第一位の追跡者。
突然雨が降った。大雨だった。
『これは……』
妖狐が呆然と声を放った。フェニックス妖狐態もまた空を見上げた。晴天がただ広がっていた。
「こんなことって」
ありえない話だ。ユニコーン魔人態の頭上にだけ濃密な雨雲が発生し、大雨を降らせている。ユニコーンただひとりのために雨が用意されているのだ。
まるで意図的な自然現象。
その上、大雨のはずなのにフェニックス妖狐態の体は一切濡れていない。これもユニコーン魔人態による幻覚だと考えるのが普通だが、心をひとつにしている妖狐は断言する。
『これは幻覚じゃない。もう一体、追跡者がきたみたい』
その声は、かすかだが震えている。
「もう一体?」
『ええ。できれば、今はまだ相手にしたくなかった一体』
会話しているうちに、今度は雨が雪に変わった。大雨に見舞われたユニコーン魔人態は突如として吹雪の中に閉じ込められる。これもまたフェニックス妖狐態を埒外にした、ごく部分的な天候の変転だった。
おかげで、文明を焼いた大狐火“振袖ノ大火”の再現たる巨大な炎球も、雨と雪のなかに阻まれて消失してしまった。文明を損わせることはできても自然は滅ぼせない。初めて撃ち放つことができた封撃幽殺があっさり無力化されてしまったのだ。
その事実にフェニックス妖狐態は舌打ちした。そして、妖狐が予見したもう一体の追跡者――乱入した悪魔をその目で見ることになる。
『ついに姿を現わしたわね、バエル殿。お仲間さんは痛めつけておいたわ』
妖狐が相手を言葉で牽制した。だが、相手はそれを意にも介していない。ユニコーン魔人態を庇う位置に現われたそれは、まず恭しくお辞儀をしてから、実に礼儀ただしい口調で挨拶しはじめた。
「これは失敬、ウカノミタマの眷属よ。我が盟友、アムドゥシアス公の声を久方ぶりに聞き、つい懐かしくなってしまったのです。まさか大いなる者の眷属が直々に現世に降臨しておられるとは思いませんでした。加えて、もうひと柱の我が盟友と……すでにヒトをやめているらしい、この稀有な器さえも見えたとあらば、私もまた降臨しないわけにはいかないのですよ」
赤黒いマントを片手で捌き、翻すようにしながら体を起こす。その真紅の仮面を、フェニックス妖狐態は見た。眼があるべき位置には何もなく、仮面越しに空洞がみえるだけだった。それを見て、フェニックス妖狐態は寒気をおぼえた。
「名乗り遅れました。我が名はバエル。魔神……おっと、“追跡者”のうち、最上の位階をいただく者。我らに楯突く不遜なニンゲンよ。貴様はまず頭をたれろ。話はそれからだ」
僕はいまは人間じゃない――頭など下げるものか。当たり前のことを思ったが、直後には世界の常識とともに、巧にとっての当たり前が崩された。
『上をみて……逃げて!』
「上?」
妖狐の警告に、巧は迷わず反応した。見上げれば、確かに太陽がなくなっていた。そうみえた。実際は、まるで日食のように太陽を覆い隠す巨大な氷の塊が、滴を垂らしながらこちらに落ちてきていた。
氷の隕石。ありえてはならないが、どうやら現実だった。そしてここはまだ戦場なのだということも、同時に思い知らされる。
「バカか、あれ」
フェニックス妖狐態は呆れてものも言えなくなった。あんなものが落ちてきたらどうなるかは想像するまでもない。当然距離をとって避ける。
だが、今度は壮絶な風がフェニックス妖狐態を翻弄した。一歩動いただけで体が戻されてしまう。たかが風のせいで一歩も動けない。思わずこれこそが幻覚なのではないかと疑ったが、妖狐がすぐに否定してくる。
『アムドゥシアスは瀕死。とうに力を失っているわ。これは間違いなく、見たまま起こっている現象。とにかく逃げないと』
「わかりましたよ!」
破れかぶれにでもならなければ馬鹿でかい氷に押し潰される。なり振り構わず、フェニックス妖狐態は俊足能力をここぞとばかりに発揮する。
地面を蹴って獲得した衝撃力のすべてを使って、真上に跳躍した。これまでは全身を滑空させて弾丸のように移動させるように使っていた力のベクトルを変え、天に向かってロケットの如く全身を持ち上げる。エネルギーの量だけでいけば人型ミサイルと化したも同然のフェニックス妖狐態は、そうして氷の隕石に自ら近づいていった。
『これが追跡者の王、バエルの力……天候の操作も、ここまでくると魔法ね』
「天候? あれが?」
『ええ。根源はそのはずだけど、力の大きさが人智を超えているせいで天候の概念から外れてしまっているのよ』
「そんなものが敵だなんて」
『だから言ったでしょ、今は相手にしたくなかったって。どうにかして逃げないと……』
「まずは、これを!」
フェニックス妖狐態は空中で氷の隕石に接触した。衝突ではない。まずは巨大な氷に両手を接してその表面にとりつき、直後即座に両腕で全身を押した。フェニックス妖狐態は腕力も強化されているが、何よりも全身をバネにしたしなやかな動きを得意とする。野狐が山を駆け登るが如く、フェニックス妖狐態は両手両足の爪を活用して氷の隕石の表面にとりつくと、その濡れた斜面を駆け上がった。少しでも動作を遅らせれば落下する隕石の慣性に体をもっていかれることになるが、剥落する石を渡って崖を渡りきることもできる圧倒的な俊足能力により、空中での隕石登りが可能となる。
「面白いな。確かに貴様はニンゲンではないようだ、藤堂巧くん」
「何?」
ちょうど氷の頂点に登りつめて一息つこうとした時だった。すでにそこにいたらしい追跡者の王――バエルは、おもむろに氷の斜面から浮き上がると、天の高みからフェニックス妖狐態を見下ろした。
またも太陽の輝きはみえなくなった。バエルの赤黒いマントが今や空のすべてを覆い隠している。フェニックス妖狐態はその威容に動きを止めて身構えたが、それが素早さを持ち味とする妖狐態の武器を捨てたことになっていたのには、まったく思い至らなかった。
バエルは容赦がない。妖狐は警告した。
『動いて! 相手は別格、逃げないと……』
「器はまだ小さい。そういうことですな、眷属よ」
『そなたほどの力を持つ者が追跡者になぞ堕ちるべきではなかった、バエル殿!』
「あなたにそう言われるとは光栄至極。こんな状況でなければ、こちらが頭を垂れるところでした。しかし、ですね」
空を覆い尽くすバエルのマントが軽く揺れた。来る――フェニックス妖狐態は直感した。妖狐の警告をうけて、動き出す。氷の隕石を蹴り、空中に躍り出てその場を離れようとする。
「散々言わせるな、ニンゲン」
耳元でバエルの声がした。フェニックス妖狐態は首を動かして声のする方を見た。そのとき、背筋が凍りつく――自分の肩越しにバエルがいたのだ。気づかぬうちに肉薄されていたらしい。
天候操作で風を操り、飛行してきたとでもいうのか。そう思いついたが、その推測が正しかったとして、何の慰めにもなりはしない。フェニックス妖狐態は空中でバエルに接触されると、耳障りな声を、異様な悪臭のする吐息とともに吹きかけられた。
「頭を垂れろと言っておろうに」
刹那、背中に衝撃が走った。全身を何かが貫いていく。蹴られたのだとわかったのは、みるみる高度が下がって地面に近づいていくのを自覚したときだった。痛みを感じない、それさえ超越した原因不明の衝撃に全身を支配された。そう理解するだけで精一杯だ。
その敗北は、フェニックス妖狐態が氷を蹴って空中に躍り出た瞬間から決定していた。何も掴めず何も蹴れない空中という環境のなかでは、翼をもたない存在は身動きの取れない弱者に落ちぶれる。
陸上、とりわけ人の生活空間の中でしか生きたことがない巧には、人智を超えた相手に対して己の弱点を意識するレベルには、まだ達していなかった。
(まだ相手にしたくなかったって、そういうことかよ)
妖狐が散々口にした別格という言葉の意味を理解したときには、巧は地面にたたき落とされていた。そのときになってようやく痛みが与えられた。コンクリートに落下した瞬間、全身の骨の随にまで衝撃が到達し、臓腑は破裂、肉も砕けるほどの威力を味わった。
「安心しろ、死にはしない。ニンゲンをやめた貴様ならわかるはずだ。そうだろう?」
眼球が血に染まったのか、フェニックス妖狐態の視界は赤黒く染まっていった。血の色に染色された世界のなかで、赤黒いバエルの姿は神霊の如くみえた。赤い部分が透けて、黒い部分だけが見えるのだ。存在していながら存在していない、人では認識できない高位の存在――巧はそこに神話を見た気がした。
半分が消えて半分が見える不可思議なバエルの仮面が、こちらを見下ろして囁く。
「我らは敵ではない。次に会うときは友になれると信じているよ。我と貴様は、くだらない下等生物どもが構築し、腐ったまま存在しようとするこの世界を憎み、打ち壊すことを望む者同士だ。そうだろう?」
「な、に……?」
「我らは敵ではない。また会おう、我が友フェネクスさえ抑え込み、アムドゥシアスを封じることもできた、未熟な英雄よ」
言葉が聞こえなくなると、世界は真っ赤に染まったまま動かなくなった。バエルは去ったらしい。直後、フェニックス妖狐態の眼球が破裂し、もう何も見えなくなってしまった。
ユニコーン魔人態にトドメを刺そうとしたのに、何故か一瞬のうちに敗北させられていた。大雨に吹雪に風の翻弄、氷の隕石。思い返せば勝てる要素のひとつもない戦いだった。戦う前から勝敗が決していたのだと、こうして半殺しにされたいま、やっと思い知った。
妖狐がどうしてバカのひとつ覚えのように何度も逃げろと言ってきたのかもやっとわかった。すべての理解が遅かったのだ。
(あれが、本当の追跡者の力なのか……?)
人智を超えた者が確かにこの世界に存在する。自分の認識能力からはみ出るほどの力をもった存在が、自分よりも遥かに高いところに君臨している。その事実を、巧はいまこのとき、やっと認識した。
認識することができる……つまり僕はまだ、生きている。何もみえない視覚のなかで、赤黒い血を吐き、動くことさえできない状況で、巧はそれでも確かにまだ生きていた。
『治癒するわ。結果はどうあれ、お疲れさまでした。巧くん』
妖狐の声があたたかく感じられた。同時に体が軽くなったような気がした。視覚が徐々に正常に戻り、それはまるで、時間が巻き戻っていく奇跡を見たかのようだった。




