表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/25

不穏

 不穏を感じた日はあっという間に過ぎた。

 あの後、僕はそそくさと病室に帰り、漠然とした不安の中、ベットにうずくまった。もちろん、日課であるカウンセリングは受けたし、昼食も夕食も普段通り食べた。けれど、そうした日常の中で僕の不安は蓄積されていった。外形すらも分からない不安が、毒ガスのように精神を犯して行った。

 精神を麻痺させ、本来感じなくて良いはずの取り留めのない不安を感じ続ける僕の夜は、酷く陰鬱だった。言語化できない不可解な不安が、僕が得た歪な安寧を包み込み、瞼を閉じる度に得も言えない息苦しさが僕を襲う。その度に僕は起きた。消灯時間を迎えてから僕は少なくとも十回は起きた。

 そうして迎えた朝は最悪だった。


「どうしたんだ、僕は?」


 雨がアスファルトの地面にざあざあと降り注ぐ音で、僕は飛び上がる様に目覚めた。

 結局、昨夜は息苦しさよりも本能の睡眠欲求が勝ったことにより、僕は意識を失うようにして眠りに落ちた。

 けれど、睡眠の質は最悪だった。何も覚えていないけれど、身の毛がよだつ酷く恐ろしい悪夢を見た。その影響のせいで睡眠は浅かったし、何よりも服とシーツが寝汗でびしょびしょになっていて気持ち悪い。そして、そんな恐ろしい悪夢を見たのにもかかわらず、悪夢の記憶を一切持っていない自分が怖い。

 久々に感じた悪辣な朝に、僕は頭を抱える。頭の中には、灰色の霧が籠っていてすっきりとしない。睡眠不足による耳鳴りと僅かな頭痛が、僕の体を倦怠に包み込む。

 無気力で青白い朝は、歪な愛を掴んだ僕の胸中を黒くする。幸せだった昨日が、真っ赤な嘘のように感じられた。昨日の全ては、僕の脳が創り出した幻灯に過ぎなかったようにも感じられる。

 だけど、そう思えていること自体が偽物だ。昨日、僕は確かに深雪さんとの間に、歪な愛を紡いだ。そして、僕らは茨の道を歩むことを決めた。僕の唇には、僕の頬には、僕の耳元には、僕の胸板には、深雪さんの柔らかさが残っている。それが嘘だということは無い。


「雨……」


 空想と現実に区別がついたことに、胸を撫で下ろす。それから、首を動かして窓に視線を向ける。僕が目覚める要因を作った雨音は、偽物じゃ無かった。大きな雨粒は、分厚い鉛色の空から勢いよく降り注ぎ、晴れ続きで乾いた大地に慈雨を与えている。心なしか僕の乾いた肌もしっとりとしている。

 精神的には憂鬱だけれど、肉体的には具合が良い天気に、僕は矛盾を感じる。だけれど、その矛盾はどことなく面白い。何が面白いのか分からない。けれど、口角は若干上がって、腹からは短い笑いが込み上げてくる。

 変な愉快を覚えながら僕は、ベットから出る。朝一の足元は揺らぐし、肌にくっつく肌着と寝間着が気持ち悪いことには変わりない。だけれど、目覚めたその時よりは随分と良くなっている。僕の精神を覆う不安も、少しだけ和らいでいるような気がする。全て、確実に断言できる状態になってない。全部がprobablyだ。けれど、それを絶対と思い込めば、こんな不安も杞憂に過ぎるだろう。病気は気からだ。なんてことは無い。

 随分と前向きなことを考えながら、真斗が置いていったタオルを取るために洗面所に足を向ける。流石にこんなにもぐっしょりと背中が濡れていると、前向きな考えも長く続かない。

 洗面所に着く否や、僕は濡れた上着を全部脱いで、大き目のビニール袋に入れる。そして、洗面所近くのシェルフから、柔らかさが若干欠けたごわごわとした綿の白いタオルを取り出す。


「まだ、痩せっぽちだ」


 鏡に映る僕の裸体は、痩せてこけている。肋骨が浮き出て、腕も手も全部が節っぽい。でも、ここに来る前よりは随分とマシになっている。腹部はほんのりと膨れて、健康的な様子を若干取り戻したし、小さな吹き出物も出なくなった。僅かながら僕の体は健康体に近づいて行っているんだ。

 だけど、それを踏まえてもこの肉体状況は看過できない。あまりにも酷い。これから食べるようにしよう。

 そんなことを考えながら、僕は汗で濡れている背中や脇を拭いた。拭き終えたタオルもビニール袋に放り込む。それから、新しい肌着を着る。そして、ベット付近のパイプ椅子に座る。骨ばった尻からすれば、柔らかい座面の方が楽だけれど、今は濡れたベットに腰掛けたくは無い。


「深雪さんは来れるんだろうか?」


 そして、窓の外の曇天を眺めながら深雪さんのことを想ってみる。

 昨日、深雪さんはまた来ると言ってくれた。それはつまり絶対に来るっていうことだ。深雪さんは約束を破らない。例え、今日が雨だとしても。

 でも、どうして今日は用事の折り合いがついたんだろう? 今日は平日だ。授業があるはずだ。加えて、深雪さんは授業をサボる人間のようには見えない。あくまで僕個人の視点でしかないけれど、深雪さんは真面目な人だ。自分に課せられた義務をこなす人だ。義務の対価が権利であることを知っている聡明な人だ。そんな人が、学校をサボってまで僕に会いにくる?

 もしかしたら、僕が真面目腐った人間だからこんな疑問を抱いているのかもしれない。真っ当な人間の道から逸れている癖に、その道理から外れることをすると気に病む性分的な矛盾を抱えている背反する人間だから、たった一言で片づけられる疑問を何度も問いかけているんだろう。

 だけど、果たして、深雪さんが一時の感情に流されて義務を放り出すなんてあるのか?

 僕は一瞬間を生きる人間だ。

 けれど、深雪さんは違う。深雪さんは理性的で、自分が何をすべきなのかをよく分かっている人だ。そんな人が熱っぽい感情で、醜い経験からずっと拒絶してきた愛に身を任せるなんて直情的なことが出来るのか? 愛を欲していないのにもかかわらず、そんなことをしたいのか? 

 それとも……。

 ああ、いや、こんなことを考えていては駄目だ。誰にだって背反する感情を抱くときはあると思う。真斗ですら、義務を放り出して僕という真逆の存在に憧れた。あいつですら、そう言った感情を抱く。なら、深雪さんもそれに準ずる感情を抱くはずだ。表と裏は一緒だ。一時の感情に任されることだってあるはずだ。


「おはようございます」


「ええ、おはようございます」


 扉が開く音と聞きなれた声に、驚いてビクッと体を震わせてしまった。

 ただ、平生を装うことは難なく出来る。自分を隠す嘘を僕は覚えた。日常の演技が種目である大会があったら、僕はきっと優勝できると思う。


「昨日はお熱い模様で」


 もっとも、僕を驚かせた看護師さんは職務上の立場の調子では無かった。看護師さんは口元に手を当てて、によによと僕を茶化すように言葉を掛ける。皮肉に思えて仕方が無い。


「皮肉ですか?」


「皮肉じゃないですよ。本気で松岡さんのことを応援しているんです。きっと、それは二人の精神を癒すことになる良薬ですから」


 けれど、看護師さんはどうにも皮肉を込めて、そんなことを言ったわけじゃないらしい。意味が全く分からない。この人は僕に恋をしているはずだ。こんなことを自分で言うのは、酷く傲慢なことだ。でも、美しい人の輝かしい瞳には、まだ恋の光が灯っている。だから、それは確かなことだ。

 確かなことだ。けど、確かなことだからこそ僕はそれを疑問に思う。


「でも、貴女は僕に恋しているんじゃないですか?」


「当然です。けど、恋する乙女はライバルも応援するものなんですよ。だって、好きな人が幸せになってくれるほど嬉しいことは無いですからね」


「そういうものなんですか……」


「そういうものですよ。まあ、結構腹も立ってますけどね」


 看護師さんはさっきまでの威勢をどこにやったのか、少し声色を落ち込ませる。どうして、この人は僕の愛を受け取ることを出来ないことを知っていながら、まだ僕を愛そうとするんだろうか?

 僕にそれは分からない。きっと、これは女性でなければ分からない感情なんだろう。だから、僕は何も言わない。僕が何かを言ったところで、それは同情にしかならない。看護師さんの感情に、寄り添うことは出来ないんだから。僕は口を閉ざして、ただ演技の微笑を浮かべる。


「まあ、女は執念深いんですよ。自分の手に唯一無二の愛が手に入るまで強欲に追い続けますし、愛が手に入ったらそれが離れないようにどんなことをしても懐に抱え込むんですよ。それを努々忘れないでくださいね」


 ただ、看護師さんは直ぐに元の調子を取り戻して、僕に効かないことを知っておきながら魅惑のウィンクをしてくる。


「忘れませんよ」


 それに僕は素っ気なく返す。

ご覧いただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ