追跡変身! フェニックス・マン!
降りろと言われた。そう連呼された。この窓から飛び降りてみろよ。そうすればオマエを認めてやるという条件だった。
やってやる。もうどうだっていい。藤堂巧はそうして教室の窓から身を投げ出した。
屋上から飛び降りるのとはわけが違っていた。しかし一年の教室は四階にある。そう考えれば屋上とあまり変わらないのかも知れない。だが、どっちにしたってもうどうだっていいのだ。
誰にも認めてもられない毎日は苦痛だった。文字通り体で思い知らされる。オマエは誰にも認められていない、だからオレがオマエを認めてやる――靴を隠され、ロッカーを壊され、朝と放課後に殴られる。
認められていない「幽霊同然のヤツ」から、ようやく認められる「普通のキャラ」へ。そのための代償は重かった。それで得られるものはクラスで一番惨めな奴と認められることなのだから、割にあっていない。
親はよく対応してくれた。親身になって話をきいてくれた。藤堂巧は実に裕福な家庭に生まれ、優秀な親に育てられた。それが乱暴者の大和田猛の癇癪玉を常にくすぐっていたらしいのだが、そんなことは言われなければわからないことだった。
どうやら僕は知らずのうちに人をイラつかせていた、「ヤバイ奴」らしい。憎しみを爆発させた猛に突然そう言われたのだが、思えば担任の福原からも同じような憎しみを向けられていたのかも知れない。
『もうオマエのことなんて知らないからな』
直接そう言われたのは、福原がいじめの件で校長から厳重注意をうけ、教頭から説教された日だった。クラスの女子が教務室でその光景を偶然みたとおしゃべりしていた。その日の放課後に福原に呼び出されたのだから、間違いはないだろう。
親は本当によく対応してくれたのだ。よく対応しすぎて、それは学校へのクレームと捉えられた。教育委員会に監視される事態だけは防ぐべく、再発防止の方針のもと、いじめの起こったクラスの担任は上の役職からしごかれる。その怒りと悔しさが、いじめの実行犯である猛ではなく、被害者の巧に向けられた。クレームを入れてきたのは猛の親ではなく、巧の親だ。
福原にとっていじめなんてどうだって良かったのだ。正義なんてものもどうでも良いのだ。教頭にしごかれて悔しいという自分の感情だけが大切なのだ。教師というサラリーマンでしかないあいつにとって、ただ説教の原因であるクレームの主――巧とその家庭だけが憎むべきものだったのだ。福原にとって巧はモンスタークレーマーの支援を受けた厄介な“問題児”でしかない。本当の問題児は誰かということを、少しも考えず、まるで猿のように感情任せで突っ込んでくる。
おかげで巧は孤立した。いまや猛と担任とが手を組んでいる状態だ。勝ち目はなかった。
まったくもってふざけているが、これが現実だった。もう飛び降りるしかない。こんな現実なんて望んでいない。放棄しても仕方がないだろう。
(いいよ。僕の死で思い知れよ。お前たちのやってきたことが、どれだけ腐っていたか。間違っていたかを、せいぜい思い知れよ!)
駐車場が近づいてくる。教師たちの利用しているスペースだ。そこに僕の肉片をばらまいてやる。福原はまた校長に厳重注意されるだろうか。車を汚された他の教師たちからも文句をつけられて、もうこの高校にはいられなくなるだろうか。
猛も殺人者の汚名を着せられて、クラスから孤立するだろうか。あるいは、「あいつが勝手に飛び降りたんだよ」とシラを切って終わりにするのか。その場合、嘘つきを告発してくれる正義の人はいるだろうか――あてにできる人は、誰も思い浮かばなかった。
独りだった。家は温かかった。でも一歩外に出れば世界は冷たかった。その落差、温度差に耐えられなかった。もうすべてをぶちまけるしかなかった。自分という存在の真実を、肉片としてぶちまけるのだ。
やがて頭から落ちた。これで、死ぬことができる。奴らの不実を告発することができる。この現実から抜け出すことができる。やっと楽になれる。そう確信していたのに。
――ごめんなさい。
そんな幻聴がきこえた。死んでいるはずなのに、何故?
瞬間、痛みが全身をかけめぐって、巧は血の海のなかをのたうちまわろうとした。自分の血で汚れたコンクリートの上で叫ぼうとして、顎が砕けて発声できない事実に気がついた。それだけではない。耐え難い痛みをごまかすべく地面を転がろうとして、ひん曲がった腕がストッパーになっていることにも気がついた。おまけに腕は動いてくれない。肩の関節が砕けて外れかかっているのだが、筋が少しくっついているせいで動かないまま固定されてしまうのだ。存分に転がって痛みを忘れたいのに、動かない腕が体を支えてしまう。おかげで一切のごまかしがきかない。痛みは直接、巧の精神を蝕んでいく。
死に損なったのだ。
何も考えられなかった。それどころではない。痛い。頭が砕けているのに脊髄はつながっている。神経系も生きていて、だから痛みという警戒信号を脳が際限なく意識に送り込みつづける、絶望的なバグが発生する。この痛みの根源をどうにかしろ。損傷箇所を治療せよと、脳が巧に告発し、懸命に訴えてくる。だが一部の骨はすでに折れ、両手両足は曲がり、頭蓋も割れかかっている。動けないのなら治療もできない。痛みなんて何の意味もなさない。ただ心を苦しくさせるだけだ。
――ごめんなさい。
また幻聴がきこえた。いったい誰が、誰に、何を謝っているのだろう。巧は何も考えられない頭のなかで、ただ疑問した。つぶれかけた眼球は真っ黒に染まった視界を赤黒く映すことしかしなかった。血で溺れた光彩はもはや光を認識していない。だから光も何も見えない。最期に見えた景色は、だから血で汚れた闇でしかない。
苦しかった。喉から血があふれて、それで呼吸ができなくなった。呼吸困難の状態だが、そもそも肺が潰れているから呼吸しても意味がないという最悪の余録がついている。遺言のひとつも遺せない。
最期に観た景色だとか、走馬燈だとか、本当の願いだとか、死にはそういう付属物があるのではなかったのか。人並みの人生から外れた人間には、人並みの死さえできないということなのか。
いったい誰がこんな人生を望んだのか。最期すら飾れないような、そんな人生をいったい誰が望むものか。巧は疑問のついでに、後悔した。
痛い。苦しい。もう嫌だ。窓から飛び降りなければよかった。あいつらの言いなりになって、身を投げたりしなければよかった。でも、生きていても苦しいだけだった。ならいずれにせよ同じことだったのか。
まるで無間地獄だ。いつ自分はそんな刑罰に相応する罪を犯してしまったというのだろう。生まれてきてしまったことがその罪に該当したということか。だが、両親は生まれ落ちた自分という命を本当に大切に扱ってくれた。誕生になれば、巧がいくら「もう高校生になったし、子どもじゃないからいいよ」と言っても記念のケーキとプレゼントを欠かさなかった。親戚も毎年会う度にお年玉をくれる。「いまは要らなくても、貯めておきなさい」親戚のおばあちゃんはそう言って、たかが高校一年の巧に笑顔で一万円札をくれる。お金がなくてバイトしている同級生もいるというのに、何という贅沢だろう。
自分は恵まれている方なのだという自覚はあった。だが、それが罪だったというのか。仮に、たとえそうだとしても……それは偶然に過ぎない。子は生まれる家庭を選べない。ならば、犯したという述語は当たらない。僕は何も罪を犯していない――巧は、最期に確信した。
恵まれて生まれてきてよかった。本来ならそう思えるはずだった。でも、それを嫉んでさげすみ、けなしてくる奴がいる。そいつのせいですべての幸運は否定された。長所を短所と認識させるために、くだらない全力を賭けてくる。長所がまるで自己嫌悪の種であるかのように思わせてくる。この行いこそ、本当の罪ではないのか。
ならば、罰を受けるのは本来、僕ではないはずだ。そうではないのか。
巧は何も考えられない頭のなか、意識の疾走たる閃きだけでその論考を完了した。
(猛に会わなければ……いや、そういう風な運命に仕向けた神様、あなたが、悪いのか)
巧の意識の疾走は魂とともに解き放たれた。巧は意識を失い、同時に割れた頭蓋から脳が漏れ出した。脳漿とともに脳髄が流れ出ることで、巧の脳はその構造を維持できなくなって――巧はそこでようやく、死んだ。
駐車場にはひとだかりができていた。一年の教室から男子が飛び降りたらしい。噂は噂を呼び、生徒たちは学年の上下も関係なく、無意識的に野次馬となって外へと出払った。教師たちはそんな生徒たちを制止しつつ、ついに起こってしまった最悪の事態を観察するべく、我知らず野次馬に参加しはじめていた。
うめきとともにのたうちまわろうとして動かない体を少し揺らしている、藤堂巧の凄惨な最期は、多くの生徒たち、ならびに教師たちにトラウマを植え付けた。ひんまがった全身、飛び散った肉片と血液、はじめてみる脳漿。
そして幻聴が野次馬たち全員に聞こえだしたとき、一同はパニック状態に陥った。
――見つけた。その記憶……肉体とともに、もらい受けるぞ、ニンゲンよ!
意味のわからない幻聴だった。だが野次馬たちの大部分を構成する多くの生徒たちは巧の声など知らなかった。したがって野次馬たちの多くはその幻聴が巧の霊的な叫びだと認識し、凍りついた。一歩も動けなくなった。超常的な現象を前にした恐怖が、野次馬たちの動きを止めた。
だがそれも長くはもたなかった。
ついに巧の肉体が動かなくなり、彼がやっと死んだのだとはっきりわかるようになったその時、紫色の炎がひとりでに燃え上がったのだ。
彼の遺体、肉片、血液のみならず、脳漿といった体液までもがすべて、一切残らず不可思議な炎で焼かれ、いわば全自動的に火葬される。
ただの火葬にしては、しかし炎の規模は大きかった。事実、天まで届く紫色の火柱は文字通り空を貫いて宇宙空間にまで到達していたのだが、地上にいる有象無象の人間たちには知り得ないことだった。
野次馬たちは炎を目の前にして、しかし己の感覚を疑わざるを得なかった。熱を感じなかったのだ。盛大な火柱は確かにこの目に見えている。なのに、この体は熱を一切感じない。誰もが疑念し、誰かが首を傾げ、視覚と感覚との圧倒的なズレを不気味に思った、その時だった。
盛大な火柱が一瞬にして消え、その爆心地にたったひとりの――否、ただ一体の化け物が立っていた。
ヒトの形をしてはいても、皮膚は肌の色をしていない。黄色と紫色と赤色のまだら模様が毒を想起させる。そしてつま先や指先は獣の爪のように尖っていた。顔は仮面のように平らかで、そこに鼻や口は見られず、紫色の色を灯した双眼だけが暗く輝いている。頭髪のあるべき頭頂には、毛一本なく、代わりに頭頂の左右に小さな翼を模した左右対称の黄色く扁平な突起物が生えていた。鬼人とも鳥人ともつかない独特の印象を見る者に与える。
まるで全身を紫・黄・赤のまだら模様をあしらったボディスーツで覆っている珍妙なヒトであるかのようにも、確かに遠目からではそう見えるが、その表面が絶えず呼吸をしてでもいるように脈々と蠢いていることから、それがスーツなどではないと嫌でもわかってしまう。
これを見た野次馬たちは一斉に叫び声をあげ、恐怖の金縛りを振り切った者から順番に、現場からの逃走を開始した。
逃走を早くから開始した野次馬のひとり、一年生の水戸舞香は、化物の瞳が変色したのを目撃したが、そんな情報などすぐさま忘れて走り去っていった。
※
意識を失った藤堂巧は、たゆたう時のなかで幻影をみていた。それは存在しない記憶だった。だが、何故か懐かしく、あたたかかった。
誰だかわからない女性の背中。白と赤の装束を見に纏う、高位な巫女のような出で立ちだ。声はそこから聞こえてくる。
――ごめんなさい。
優しく、心が満たされるような力を備えた不思議な幻聴。でも背中を向けたままで、決して顔はみせてくれないらしい。
「謝るなんて、そんな」
謝る必要などない。謝ったところで無駄だ。もう僕の人生は終わってしまった。あなたは、遅かったんだ――朦朧とした最期の意識のなかで、巧は視界に映る大いなる者を呪いながら、それでも自然とそこに手を伸ばしていた。
何故手を伸ばしているのか、それ以前に何を掴もうとしているのか、巧にはわからなかった。それはまったく無意識の所作だった。
※
化物の双眼が紫色から赤色に変異した、その瞬間だった。
巧は意識を取り戻した。
赤黒く染まって見えなくなっていたはずの視界は取り戻されていた。まるで視力が回復したかのようだ。以前よりもはっきりと明瞭にこの世界を見通すことができる。そればかりか時間の感覚さえ狂っており、周囲の景色がわずかばかり遅延してみえた。
たとえば、走り去っていく生徒や教師どもの後ろ姿がやけにゆったりと見えるのだ。そんなに遅いなら、こっちは一歩踏み出せばすぐに捕まえられる。そんな気がして、瞬間、巧は己に宿った超人的な力を知覚した。
(僕は、死んだはずだ。なのに……?)
首を傾げ、両手を見た。そこで全身が黄色だか赤だか紫だかよくわからない、まるで毒をもつ爬虫類のような禍々しい表皮をしていることに気がついた。
どうやら、人ではない何かに成り果てた。これを転生というのだろうが、しかし世界は何も変わっていないからそれも当たらない。ならばこの怪現象をどう言えばいいのか、巧にはこの言葉しか思い浮かばなかった。
(これじゃまるで、変身じゃないか)
子どものころによく見たヒーロー物のストーリー。その第一話の、おきまりのシーン。もう子どもではないと嘯くために最近では見なくなったが、記憶には常に残っている。
ヒーローは倒すべき敵を抹消するために、この世界に生まれ落ちる。そして巧は、己の視界に倒すべき仇敵の存在を認めた。
悲鳴を張り上げながら、時折振り向いて、慌てふためき、無様に走っている、大和田猛の、広い背中。これを踏みつぶすために僕は変身したんだ。
確信せずして、この現実を認めることなどできない。故に巧は確信する。己の使命を。
「お前を殺す、そのための力なら!」
喜んで行使してやるよ。
巧は一歩を踏み出した。それだけでコンクリートの地面は割れ、圧倒的な脚力から繰り出される一瞬のダッシュが、全身を弾丸のように撃ちだす。ほんの一秒の間に一〇〇メートルの距離を詰める。
巧は手を伸ばした、大和田猛の背中に向かって。もう目の前にあるこの醜い背中を完膚なきまでに引き裂いてやるために、夢中で手を伸ばした。
「お前なんて!」
罪を清算する時だ。いじめの罪過を晴らす時だ。巧は迷いなく、与えられた力を行使する。