トロッコ問題の被害者A
遠くから少しずつ近づく光はレールと車輪の摩擦音が大きくなるにつれて鮮明になっている。辺りに街灯はなく、満月を除いて真っ暗闇である。そして唯一の光も雲の中に姿を消していった。
今、俺はこの景色を冷たいレールの上に寝転がって見ている。寝転がっているというよりかは拘束されている。手足を結束バンドで縛られている。口をガムテープで塞がれている。
どうしてこうなったのかを一から説明することはできない。本当に気づいたらこうなっていたとしか言いようがない。でも、なぜこうなったのかは説明できる。どうやら俺はトロッコ問題の実験モルモットになったらしい。それはさっき、どこかしこから流れるアナウンスで耳にした。そして俺の他にもあと5人の拉致被害者がいるという。
ところでトロッコ問題は有名な話だ。トロッコ問題あるいはトロリー問題とは、
「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」
という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題である。
これは堅苦しい言い回しではあるが、簡単な例をあげると
「トロッコが線路を暴走し、このままでは5人をひき殺してしまいます。貴方は分岐器の近くにいます。しかし、切替先にも1人いて切り替えた場合1人がひき殺されてしまいます。あなたはどうしますか。」
というかんじだ。
そして今俺は1人側にいる。この状況をどう考えるのも人それぞれであるかもしれない。多くの人間は二択に迫られたら俺を躊躇なくひき殺すだろう。1人の犠牲で5人を救える。そう考えれば分岐器を倒して俺のほうへトロッコを向かわせるのは当然の行動のように見える。
しかし、どうやらその5人は犯罪者であるらしい。それぞれ罪の大きさに多少の差異はあるが、一度警察のお縄になった者どもらしい。だが、彼らは殺しや放火などの重罪は起こしていない。これだからレバーを握る者はどちらに倒すのか必死に悩むだろう。このとき俺だったらどうしていたのだろうか。
月は未だに姿を現さない。レール横に生い茂る月見草もうつむいている。列車は刻一刻と迫っている。余命1分ほどの俺の願いはレバーの握るものが優勢思想の人間であることである。そうすれば頭の悪い犯罪者などすぐにひき殺してしまうだろう。そして悲惨なことに俺もこの数分で立派な優勢思想の持主になってしまった。今の俺には犯罪者5人をひき殺し、俺を生かす手段がこの世界にとって最高の手段であると確信に至ってしまった。だが、君たちも一度この状況を体験してみるといい。自分の命の重みと向き合ってみるといい。他人の命を考えてみるといい。さすれば君の醜さがウジ虫のように湧いてくる。
結論を出そう。他の5人がどのような人間なのかは知らない。でも、俺は奴らよりも優秀な人間であることは確実であるのだ。分岐器の人間はよく考えてみるといい。将来の日本を背負って立つ人間とその他大勢の一部でどちらの人間が救われるべきなのだろう。答えは明白であろう。
「1人の優れた人間を救うために5人の犠牲は必要。」
優秀な人間だけが生きる世の中の方がずっと効率的で、豊かになるに違いない。このトロッコは5人をひき殺すべきだ。そして間もなく分岐器のレバーは倒された。