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愛しの手紙

 適当な世間話をした後、職務上の立場に戻った看護師さんは自らの仕事をこなした。もちろん、僕も看護師さんの手をわずらわせないように協力した。

 あとは普段の通りだ。少なめの味の薄い朝食を食べて、朝の軽い運動をするために運動場に向かい、僅かな汗をかいた。それから病室に戻って汗の始末をした。そして、しばらく病室で文庫本を読んで暇を潰した。

 ただ、僕の中に溢れる不安が読書に僕の意識を集中させてくれなかった。僕は取り留めのない漠然とした不安に犯されて、文字列を追って、その文章を理解することが出来なかった。何にも集中できない無為な時間は、刻々と無駄に過ぎで行った。時間がもったいないと言えばもったいないかも知れない。けれど、僕の手と頭は読書以上の動作をしたくなかった。倦怠が僕の体に憑りついて離れなかったからだ。

 怠さに身を任せて、雨音を聞きながら僕は無駄な時間を過ごした。退屈で退屈で仕方が無かったことだけれど、時間は過ぎて行った。

 そうした無気力な時間を過ごした僕は今、病院のフロントに居る。結局、あまりにも退屈が過ぎて、病室に居ることが耐えきれなくなった。だから、少しでも暇が潰せるだろうフロントに来てみた。静的な空間に居るよりも、動的な空間に居た方が変化があって面白いだろうと思ってみたから。実際、あの無気力な部屋に居るよりも、見ず知らずの人たちが柔らかい騒々しさを奏でるこちらの方が、時間の流れは速く感じる。

 わずかな音に耳を傾けて、僕は公衆電話が設置されている薄暗い通路のベンチに座る。一人ぼっちだ。普段からほとんど誰も歩かない通路だから、それは当たり前なのかもしれない。そして、この孤独感は窓の外の鉛色の空によって拍車がかかる。ただでさえ、薄暗い通路は普段よりも薄暗い。


「雨の中でも映えるんだ……」


 いつ見ても立派な桜の木は、雨に打たれ、青々とした葉を随分と楽しそうに震わせている。そして色とりどりの花が植えられている花壇にも、雨粒はぴしゃぴしゃと命の恵みを与えている。空は鉛色で、今にも全生物を殺しそうだ。だけどその実は、全ての生き物をより栄えされるため、神から遣わされた使徒だ。

 壮大なことを降り頻る雨に想いながら、ぼうっとガラスの向こうをジッと見る。そこに何かがある訳じゃない。だけど、表面的な薄暗さの中に讃えられる黄金が込められている。そんな当たり前のことが面白い。こんなのも所詮、誇大化された感慨に過ぎない。でも、その一瞬を楽しもう。

 そんなことを想いながら、瞼を閉じて、口元を緩ませる。きっと、これは僕を見る他人にとって気持ちの悪い印象でしかないだろう。けれど、ここには僕以外誰もいない。そして、僕に話しかける人も誰もいない。居るとすれば、たった一人、僕が待ち続けるあの人だけだ。そして、きっとその人も僕を待ち続けているはずだ。そう思わなければ、僕の気は違ってしまう。僕らはそうしなければ、自分たちが歩むことの出来る唯一の道を閉ざしてしまうことになるのだから。


「貴方が、正信さん?」


 一本道の脆い運命を感慨深く胸中で注意深く見つめていると、おっとりとした優しい女性の声色が僕の集中を終わらせた。僕はその声に従って、瞼を開けて、声のする方向に顔を向ける。そこには僕よりも、かなり身長の低く、白髪を綺麗に整え、病服のなのにもかかわらず、健康的で高貴な雰囲気を纏うおばあさんが、美しい時の皺が刻み込まれた顔に疑問符を浮かべながら僕を見つめて佇んでいた。


「ええ、僕が正信です」


「そう、ふふふ、昨日はお熱い様子で」


「見られてましたか」


 昨日あの場に居たであろうおばあさんは、上品に口元に痩せた手を当てると、仕草に則った微笑を浮かべる。僕はその微笑を返すように、小さく、愛想良く笑って見せる。

 僕は深雪さんとの約束の時間になるまで、こうしたやり取りを続けようと思った。けれども、僕の好奇心がそう言った我慢をさせてくれはしない。


「それで僕に何か用があるんでしょうか?」


「そうそう、これ貴方に渡すように頼まれたんですよ」


「封筒?」


 手を口元から離すと、おばあさんは病服のポケットから一つの白封筒を取り出した。そこにはボールペンで、丸っこい女性らしい筆跡、僕の名前が書かれていた。


「それは誰からのものですか?」


「貴方の恋人からですよ。昨日、あの子が帰る時、私にこれを託して帰ったんです。それで、『明日の今頃、ここに正信が来るからそれを渡してください』って、そう頼まれたんですよ」


「深雪さんから……」


「恋文じゃないかしら? 私たちの時代にはよくやったものだけど、こんな時代になってもやる人が居るなんてねえ……」


 過去を想うおばあさんの手から、僕は深雪さんが僕に当てた手紙を受け取った。封筒はセロハンテープで、封が閉じられている。よっぽど、他人に見られたくないことだったんだろう。

 けど、そんな大切なものを見ず知らずの他人に預ける必要があるんだろうか? どの道、今日僕と会えるのだから、その時に言えば良い話じゃないんだろうか?

 どうして、深雪さんはこんな二度手間を加える必要があるんだ?

 答えの無い問いに悩まされながら、僕は封を切ろうとセロハンテープを剥がそうとした。


「人が居る前で、女の内面を見るのは駄目ですよ。きっと、そこには貴方の彼女が貴方を目の前にして恥ずかしくて言えない言葉が、ありのままに書き連ねられているはずです。そんな初々しい言葉は、貴方しか居ない場所で読むべきものです。ですから、ここで読むんじゃなくて、病室に戻ってから読んでください。貴方だけに向けられた大切な言葉なんですから」


 ただ、おばあさんの凛とした声によって僕の愚行は止められた。確かにおばあさんの言う通り、この封筒の中には深雪さんが僕にだけしたためた言葉が込められている。そんな貴いものを公衆の面前にで読むのは、深雪さんの真心を侮辱することだ。僕が求めた深雪さんとの関係を、僕自身で壊すことになってしまう。

 剥がしかけたセロハンテープを再び、貼りなおして、僕は再び封筒に封をした。そして大切に病服のポケットに仕舞いこんだ。


「それで良いんですよ」


「ありがとうございます」


「良いんですよ。年長者が貴方たち若者にできることは、これくらいですから」


 微笑みながらおばあさんは一礼した。そして、そのまま何を言う訳でも無く、踵を翻して、明るいフロントに向かって歩き出していった。その背筋が伸び、歳を感じさせないおばあさんの歩みは力強い。

 僕もそのおばあさんの歩みに倣って、深雪さんから手紙を読むために自分の病室に帰ろうと立ち上がる。けれど、急に立ち上がってせいか、視界はぐらぐらと揺れる。それでも再び座り込むことなく、僕は立つ。

 さあ、帰ろう。

 深雪さんが来るまでに、深雪さんからの手紙を読み終えよう。そして、その想いに答えてあげよう。

ご覧いただきありがとうございます。

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