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真理の妖狐。

――待ちなさい。


 ヴィトが藤堂巧の首を掴んでその肢体を無理矢理持ち上げようとした、その時だった。首を握る力をあと少し強めるだけで骨を折ってやれるというその一瞬を狙い澄ましたように、邪魔が入る。


「その声は、この国の? いや、馬鹿な」


 ヴィトは己の耳を疑った。聞き覚えのある声がしたが、この状況下でその声を聞くことになるとは夢にも思っていなかった。そして、それはあってはならない事態を意味する。普通、ありえないことだ。


「コンッ!」


 今度は聞き覚えのない声がした。同時に、目の前を何かの影が横切っていった。不意に、藤堂巧の首を掴んでいたはずの右手の感覚がなくなった。影が彼を連れ去ったのだと後で知った。何も握っていない己の手を見て、やっと状況を把握する。


 グリモナイト・ゴゥエの一つ目は、実際は複眼になっている。一基の(カメラ)のなかに複数種のレンズが配置されており、状況に応じて切り替えることで双眼鏡にもなれば望遠鏡にもなる。また、先ほど見たばかりのものを自動録画再生機能で確認する、といった芸当も可能だ。


 ヴィトはそんなゴゥエの機能をつかって、先ほど眼前を擦過した影を詳細に観察した。


 それは狐の形をした紫色の霧だった。赤外線モードに切り替えてチェックしてみるが、サーモグラフィーでは何の表示もなく、物理的には何も存在していないことになっている。つまり実体がない。実体がないのに、そいつは処分対象を見事に連れ去っていった。


 ゴゥエの単眼を望遠モードに切り替えてあたりを見回すが、弟子の一角徹也のほかには人っ子ひとり見当たらない。いま立っているこの場所は現実から隔絶された異空間なのだから当たり前のことだが、しかし組織伝来の秘匿技術をつかって生み出される戦闘用隔離異次元空間である“戦牢”にアクセスできる者など、組織の手の者以外にはありえなかった。そしてその組織からの連絡はいまだにない。


 そもそも追跡者が宿ったターゲットを処分する直前に連れ去るなど、組織の者がやるはずもない。追跡者をそこまで追い込むのにどれだけ手間がかかるかは、組織の中にいれば嫌というほど知ることになる。


 組織の者でもない。かといって追跡者の仲間でもない。狐の形をした正体不明の何者かが、ターゲットを助けた――この世界を崩壊させようとする追跡者に堕ちた“魔人(バケモノ)”であるはずの、藤堂巧を。


 やはり、ありえないことだ。


 もっとも、ひとつだけ確かなことがある。


「どうやら俺もしくじったようだ。テツヤ、お前の敵は、今日から俺の敵になった」


 ヴィトは鎧を自動解除すると、同時に戦牢から出た。


 徹也もそれに続いた。いったい何が起こったのかはわからない。ただ、どうやらヴィトは獲物を取り逃がしたようで、師匠もいまは俺と同じ景色を見ているというのか――しくじった者同士、今こそ、同じ地平に立っているのか。そう思いついてしまったが、徹也は首を振った。


 それでは前に進めない。他人の欠点を見て得られるものなどたかが知れている。



 巧は目をあけた。白いパーテーションが見えた。そこは教務室だった。簡易的な応接室――警察がくるまで“容疑者”の巧を封じ込めておくための場所で、教員どもがしつらえた警察ごっこの現場でもある。


 ナイフで殺されかけた挙げ句、悪鬼のような鎧の騎士が目の前に現われたはずなのだが、そこから先の記憶がない。眠っていたとでもいうのか。だが、体に傷はないし痛みも感じない。むしろ幸せな夢を見ていたせいで少しだけ気分が良い。


 幸せな夢……僕は水戸舞香と付き合うことを心の底では願っていたとでもいうのか。あの、僕を利用してきただけの腹黒い女と。


 考えるだけ、ひどく虚しい気持ちになる。巧はため息をひとつ吐き出し、ありふれた妄想でしかなかった夢の記憶を頭から追い出した。現実は無情だ。もう後戻りはできない。


 だが、ナイフを持って入ってきたあの男はどこに行ったのだろう。水戸舞香との甘い記憶はともかくとして、あの男の存在は確実に夢ではなかったと思う。まるで時間が戻ってあの男がやってきた事実そのものを誰かが消したかのようだ。


 ふと思いついて時計を見上げてみたが、それは一分ほどしか経過していなかった。あの男がやってきて、悪鬼に変身して、眠りについて――そのすべてが一分間にも満たない濃縮された時間のなかで行われたというのか。


 ありえない。時間が狂っている。


 巧が首をかしげた、その時だった。教務室のドアがノックされ、室内が騒然となる。パーテーションで区切られて様子は見えなくとも、教員たちの息づかいや声の調子から雰囲気は伝わってくる。


 教師たちは慌てている。そこに堂々とした女性の声が響き渡り、教師たちは唖然としている。


「失礼致します!」

「あなたは、その、警察の方ですか? しかし、聞いた時間ではまだ……」

「こちら公安警察外事三課、通称“アンタッチャブル班”所属、秦野真理警視です。重要参考人の身柄を確保するべく参りました。当該人物を置き留めてくださっているということでしたが、ただちにご案内をお願いします」

「公安? 私たちが連絡したのは警察です。公安がくるなんて聞いてませんよ」

「あなたたちのいう警察が掴める情報は、私たち公安警察も掴んでいます。そして、警察に任せられない事案であると判断したときには、私たちが先回りして動くということもあるのです。本件はそれほどに重要な事案なのだと、まずご理解ください」

「しかし」

「ご安心を。警察がきたときは公安の秦野が先に来たと伝えてもらえれば済みます。すでに裏からの手配も済んでいるのです。しかし時間がありません。さて、当該人物は……あちらですか?」

「待ってください、あなたは本当に公安なんですか?」

「バッジはつけています。見えますか? 教職とて公務員。まさかこのバッジについて何も知らないとは言いませんよね? それでは、失礼します」


 声が向けられ、足音が近づいてくる。閉ざされたパーテーションの間に影が差し、その一部が開けられた。


「おや、こんにちは。あなたが参考人――藤堂巧くんね。私、秦野っていうの。よろしく」


 その茶髪の女性、秦野真理はウィンクすると後ろ手でパーテーションを閉め、巧と外界とをふたたび遮断した。


「ちょっとだけ付き合って。お願いね」

「え?」


 真理は子どもにそうするように、かがんで巧に目線をあわせる。直後、「コンッ」と小さく鳴いた。咳払いのようなさりげない声音だったが、それはまるで動物の鳴き声のようで、大人の女性が出す声とは到底思えなかった。


 しかし巧は息をのんだ。問題は彼女の背後で起きていたのだ。何も貼られていなかったはずの純白のパーテーションに、一枚の写真が突然浮かび上がる――いや、それは写真などではない、本物の景色だ。現実の景色がパーテーションの中に、まるで掲示された写真のように浮かび上がっている。


 常識が歪められ、距離が無視されているのか。その遠い景色……どこかの古い神社、あるいは人里離れたところにある廃れた祠を、何故かここ教務室の一画から隅々まで見渡すことができる。


「繋がったね。じゃ、行こうか」

「行くって、どこに?」

「うすうすわかってるんでしょ。主様がお待ちだから、早く行くよ」


 真理はまたウィンクすると、ぐいと巧の腕をとった。思いのほか強い力で二の腕を掴まれ、思わず巧は顔を歪めた。


「痛いです」

「ごめんね。でも、許してよ」


 真理はあくまで微笑みかける。その顔をみて安心したのも束の間、また強烈な力で腕を引っ張られた。巧は遮二無二言う前に無理矢理立たされ、真理に背後をとられた。


「目、閉じてもいいよ」

「え?」


 直後、強く背中を押された。突き出されたと言っていい。それくらいの勢いで、眼前のパーテーションに激突する。


「痛っ……!」


 痛みを感じる前に、巧は反射的に目を閉じた。

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