裁きの宣誓。
パーテーションに激突して、いない……?
ぶつかっていないのだから、当然痛みも感じなかった。巧は目をあけた。
思わず、目を見開いて息をのんだ。激突とはまた違う種類の衝撃が、今度は心を揺さぶってきた。
「こんな、ことって」
そこはもう教務室ではなかった。行ったこともない、まったく知らない場所にいる。
蔦のからまった鳥居、崩れかけた石段、その上に鎮座するボロボロの社……古ぼけた、長く放置されてしまった神社。
かつてのパワースポット。あるいは、心霊スポット。そんな言葉がすぐに浮かんできた。
巧は思わず振り返った。教務室はどこにもみえなかった。代わりに見下ろせるコンクリート舗装の道路を、一台の古いトラックが走り去るのがみえた。巧はいま長い石段の途中に立っていた。目下の道路は坂になっているようで、周囲の景色も並び立つ木々に包囲されている。ここはどこかの山の中か。
家族と山登りをしたことはあっても、それはいわば登るために加工された山に過ぎない。いまここにいる場所は古い時代に一度加工されたものの以降は手を加えられずに放置され、自然の力が再生された結果、今度は人の形跡が呑み込まれようとしていて……そんな無秩序の侵食を感じさせる場所だった。
超常現象だ。教務室から一瞬でこんな山の中に移動できるはずはない。ちょうど先ほど、一分間の刹那のなかでナイフで刺され夢を見させられたあの不思議な体験に似ている。
巧は腹をさすった。ナイフの傷跡はなく、痛みもない。あの男に刺されたことさえなかったことになっているようだが、それもまた超常現象といえる。もう滅茶苦茶だ。誰かにまた人生を狂わされている……大和田猛を葬り、クラスのみんなを葬ってもまだ、僕の人生に介入しようとする愚か者がこの世界のどこかにいるらしい。
おそらくその愚か者のひとりである秦野真理という警察官の姿を巧は探した。彼女を抹消し、次にナイフの男を捜し出して殺してやる。
(いない……どこだ?)
巧は周囲をみまわして、舌打ちした。一緒に行こうと言ってここまで僕を飛ばしたくせに、張本人はどこにもいない。勝手にもほどがある。
「コンッ! 何をもたもたしているの?」
周囲をみまわしていると、足下に柔らかな感触がした。同時に声がきこえた。それは秦野真理の声に違いなかったが、足下にいたのは一匹の子狐だった。それも真っ白な毛並みの美しい狐だ。
「キツネ? 山の中だからか」
「ただの狐と一緒にしてもらっては困るのよ。我は妖狐。大いなる者の眷属、コンッ!」
「やっぱり、これ、しゃべってる?」
巧は唖然とした。真理の声は確実に足下から聞こえてくる。巧の足と足の間を縫うように駆け回るこの元気な狐から真理の声がしているのだ。
また、超常現象。巧は試しにまばたきしてみたが、現実はさして変わらなかった。
「ここは御前。化けるのは不作法……故に、案内人の姿ではなく、私本来の姿に戻るしかないの。だから口調も、引っ張られるの、コンッ!」
「いい加減にしてくれよ」
巧は頭をかいた。混乱寸前だった。この狐は何もふざけているわけではなく、本当のことしか言っていないのかも知れない。だがこの目に映る現実があまりに非常識的で、どこにも現実感がないのだ。
ふざけているのか。狐にではなく、現実すべてにそう言いたくなった。
「あの御方をお待たせしてはいけないの。早く、この御道を駆け上がって」
「うるさいなあ」
正直話しかけないで欲しかった。混乱した状態では言葉がトゲをもってしまう。何も話しかけられなければ言葉を放つ必要はないが、声をかけられれば応える必要がうまれてしまう。
話しかけたお前が悪いんだ。巧はそう思いながら、苛立つ口を開いた。
「こんな不気味な、心霊スポットみたいなとこに飛ばされて。どうやってここまで来たのかもわからないのに、進め? できるわけないよ。狐のバケモノに誘拐されたってだけでも、正直怖いのに」
「バケモノ?! なんと不敬な! 我は眷属! 我が主様はれっきとした――」
――しゃべりすぎですよ。
「!」
化け狐の声をさえぎるような幻聴が突然、巧の頭のなかに降って湧いた。
――現代人に我らの在り方は理解できません。耳を傾けてもらえないのなら、言葉を尽くす必要もないでしょうに。
「し、失礼、しました……」
狐は小刻みに震えながらピタリと動きを止めてしまった。さっきまで走り回っていたのが嘘のようだ。
幻聴は女性の声の響きをもって聞こえた。狐――眷属。ついにその主が出てきたということか。巧は生唾を飲み下しながらも、幻聴に応じた。
「この狐の主様、ですか?」
「ふ、不敬な! 人ならば頭を垂れ――」
――よろしい。我らはこの少年を救うと決めたのです。ならば人の価値観でいうところの“御客様”。御客様はなんとやら、ともいうからして、つまり、そういうことでしょう。
「失礼、しました」
二度も言葉を遮られ、狐はすっかり憔悴してしまっている。尻尾をうなだらせているだけでなく耳の先もしょんぼり垂れて、まるで親に叱られた子どもだ。年上の女性警官に化けていたあの威厳は今や完全に打ち砕かれている。
――あなたが藤堂巧殿、ですね?
「は、はい」
姿形もみえない幻聴に呼びかけられる。これもまた超常現象だ。悪寒が走った。普通に答えようと思っただけなのに喉が干からびている。唾で喉を潤してからでなければ話もできない。
――急の招来、失礼致しました。急を要するとはいえ、説明がなければさぞ不安でしたでしょう。ご苦労さまでしたね。
見えない存在が人と同じ言葉で呼びかけてくる。まるで昔話か、その元になったという古い物語の中に迷い込んでしまったかのようだ。ちょうど巧はその手の物語が好きだった。小さいころにみた時代劇の影響で、歴史にまつわる物語が好きになったのだ。
もっとも、読むのが好きなのであってその主人公のようになってみたいとは一度も思わなかった。その手の物語では人が主人公であっても、その裏には常に天上の存在の偉大さが見え隠れする。主人公でさえその偉大さを表現するための道具にすぎず、故に常に最善の扱いを受けるとは限らない。
偉大なるその存在のためにひたすら戦い、犠牲になった“主人公”も存在するほどだ。主人公であろうとも人間は道具。そう思わせる。
ならばこれから、お前たちは僕をどうするつもりなんだ? 叫びたいのを堪えて、巧は相手の言葉を聞いた。
はたして、想像外の言葉が飛んでくる。
――あなたの犯した罪は重い。本来なら裁かれて然るべきものです。
「え?」
巧は思わず顔をあげた。全身がしびれた。背中に電流が走ったような衝撃をおぼえて頭が真っ白になった。それが極大に強まった悪寒だということに気づく余裕もないまま、蔦の絡まった廃れた鳥居をみあげた。
ボロボロのはずなのに、なぜか光り輝いてみえた。巧は目をこすくってみたが、滲んで溢れる輝きはしっかりと視覚に捉えられる。
刹那、巧は金縛りにあった。指先ひとつ、まったく動かなくなる。




