一角の幻影。
巧は目をあけた。同時にチャイムが鳴った。いつもの教室、クラスのみんなと一緒の、朝のホームルーム。
そんなはずはない――だが、この目に映っているのは確かな現実だった。
大和田猛は親の事情で転校していなくなっていた。最初からいじめのない、普通の生徒として巧は教室に存在している。
そんなはずはない――だが、思い出されるのは自分が本当に体験してきた記憶ばかりだった。
教室に入る前も靴箱に靴があったし、画鋲が入っていたりもしなかった。そんな馬鹿げたことをやるヤツはひとりもいない。憂鬱になることといえば、今日は体育の授業があることくらいだ。
数学も苦手だが、それよりも体育の方が苦手で嫌だった。大和田猛はいなくなったが、しかしハードルに足を引っかけて転ぶ巧をみて、笑わない生徒はいなかった。それは悪意を感じない笑いだった。ただ純粋におかしくて笑われているだけなのだ。指をさす奴はいない。それでも、巧には恥ずかしいから嫌なのだ。
「おはよっ、藤堂くん」
ホームルームが終わると華のような美しい声をもつ女子が話しかけてくる。水戸舞香だ。友だちのいない巧に話しかけてきてくれる唯一のクラスメイトでもある。
「おはよう、水戸さん」
「突然だけど今日さ、放課後、空いてる?」
「え? うん、空いてる、けど……?」
「ならさ、ちょっと付き合って欲しいんだよね。良い?」
「別に、良いけど……」
「なら決まり。よろしくね」
颯爽と駆け去って、彼女は回収したプリントを手に教室から出て行った。その背中を見送っていたら、彼女の横顔がみえた。同時に目があった。ウィンクされた。
(どうしたんだろう)
心臓が高鳴った。体温があがっていくような感じがする。全身でドキドキした。
数学、科学、体育、現代文、英会話……楽しみながら、あるいは苦しみ、恥ずかしがりながら、授業は始まっては終わっていく。太陽の位置も変わり続け、空の色がしだいに移り変わっていく。
金色の太陽が空を焼いた夕暮れ時に、巧は舞香とともに学校を出た。
「藤堂くん、ありがと。今日は付き合ってくれて」
「僕で良かったら」
「大丈夫。藤堂くんじゃなきゃダメなんだ」
「え?」
「私、学校じゃ隠してるんだけどね。けっこう、ダメな女の子なんだ」
「そんなこと、ないよ」
「藤堂くんは優しそうだからそう言ってくれるって信じてた。嬉しいな」
「そう、なの? それこそ、そんなことないって思うけど」
「受けいれてくれるってだけで、良いんだよ」
巧は、女子はおろか、男子や教員とさえまともに会話してこなかった。だからこそ今のキャッチボールのような言葉の投げ合いは新鮮だったし、息苦しかったし、不安と歓喜が半々の落ち着かないものになる。
まるで夢の中にいるような心地よさだ。つまり、幸せなのだ。巧は、舞香のよく笑う顔に夢中になった。こちらの話を聞いてくれるその人間性に虜になった。
舞香は家のドアを開き、階段をあがっていく。ついていくと、舞香の部屋に案内された。
初めて入る女の子の部屋だ。自分の部屋とはまるで違う。そこはまさしく別世界のように見えて、隅々まで確認したくなる好奇心に駆られた。
「掃除苦手だから、部屋はそんなに見ないでね。それより、さ」
舞香はベッドに腰掛け、空いた隣をぽんっと叩く。座って良いよ、ということか。
巧は生唾を飲み下した。そんなに近くに座ってしまったら、自分の欲望をどこまで抑えられるか、不安になる。
(僕も、男なんだけどな)
男として見られていないから近くまでくることを許されているのか。あるいは、男として認められたからこそ誘われているのか。
ありえない。僕のようなぱっとしない男子が、こんな可愛い女の子の隣に招かれるはずがない。巧は胸をバカみたいに高鳴らせている自分を嗤い、手汗にまみれた気持ちの悪い手の平をズボンにぬぐいつつも、舞香の指示に従った。
彼女の隣に座る。部屋の香りとは別の絶妙な匂いが、巧の鼻孔を刺激した。良い匂いだった。
「今日ね、お父さんもお母さんも旅行でいなくてさ。いまこの家、私と巧くんだけ。夜もずっと、さ」
耳元で囁かれた。彼女の吐息が耳たぶにかかって、思わず巧は距離をとるべく、まず顔を遠ざけた。だが、舞香の端正で愛らしい顔が目の前にある事実は変えようがなかったし、変えたくないと思ってしまう自分がいると、巧は反射的に自覚していた。
許されている。認められている。ならばもう、抑える必要はないだろう。
「僕も、男なんだけど」
「いいよ。きて。私を、好きなようにして」
巧は男になった。舞香は女になってくれた。幸せで心が満たされた。
※
文字通り、藤堂巧は“夢中になって”幸福を貪り尽くし、楽しんでいるようだった。一角徹也は、幻影世界に支配されて取り込まれた――つまりは居眠りしている状態の巧の、醜いほどによく笑っている腑抜けの顔を見て、ため息を吐き出した。
(俺は、こんな奴に……!)
巧はすでに“フェニックス”の姿からただの人間に戻っていた。眠らされている普通の高校生が仰々しい黒騎士に見下ろされている様は実に珍妙で、しかし、一つ目の鬼がこれから無垢に眠る子どもを喰おうとしているようにも見えて、恐ろしくもあった。
尊敬する師匠といっても過言ではない魔書騎士のエース、ヴィトから直接呼び出されて現場に急行した。徹也が到着したときにはすでに戦闘用の異空間、通称“戦牢”が展開されており、つまりヴィトと巧は現実空間から離れた場所にいた。その異空間に入ってみれば、ヴィトは魔書業鎧“ゴゥエ”を装着したまま巧を見下ろしているし、さらに手にした携帯変身端末で巧の見ている夢を盗み見ていた。
「笑ってますね」
「ああ、心の底から幸せを感じているんだよ、コイツは」
徹也はちらと画面の中の夢をみた。服をはだけさせながら誘惑する水戸舞香の幻影がみえて、すぐに目をそらした。男子高校生であれば誰もが願うような、それはそれはありきたりな夢だった。
本当に俺はこんな凡人に負けたのか? 徹也は師匠の前で自らの命さえ絶ちたくなるほどの後悔と憤怒に駆られたが、堪えた。
「大きな恨みをもっているといっても、溢れるほどの幸福に塩漬けしてやれば簡単に落ちる。世界のすべてを呪ったから追跡者にも取り憑かれたのだろうが、所詮は凡百のガキだ。その証拠に、一瞬で夢の虜になってくれた」
ヴィトは流暢な日本語で徹也に教示する。「はい」とうなずき、徹也は両手をかたく握りしめた。
「説明するまでもないだろうが、お前……テイマーナイト“ユニコーン”の力は、俺の“ゴゥエ・アムドゥシアス装備”と同じ力をもっているはずだ。俺が簡単にこいつを落とせたってことは、お前も同じようにできたってことだぞ? そして、テツヤ。お前が賢いやつだってことも、俺はよく知っている。何故お前もこうしなかった?」
「それは……」
やはり、突かれた。覚悟はしていたが、いざ問いをぶつけられると答えに窮した。こいつと真正面から戦って打ち負かしたかったからです――その結果、負けて、守護対象である生徒たちを殺された。言えるはずがない。決して言ってはならないのだ。師匠から見放されるだけでは済まない。組織からの信頼さえも揺らがせる大失態だった。自分のつまらない価値観とプライドのために犠牲者を増やしてしまった……やはり、口が裂けてもいえることではない。
徹也は拳を握ったまま立ち尽くした。相手は師匠だ。すべてを報告しなければならない……なのに、喉が震えた。
負けたのも生徒たちを守れなかったのもこの自分自身なのだと、認めるしかなかった。それなのに、徹也は何も報告できなかった。このプライドのために失態を犯したのなら、償うためにはプライドを捨てなければならない。頭ではわかっているのだ。
徹也は、それでも意志の力で口を開いた。だが先に、ヴィトが畳みかけるように言ってきた。
「若さだな」
「え?」
徹也は思わずヴィトの顔をみようとして、ゴゥエの冑をみてしまった。すぐに目を逸らした。だがその顔をみなくてもわかった。ヴィトの器量は、大きいのだ。先輩として、師匠として、人として、ひとりの男として。ヴィトは大きかった。
「言わずともわかるよ。お前は真っ直ぐすぎるヤツだ。そして優しく、甘い。だからこそ気高きユニコーンに認められ、力を得た。これはお前の優秀さが引き起こした、お前の敗北だった」
「そうです。俺が……俺のせいで!」
「過ぎたことはどうにもならない。磨け。己を磨くんだ。そして、もう誰も死なせるな。つまらない張り合いとプライドなんて何の役にも立たないってことは、この件でわかっただろう?」
徹也は身震いした。ヴィトに許され励まされた嬉しさと、ただ情けない己の弱さを思い知って、泣きたくなってしまった。
そんな徹也をよそに、ヴィト――ゴゥエは悪鬼の如き一つ目で巧を見下ろし、その大きな手を首に伸ばしていく。幸福な夢をみている巧の顔はとろけるようなだらしなさで、今まさに殺されようとしていることにも気づかない。
こんな間抜けなヤツに俺は負けた。徹也は痛感した。拳をかたく握り、師匠が後始末をしてくれる景色を、ただ呆然と眺めつづけた。
それでも視界が滲んでいく。こんなダメな俺でも、ヴィトさんは……師匠は許してくれた。もう一生ついていく。一生、この人のもとで戦う。徹也は泣きながら決意した。




