兄、駿河 2
駄目元で3人はもう一度、不思議屋へやって来ていた。
薄暗い店の中、老婆は手元の水盆を見下ろしている。
流石が真剣な面持ちで老婆を見つめている。
白狐の笹雪を抱いている景都と、咲哉も老婆の言葉を待っていた。
「体質は治せんが、最近の体調不良の原因なら取り除けそうだね」
と、老婆は水盆から視線を上げて言った。
「原因ってなんだよ」
「伯母の美加だよ」
「……は? さっき、見舞いに来てたけど」
流石が、いぶかしげな顔で首を傾げた。
「それほど我が強くはない。知れれば引っ込む程度だ。だが荒立てればこじれる」
「だから、なんのことだよっ」
食ってかかる流石の後ろで、咲哉がスマホのレンズ側を老婆に見せた。
老婆は頷き、
「明日の午後3時、病室の外から覗いてごらん」
と、言った。
「学校が終わってからじゃ間に合わないよぉ」
と、景都が言う。
「いや、学校から直でタクシーに乗って行けば間に合うよ。すぐ乗れる時間に、俺がタクシー呼んどくよ」
と、咲哉はもう一度スマホを振って見せた。
その日は雲が厚く、廊下の窓から入る日差しのぬくもりも少なかった。
入院棟はひんやりとして静かだ。
駿河の病室は、若年層の入院階の一室だった。
午後の回診なども終わり、入院階には廊下を出歩く患者の姿もない。
個室の扉は、縦長の覗き窓がついたデザインだ。
ちょうど午後3時になった。
足音を抑えて病室の前に来た3人は、不思議屋の老婆に言われた通り、扉の窓をそっと覗き込んだ。
駿河は、枕に背を預けて座っていた。そのベッドに、伯母の美加も腰掛けている。
美加は駿河の肩を撫で、身を寄せた。
視線を落とす駿河の口に、美加がそっとキスをした。
頬を撫で、視線を覗き込むと、もう一度唇を合わせる。
廊下の暖房なのか、生暖かい空気が流れていた。
咲哉に袖を引かれるまま、流石と景都は入院棟の階段ホールまで戻って来た。
患者が行き来することの少ない階段には暖房もなく、ひんやりと冷たく感じる。
「そういう事だったんだな」
と、咲哉が頷いている。
「……今のって」
呆然としたまま、景都が呟いた。
「いやいや、なに逃げてんだよ。止めねぇと」
と、向きを変える流石の腕を掴み、咲哉はスマホの画面を見せた。
先程の瞬間。美加が駿河にキスしている場面が写されている。
「なにしてんだよ、お前」
「これがどういう意味でも、俺が兄貴なら弟には見られたくないよ」
「……」
「婆さんが言ってたのはきっと、これが駿河さんの体調不良の原因ってことだ。荒立てればこじれるって言ってたろ。これごと持ってって良いから、なにも言わずお母さんに見せろ」
と、咲哉は流石にスマホを差し出した。
流石はスマホを受け取ると、
「先帰る」
と、言いながら階段を駆け出した。
その場に残された咲哉は、まだ呆然としている景都の背を促し、
「俺たちも帰ろう」
と、階段を歩き出した。
景都も小さく頷いて歩き出す。
雲が厚くなり、もうすぐ雨が降り出しそうだ。
伯母の美加は、流石と駿河の母親、彩加の実姉だ。
甥である駿河の入院する病院へ、ちょくちょく通って来ては勝手に世話を焼いていたらしい。
レンガ造りの喫茶店は、冷たい雨のせいで客足が少ない。
窓ガラスに、吹き付ける雨が流れ続けている。
彩加は、姉の美加を近所の喫茶店に呼び出していた。
彩加は活発な印象の女性だ。さらりとしたセミロングの黒髪を耳にかけている。
重い表情をしているが、待ち合わせの席にやって来た美加よりもずっと若々しく見える。
「急にどうしたのよ。こんな天気に」
席に座った美加に、
「姉さん、これを見て」
と、彩加は、自分のスマホに転送した例の写真を見せた。
美加は画面を覗き込んで眉を寄せ、
「……なによ、この合成写真」
と、声を尖らせた。
「駿河から聞き出したわ」
「なにを」
「姉さんがそんなに病院に来てたこと、わたし知らなかったわ。駿河が黙っていたのは、そういうことだと思うの。駿河のことを気にしてくれるのは嬉しいけど、もう二度と病院には来ないで」
落ち着きながらも、強めの口調で彩加は言った。
「そんな写真、なにかの間違いよ」
「ええ、もちろんよ。でももう病院には来ないで。駿河の所には、私や流石が行くから」
「そう」
わざとらしく溜め息を吐き出すと、美加は注文をすることなく席を立った。その後ろ姿を、彩加が目で追う。
カツカツとヒールの音を鳴らしながら、喫茶店を出て行く美加は不機嫌そうな表情だった。赤い傘を広げ、その姿はすぐに見えなくなる。
まだ雨は止みそうにない。
一歩遅れたウエイトレスが、彩加の残る席へやって来た。
「あの、お連れ様は」
「ごめんなさい、ちょっと立ち寄っただけだったんです。えっと、レモンティーをもう一杯もらえます?」
と、彩加はお代わりを注文した。
「かしこまりました」
ウエイトレスに作り笑みを向けていた彩加は、スマホ画面に視線を落とすと、眉間にしわを寄せて息をついた。
ひんやりとした空気の中、暖かい風が流れている。
日ごとの寒暖差も大きく、季節の移り変わる時期だ。
学校の帰り道。
雑木林の横を、3人は傘を差して歩いていた。
「こういうのって……身内だけどさ。これでいいのか? 警察とかに言わなきゃいけない事じゃないのかな」
と、流石が言った。
「証拠写真、撮っちゃってるね」
と、景都も呟く。咲哉は薄暗い林の奥を眺めながら、
「警察沙汰になったら身内による虐待なんて事になって、駿河さんにやたらな人目が向くぞ」
と、話した。
「……そんなの、具合がますます悪くなっちまう」
「その通り。これ以上続くようならともかく、身内とは言え、守りたいのは加害者側じゃなくて被害者側なんだからさ。わざわざ公にしなくても良いじゃないか」
「うん。そうだな」
「きっと、流石のお母さんが上手く伝えてくれたよ」
静かに頷く流石の手を、景都がそっと握った。
病院の窓の外を、さらさらと霧雨が舞っている。
北区総合病院1階の売店で、咲哉と景都は差し入れを選んでいた。
「俺の親戚にオネエの人がいてさ。多少スキンシップは激しいけど、別に俺は嫌じゃないんだよ。ちゃんと相手に合わせてくれてるって言うか、俺が引くような事は絶対しないんだ」
と、咲哉が言う。
咲哉が適当に選んだ飲み物を、景都の持つカゴに入れていく。
カゴを持ちながら景都は、
「自分勝手はダメだよね。相手に合わせるって、相手を合わせさせるって事じゃないもん」
と、言う。
「うん。本当だね」
咲哉は景都の髪を撫でた。「景都はなに飲む?」
「あ、桃のジュース」
「オーケー」
「あ、自分の僕払うよ」
と、景都は言うが、咲哉はレジに向かい、
「俺が買うからいいよ。でも上まで持ってってくれるか」
と、笑った。
「うん」
売店の奥の窓から薄日が差している。
もうすぐ雨は止みそうだ。
ひとりで病室へやって来た流石の表情で、兄の駿河はすぐに気付いたらしい。
「見られたか」
と、駿河は肩を落とした。流石は無言で頷いた。
「午前中、母さんが来たよ。詳しく教えてくれなかったけど、美加さんはもう来ないって」
「俺が来るよ」
「それは楽しみだ」
駿河はにっこりと笑った。
「なんで母ちゃんに言わなかったんだよ」
流石が言うと駿河は片手を伸ばし、流石の短髪を撫でた。
「まぁ、それで伯母さんが救われてるなら良いのかなと思ってたんだよ。俺に出来ることなんて少ないからさ」
「じゃあ俺に算数教えてくれよっ、まちがえた数学!」
と、流石は力強く言った。
「……そのくらい構わないけど、数学苦手なのか?」
「だいたい……全部の教科苦手だけど」
「全部?」
病室の扉がノックされ、景都と咲哉が顔を出した。
「流石、声大きいよ」
「ジュース買ってきた」
「ふたりも来てくれたのか。こんにちは」
「こんにちは!」
景都は、ジュースの入ったビニール袋をベッド横の棚に置いた。
薄いカーテンの向こうから、夕方の日差しが届き始める。
雨は止んだようだ。
「新しい中学の勉強って難しいのか? 母さんからは、あんまり小学校の通知表も良くないって聞いたことはあったけど」
駿河に聞かれ、景都が嬉々として、
「流石はすごいんだよ! 小学校の通信簿で、右から順番に1,2,1,2って行進みたいな時があったんだよ」
と、答えた。
「行進……」
「この前やった入学初期学力テストってやつの総合順位は、俺が上から5位だった時に下から5位だったよな」
と、咲哉も笑いながら言う。
「――!」
これには駿河も驚きの表情を見せた。
流石は口を尖らせている。
「中学は勉強をする場所だと実感したぜ。英語も単語の小テストばっかやるしさ」
「小学校では生徒会長だったんだろ? 勉強できなくはないんだと思ってたよ」
と、駿河は目をパチパチさせながら笑っている。
「成績で選ばれた訳じゃねぇもん。それに行事とかで言う事は咲哉が書いてくれてたんだ」
片手をひらつかせて咲哉が、
「副会長でした」
と、答えた。
「俺の勉強はここでできる通信教育だったから、普通の中学の内容とは少し違ってるかもしれないけどな……うん。そういうレベルなら、俺に教えられる事は色々ありそうだ」
駿河はそう言って、明るく笑っていた。
――その夜。
駿河が目を覚ますと、開いているベッドに半透明の若い女が腰かけていた。
「シズさん」
ベッドに起き上がり、駿河は半透明の若い女に声をかけた。
『残念。お迎え、遠退いちゃったみたいね』
ほわほわした声で女が言う。
「弟のおかげです」
『よかったわ。心配してたのよ』
「シズさんには、お迎えよりお見舞いに来て欲しかったな」
『これから、弟君たちが元気を運んでくれるわ』
「はい」
半透明の若い女は、腰掛けた空きベッドのシーツを撫で、
『ふた晩だけだったけど、このベッドもなんだか愛着がわいちゃったわ。最後に覚えている場所だからかな。でも、もう逝かなくちゃ』
半透明の若い女はふわりと立ち上がると、駿河のベッドのそばにやって来た。
女性用の病室が足りず、駿河とふた晩だけ相部屋になった女だ。
その後、亡くなっている。
『シートベルトを締め忘れた時に限って事故を起こして、顔は包帯を巻かれてたのに、どうして私が若い女だってわかったの?』
「今と同じ姿が、体から出かかってました」
『ふうん。死ぬ間際の人間ってそんなふうに見えるのね』
「人によりますけどね」
『その体質が、あなたの体調に影響してるのよ』
言われて駿河は苦笑して見せる。
「まぁ、俺の場合はそうですね」
『もう行くわ。元気でね』
「シズさんも気をつけて」
『ありがとう』
空気に解けるように、若い女は姿を消した。
見送っていた駿河は、棚に置いた写真立てに目を向けた。
流石たち3人が写る卒業式の写真だ。
3人の笑顔につられるように、駿河は優しい笑みを向けていた。