を、からかって。バカにするのか!」
『キミの中には何もないって言ってるの』
人の姿をした妖狐と目があった。相手は笑みを絶やさぬまま音もなくキックを繰り出してきた。
『どんな自分になりたいの? どんな力をつけたいの? あなたの望みは何?』
「そんなもの、何もない。こんな腐った世界の中じゃ……壊したいだけだ!」
妖狐のつま先を回避し、反逆の拳を突き出す。妖狐の顔面に恐れず叩き込んだ。
『それじゃあ強くなれないよ』
「決めつけるな」
拳がかわされた。妖狐の身のこなしはほとんど視認できなかった。何故かかわされ、そしていつからそこにあったのか、妖狐のつま先が再び腹にむかって伸びてくる。
「ッ!」
『ごめんなさいね』
一撃だった。フェニックスの腹に大穴があいた。それは漫画やアニメみたいな壊れ方だ。だが、人体は想像以上に脆いものらしい。強烈な衝撃を一点にうけただけで上半身と下半身が分離する。
痛かった。壮絶な痛みに、脳がスパークした。それはしかし一度体験済みの痛みだった。学校の窓から飛び降りて死に損なって苦しんだ、あの時に感じたものとほぼ同じ痛みだ。
二度と味わいたくなかった。だから復讐を決意した。この痛みを与えるものどもに等しく罰を与えてやるとそう決意して、力を授かった。そのはずだった。なのにその力を用いても乗り越えられない大いなる存在が、一方的に裁きを与えてくる。
(どうしてだよ)
これが現実だというのか。フェニックスは、巧は、憤怒した。
下半身が離れていく。フェニックスは壊れた人体模型のようになって、それでもなお紫色の炎を纏いつづける上半身で飛ぼうとしたが、しかしすぐに重力に囚われて社の階段の上にぼとりと落ちた。さらに落下の衝撃で階段を転げ落ち、山道のただ中に放り出される。古き社の領域の外に捨てられたのだ。
朦朧とした視界のなかで、巧は両腕で我が身を支え、半身を起こして天を仰ぐと、視界に映る妖狐を睨めつけた。
『キミには……いえ。あなたにはただ、私たちの救いを受けて欲しい。それだけなのよ』
妖狐は艶然と微笑むと、にべもなくそう告げてから消えた。
ひとり取り残された巧は、何もいえずに歯ぎしりをした。ただ幻聴だけが社の方から聞こえてくる。
――これが我らの力です。わかったでしょう? 我らは人智を超えた存在。あなたたち人の民は我々に従うしかない。
何が救いだ。そう言いたかった。叫びたかった。だが、下半身を失った時に臓器もいくらか失われたらしい。声を出す前に息を吸い込もうとして果たせず、そのまま酸素が欠乏して意識を失うことになる。
――誰かを殺したところであなたの人生はひらけない。努力なさい、己を高めなさい。誰かを貶めるのではなく。自分自身を高め、強者になるのです。
巧の頭がゴン、と音を立てて地に落ちた。背中から迸る紫色の炎の翼は轟々と燃え盛り、やがて巧の遺骸を自ら火葬していく。
(誰かを貶めちゃいけない? 殺しちゃいけない? なら、これまで痛めつけられて、貶められてきた僕は、いったい何なんだ? 僕の人生っていったい、何なんだったんだよ)
――悔やみを力に変えなければ何の学びにもなりません。悔いは糧。活かしなさい、すべてを。
(あんたに、何がわかるんだ!)
肉体は消えても無念と憎しみは消えない。暗い憎しみの主である巧の怒りを具現するかのように、不死鳥の炎翼は黒く熱く、巧の骸を焼き焦がしていった。
肉や骨は燃えて灰になり、最後まで残ったのは眼球だった。それは非情で不合理なこの世界を睨みつけるために最後まで残っていた。むせかえる憎悪の熱波のなかで世界を見渡した眼球が、やがて灰になって消えたとき、翼は独りでに羽ばたいて現世から飛び去ってしまった。
現世から飛び去った炎の翼が巻き起こす風は、灰と化した肉体を揺らめかせてたち昇らせる。そうして上へ上へと天に昇っていく灰の塊がやがて人の形になったとき、紫色の炎がまた燃え上がり、黒々とした憎悪の光条を混ぜ合わせた紫炎の肉体が練り上げられた。
毒を想起させる紫色に黄のまだら模様が入った表皮、頭部には鶏冠か翼を思わせる左右一対の角、かぎ爪になっている両手足の末端――フェニックスは死後、ものの数秒で己の蘇生を完了させた。
僕は確かに死んだ。なのに一瞬でこの世界に逆戻りだ。これが追跡者の力か――その簡単さに思わず笑いがこみ上げてくるが、無論心から笑えるような心持ちではなかった。
もう学校に行く気もない。ぜんぶがどうでも良い。何が救いだ。結局おまえたちはすでに昔話や伝記で暴露されているように、人間など被造物のひとつくらいにしか考えていないのだ。人にはそれぞれの事情、人生があるということを無視して、勝手に造物主である自分たちの思惑をそこに投影し、意のままに操ることに何のためらいもないのだ。
(何が人生だ……もう僕は、あいつらの人形なのか)
再生したばかりの肉体は不思議なほどに健康だった。傷ひとつないのはもちろん、さっきまでは動き回って息苦しかったはずなのにそれもなくなっているし、疲れも忘れている。まるで戦いなどなかったかのようだった。
お前たちはそうやって僕たち人間をずっと騙してきたのか。
しかしはっきりと覚えている。忘れることなどできなかったものが、巧にはあったのだ。それは妖狐と一緒に戦った今日の思い出だった。彼女に支えられた、あたたかな感謝の記憶だった。
今日は、幾つもの戦いが目の前を横切っていった。何度も殺されかけた。生き残ることができたのは奇跡だ。本来なら喜んでしかるべき幸運な現実。そのはずだった。
笑うことも喜ぶこともできなかった。むしろもう一度死にたくて仕方がなかった。しかしそれさえできないことは、一瞬の自己蘇生で証明されてしまっている。
不意に妖狐のあたたかさを思い出した。叫びたくなった。だが、ここは学校近くの団地のど真ん中だ。近隣住民たちは素行の悪い高校生どものせいで騒ぎに敏感になっている。叫んだだけで学校に通報されるだろう。
何もできず、ただ歩いて帰るしかなかった。フェニックスから藤堂巧に戻り、化物から人になってなお、心は同じ呪詛を放ちつづけた。
(僕の人生……なのに、どうして……)
見えないはずのレールが見えた気がした。それを粉々に打ち砕かなければ僕の人生は始まらない。いったいどうすれば砕くことができるのだろう。
考えるだけ無駄だった。妙案など何も浮かんでこない。深く考えるだけの気力もない。
いじめも後悔も、人生のすべてを活かす。そんなことができる人間だったら最初から苦労はしていないし、そもそもいじめられてすらいなかっただろう。救いだなんて、今さら馬鹿馬鹿しくてしょうがない。




