ままならぬ苛立ち。
かすめただけで全身火傷を負った敵の火炎。妖狐はそれさえ紛い物といって譲らなかった。本当の業火をみせてやる……その言葉がいかに恐ろしいものか、巧は自覚していなかった。
妖狐態――大いなる者の眷属と認められし古き妖狐が隠し持つ、その本当の力を身に宿すまでは。
『熱くなってきたわ。私だけじゃなくて、巧くんもあいつに苛立ってるよね?』
「はい。あれは敵です」
『そうこなくちゃ! 男の子ならね。そしてこれはご褒美に』
「ご褒、美?」
巧は思わず聞き返したが、返答を待っている暇はなかった。今この場所は戦場なのだ。
現実に、電子音が鳴り響く――[リリース・ペンタクル マーディ!]――敵の足下を仄かに照らす薄緑の魔法円が、また赤色に遷移した。
直後、巨大な火炎の奔流が打ち放たれ、恐るべき速度で目の前に迫る。
「大きいし、速い!」
『敵ながらあっぱれね。人も強くなったと思えば、可愛くもある、けど!』
「そんな場合じゃ!」
火炎がいつ放たれ、どのような高速移動をしているのか、一切視認できなかった。気づけば大蛇、いや龍と見紛うほどの火炎の大渦が目の前に現われている。敵との距離はゆうに一〇〇メートル以上は離れているのに、炎の接近速度は一瞬なのだ。
理不尽なものほど、実に簡潔に現実を奪えるだけの大きな力をもっている。いじめを仕掛けてくる奴も、それに荷担する教師も、そうだった。
だが巧は誓った。もう奪われはしないのだと。
ひとまず妖狐態の能力である超高速移動で、打ち放たれた敵の火炎――さながら炎の巨龍から距離をとってやり過ごす。凄まじいまでの輻射熱から逃れるために大きく移動するのだ。おかげで目標を見失ったらしい炎の龍は自分がどうして生まれてきたのがわからなくなったという風に、やがて消滅した。
次に消えるのはお前だ。念じるように敵を睨むと、巧は群青の鎧の騎士に再び躍りかかる。足下の魔法円はまだ薄緑色……これが赤色に変わるまでには、しばしの時間を要するだろう。
つまり敵は、攻撃の連射ができないという弱点を抱えている。それが二度回避してわかったことだ。
巧は一度着地し、片足が砂浜に触れた瞬間、再びつま先に力を込めた。それだけで再度の加速が可能となる。地面をかすかに浮き上がっての高速移動を実行し、一挙に一〇〇メートルの距離を詰めた。
「火傷よりも! ひどいように!」
呪詛を吐き出し、拳を握る。一方的に宣戦布告してきた上に理不尽な火炎をぶつけてきた敵は、もう目の前。
敵の挙動から焦りが伝わってくる。後退するべく後ろにすり足で移動しているが、妖狐の力を得ている巧からしてみれば牛歩にも劣る、それはまったく精細を欠く遅々とした動きだった。
「そんなんじゃあ!」
まるで動いてないのと変わらない。
大きく嗤い、拳を突き出そうとした、その刹那だった。
『殴らなくていいよ。巧くん、その代わり……ちょっと手の平をアレに向けて』
もちろん無視した。応答していられるような状況ではない。倒せる時に倒しておかなければ反撃をくらうのは目に見えていた。敵にとどめを刺す好機を逃せば、次には敵にとどめを刺されることになる。それが戦いというものなのだと、巧は一度殺されかけた経験から理解している。
故に、巧は妖狐の怒りをかった。
『掌握』
お姉さんぶった声から一転、コンピューターのような怜悧な声が心に反響する。直後、巧は一切の身動きがとれなくなった。
(何を!)
口でさえいうことをきかず、呟くことさえできない。
『言うとおりにしないからだよ? ま、数秒しか拘束できないけどね』
巧はいうことをきかなくなった全身が、直後、なんと勝手に動いていくことだけを知覚した。怪奇現象がついに牙を剥いてきたのか。突然の行動掌握に、またも一切の思考が白いスパークに塗りつぶされる。
そんな巧の動揺などまったく意に介さないとばかりに、巧の体の方は勝手に動く。先ほどまで堅く握り込んでいたはずのその拳を素早く開き、妖狐が指示したとおり、手の平を敵に向ける。
殴るのではなく平手で打つというのか。そんなんじゃ致命的な痛みを与えることはできない――巧がそう怪訝に思った時だった。手の平から火炎の数珠が放たれた。
数珠といっても巨人サイズの代物だ。つまり、人の上半身はあろうサイズのファイヤーボールが五つ、一瞬のうちに連射される。
それは散弾状に撃ち放たれた。敵に命中したのは一発だけだった。残りは足下に落下した後に爆風をまき散らし、盛大に砂をぶちまけ、熱波が敵の左右に発生して退路を断ったりもしていた。ただ、一発だけでも相当の威力があるらしい。敵はまず、着弾の衝撃に吹き飛んだ。
そこまでみたところで、体に自由が返ってきた。敵は吹き飛ばしたようだが、実際に殴ってやらなければ気持ちがよくない。飛び道具の命中など決して憂さ晴らしにはならないのだ。相手を傷つけたという確固たる実感が欲しい。
したがって、巧は砂浜に落下し転がっている敵を睨み、ぶつけ損ねた拳をふたたび握り込んだ。
対して敵は素早く起き上がった。間違いなく戦闘のプロだ。痛みなど意にも介していない。あるいは吹き飛ばされた衝撃にさえ耐えるほどの強度が、あの群青の鎧にはあるのかも知れなかった。
いずれにせよ、起き上がってくれなければ困る。殴れなくては気持ちよくなれないのだから……巧が人知れずほくそ笑んだ、その時だった。
[プラネタリー・アワー・オーバー]
電子音声が鳴り響く。太陽が雲に覆われた瞬間、その拍子抜けしたような電子音とともに群青の鎧が不意に消滅した。ジーンズにジャケットをあわせた体格の良い男がひとり、そこに立っているだけになる。戦場の雰囲気はそれで台無しになった。
「時間切れか」
男は口惜しそうに吐き捨て、砂浜の上を逃げるように走り去っていく。無論、鎧を着ていた状態とは段違いの、あくまでも人間の走りだった。変身している今の巧なら一瞬で追いつくことができる。
殴って殺すことなど簡単だ。
相手が生身の人間に戻らなければ躊躇なくやれたのに……巧は舌打ちを必死で堪えた。殺したい。その衝動にすべてを支配されそうになる。
『終わったね。撃退完了、っと!』
不満にまみれた巧の心のなかを、穏やかな幻聴が吹きすぎた。それを遮って、憂さ晴らしが足りてないからあいつを殺したいなどとは、巧にはいえなかった。
巧は何も言わずに強く息を吐き出した。ため息ではない。怒りを抑えるために、虚無を嘯いた吐息を、その口からすぼめて吐き出したのだった。
もう拳を握り込むことさえ虚しく感じられた。この虚しさ、この憤懣……いったい、どこにぶつければいい?
『戻るよ』
またも一方的な妖狐の声が心を吹き抜ける。刹那、世界のすべてが崩れていく。空間転移と気づいたときには、巧もまた生身の人間に戻っていた。
浜辺から、一挙に教務室へ。
巧はそこで本物の警察官に拘束された。




