大いなる誘い。
不可思議な力をこの身に受けたのだと思うしかない。指先ひとつ動かせないのに、口だけは開く。返答する権利だけは残して貰えた、ということか。
無理矢理連れてこられて、今度は拘束されている。思えば散々な扱いだが、相手がもし古い物語で語られているような、あの大きな威厳の存在なのだとすれば、どれだけ人から反感を買おうが知ったことではないのだろう。
そうした物語のなかでは、人ですら道具にするのが彼らのやり方なのだから。
幻聴は一方的に宣告する。まるで見下されているような、それは尊大な口調だった。
――人の意志を保っておきながら、追跡者の力を悪しき行為のために利用した……ひとえに、万死に値する大罪です。追跡者の意志を抑え込むほどの器量がおありなら、この世界の闇のすべてを祓うこともできたはず。力の使い方を間違えたこと、それがあなたの罪状です。
幻聴は厳かに巧に語りかける。特に抑揚はなかった。実に淡々と伝えている、いっそぞんざいな口調にも聞こえた。だが、ぞんざいであるが故にその部分が主眼ではないのだと暗に伝えてもいるようだ。
だから巧は何も言い返さず、相手の言葉を待った。
――ですが、このまま放っておいて、過ぎた力をもつあなたにこの世界をかき乱されてはたまらない。そこで我らは決めました。あなたを裁くのではなく、救済するのだと。
「救済?」
――ええ。命を奪ったりはしません。まずは、ひと安心なさい。
万死に値する罪を犯したと断じて勝手に拘束し、それをまだ解いてもいないくせに、今度は一方的に救済してやるなどとほざく。ふざけている……だが、巧に反抗する権利はない。金縛りにあっている今、返事をする権利しか残されていないのだ。
「とりあえず、わかりました」
巧はため息を吐き出したくなったが堪えた。そんな不敬をした瞬間、どんなことをされるかわかったものではない。救うことにした、と相手が堂々と言ってしまっている通り、相手は相手の事情で“救済”とやらを与えてくるのに過ぎない。こちらの事情に一切かかわらず、相手は相手の事情でしか動かないのだ。
しかも救済だなんて今さら遅い。救ってくれるというのなら、不死鳥の悪魔に取り憑かれてしまう前にそうしてもらいたかったものだ。今はもう、何も間に合わない――口にはしないが、思いは言葉になって胸の中に積もり積もっていく。いつもならそれは憎悪の炎を熱く燃やす薪となるが、体が動かない今、それも不完全燃焼に終わってしまう。
何もできない。舌打ちしたくなるのを堪え、ため息を吐き出したくなるのもまた堪えて、巧はただ鳥居を睨みつけた。
――了承しましたか。あなた自身の立場を、あなた自身がちゃんとわかったのであれば、いますぐにでも救いを与えましょう。ところで眷属、この者の中に入る準備をしなさい。
「コンッ!?」
――聞こえませんでしたか? 眷属、いつでもこの者に宿れるよう準備をするのですよ。
狐はビクッと震えて頭を垂れた。だが、恐る恐るその頭をまた上げると、輝く鳥居に向かって言葉を投げていた。
「お言葉ですが、この者の中にはすでに悪しき者が宿っております。それに加えて私が憑依してしまえば、この者の意識が……」
――それは大丈夫でしょう。その悪しき者を、この男の子は完全に抑えつけ、力だけを利用している。それほどの器の持ち主であれば、きっと眷属、お前さえも平伏させるに違いない。
「そんな、危険です!」
狐は巧と鳥居とを交互に見て、最後に大きく首を傾げた。狐の表情は『正気か?』という目をしているように見えて、巧もまた言葉を投げる勇気をもらった。
「憑依って聞きましたけど、どういうことですか? 僕を救うのに憑依されるって、意味わかんないですよ。また体を奪われるのは、嫌です」
一角徹也の言葉をそのまま使うなら、巧の中にはバケモノがすでに憑依している。だが巧はそれをどうやって抑えつけているのか、正直まだ理解していない。そんなときにもうひとつのバケモノ……狐の魂まで入れられてしまったらいったいどんなことになるのだろう。
意識を奪われ、肉体を奪われる可能性は大いにある。到底、承服しかねる話だった。
我慢するしかない状況ではあっても、狐が反論してくれたおかげで巧もまた反論する気になった。我慢する必要がないなら、本当はしたくない。せずにすむように、自由に生きたい。
そんな巧の強い意志を秘める眼ふたつに睨まれた鳥居の、その向こうに鎮座しているらしい幻聴の主は、しかし変わらず淡々とした調子で言葉を返した。
――案ずることはありません。憑依とは言葉のあや……あなたに更なる力を与えようというのですよ。我が眷属を通して、我が力を間接的にあなたに注ぎ込むのです。それによって、あなたを救済へと導く。何ら心配することはありません。
「憑依とか、力を注ぐとか……僕は、そんなこと、望んでないです。今からじゃもう遅いんですよ、正直。僕を救ってくれるっていうんなら、じゃあ、僕の人生を、こんな風になる前に救ってくださいよ。そうしてくれても良かったじゃないですか」
抑えつけていた意志が、本当に口にしたかった言葉が、ついに口からこぼれ落ちた。
救済なんてひとつしかない。ひたすら他人に痛めつけられてきたこの無様な人生を、いっそなかったことにしてほしい。もう一度新しくやりなおさせて欲しい。ふりだしに戻して欲しい。腐った人生なんて終わらせて、輝かしい人生のスタート地点に立ちたい。救済なんてそれしかない。
憑依、力。そんなものは必要ない。力なら、すでにこの身に宿っているのだから。
言葉を放ったことで、積もっていた憎悪もまた噴き出していく。心が熱くなっていく。熱くて、それは今にも体中を焼き尽くしてしまいそうだった。今さら間に合わない救いを与えてこようなんて、実に高慢で、自分勝手で、人を道具としか思っていないような冷たい奴らだ。ぜんぶ焼き尽くしてしまいたい。
心の奥底に燻っていた暗い意志が、すでに手にした力への接続を求めはじめている。
その力を目覚めさせることで、巧はこの人生を切り拓いた。理不尽の根源を抹消することで人生は確かに好転した。ならば、いまこの時も同じ方法で――。
「僕は、僕の人生を……!」
巧は暗い憎悪に満ちた瞳で古びた鳥居と、その周囲に漂う霊的な輝きをにらみ据えた。お前らすべてを、焼き尽くしてやる。
そう念じた、その時だった。
「む?! 誰かが、ここにきます……!」
――何? 眷属、まさかそなた、つけられたか?
「そんな馬鹿な! この時代の文明にはまだない、時空超越で移動してきました。この時代のヒトなんぞに追跡できるわけがありません!」
狐は弁明しつつ、激昂したのか跳躍して巧に飛びかかってきた。巧は思わず目を閉じた……全身がくすぐったくなった。目をあければ、狐が全身を精査するかのごとく肩や腕、背中の上を素早く駆け回っていた。
「あ!」
狐は素っ頓狂な声を盛大に響かせる。巧もその鳴き声の大きさにはびくっと体を震わせるしかなかった。
狐は巧の肩に止まって、巧の首筋ちかくに張り付けられていたチップ状の機械を掴みあげていた。
「私としたことが、発信器も見つけられないだなんて……」
――狡猾な人もいるものですね。しかしこの手際、万事に対応する英雄とでも、今は称しておくとしましょうか。
鳥居の周囲に漂う輝きに一瞬だけ影が差し込み、暗く濁ったようにみえたが、次の一瞬には元通りになった。
狐は唾を吐き捨てるかのようにチップタイプのマイクロマシンを地面に叩きつけて粉々に割り砕き、今度は小首を巡らせて下界を見下ろす。
巧もつられてそちらをみると、長い石段をゆったりと登ってくるひとりの男が目に映った。
「こんなド田舎にまでやってくることになるなんて、苦労させるぜ。だがどうやら、無駄な苦労なんかじゃなかったみたいだなぁ」
革のジャケットにジーンズをとりあわせ、茶髪をオールバックに撫でつけている。ただでさえ肩幅が広いのに、それを強調するような服装をしている。粗暴そうで、しかし屈強な男だった。にもかかわらず不思議とヤクザじみた印象がない。その堅い印象はむしろ男の実直さを表しているように、巧にはみえた。
かといって良い印象も皆無だった。この男からは、あのナイフの男と同じ気配を感じさせる。平然と僕の腹を刺してきたあいつと同じ種類の、危険で自分勝手で禍々しい冷たさを感じる……巧は身を強ばらせて、警戒した。
屈強で、冷徹で、故に敵に回したくない男が、こちらに向かってやってくる。
足下に立つ狐も耳を小刻みに震わせて目を細め、警戒心を露わにする。ただ、狐の主人たる幻聴の主だけが超然とその言葉を放った。
――好都合です。巧殿、我が眷属の力を使って、あの者を撃退してみせなさい。
「え……?」
「主様、それは!」
――大丈夫。私の読みを信じなさい。そして、眷属よ。眷属であるならば、黙って我が命に平伏せよ!
「し、しかしながら!」
――我を、同じことを二度も言う愚か者にするつもりか?
「あ、主様……!」
狐は震えながらも、敵と巧と鳥居とを落ち着きなく見回しはじめた。平伏せよ、と命じられてなお賛同しかねるということは、狐は急な憑依を相当危険なものと考えているのだ。あるいは、本気で巧の身を案じているのも知れない。
そんな狐の態度をみて、巧は憎めない奴だと思った。同時に、また背中を押された気がした。だから巧は、苦々しくも、心に結ばなければどうにもならないのだろう決意をひとつ、ここで渋々引き結ぶことにした。
「僕にとっても、好都合です」
「……は?」
狐は解せないとでもいうように目を細めて巧を睨んだが、巧の暗い意志は揺らがなかった。
奇しくも幻聴の主は好都合といったが、巧にとってもそれは同じだった。いま、この現状には不満しかない。金縛りでまともに体を動かせないし、勝手に進む道を決められるし、さらには発信器をつけられて、新たな敵も向こうからわざわざやってくる。
もう苛立ちしかない。
この苛立ちを盛大に燃やし尽くす機会が欲しい。もう現実のすべてが憎らしすぎてどうにかなってしまいそうだ。憂さ晴らしの機会が与えられるというのなら、まさしく都合が良い。
一度燃え上がってしまった憎しみの炎……僕の人生を台無しにしようとしてくる理不尽な現実のすべてを燃やし尽くしたい衝動の生け贄として、屈強で頑固そうで……明らかに敵に見えるこの男はある意味、ちょうどいいだろう。どうせ向こうからやってきたのだ。殺したとして、誰からも文句は言われまい。
その両目に暗い憎悪の炎を宿したまま、巧は狐にむかって一度、力強くうなずきを返した。もう言葉は必要ない。
狐ははたして、首を傾げながら盛大にため息を吐き出した。
「はぁ。あなたもやる気だというんなら、仕方ありませんか。でも、どうなっても知らないよ?」
狐は、あくまで巧の前ではお姉さんぶりたいらしい。狐の性質に引っ張られるという変な語尾さえなかったら、巧も心を惹かれたかも知れない。
――決まりですね。では眷属、巧殿の心の中へ!
「御意、コンッ!」
ついに覚悟を決めた狐は――この古びた社の大いなる主に仕える妖狐は、突如、消えた。巧は思わず周囲を見回したが狐の姿はどこにもいない。
だがその直後、巧は幻覚を見る。それは、突然目の前に現われた女性の霊に抱かれる幻だった。その女性には見覚えがある――公安警察の秦野真理警視。つまり、妖狐が人間に擬態した時の姿だった。ただ今は警察官の衣装ではなく、白と赤の巫女装束に身を包んでいる。
同級生の女子がみせる笑いとは違う、それ自体が色気を孕む妖艶な笑み。思わず目をそらしたが、妖狐――秦野真理は「ふふっ」と唇を歪めると、両手を巧の首に巻き付けるようにして、その体を真正面から密着させてきた。
それは、大人の女性からの抱擁。
彼女の柔らかい感触に包まれることを期待したが、直後、巧は虚無感に襲われた。期待した感触は永遠にやってこない。それはあくまで、ただの幻覚だったのだ。
だがこれで変身は完了する。次の瞬間、巧の全身は妖狐の力を宿した獣人の姿に変異していた。




