残念な大人 4
ベッドに入った咲哉と奈良は、すぐに眠りに落ちていた。
暗く重い、不気味な夢を見ていた気がする。
咲哉が看護師に起こされたのは、普段ならまだ起きている時間だった。
「イタリアのお母様から電話よ。起きられる?」
黒縁メガネの看護師が小声で言う。
「はい」
咲哉も眼鏡を掛けながら、ベッドに身を起こした。
「夜だから、手短にね」
コードレスの電話器を受け取り、咲哉はベッドから降りた。カーテン越しの隣のベッドでは、奈良が軽い寝息を立てている。
腹部の鈍い痛みに片手を当てながら、そっと病室を出た。
暗い廊下を、先程の看護師の足音が遠ざかっていく。
「もしもし」
『咲哉、怪我は? 秋ちゃんから連絡もらってびっくりしたわ』
咲哉の母親、百合恵が早口に言った。
「うん。秋さんが病院にも来てくれて、迷惑かけちゃったよ」
『それは私が謝っておくから、たっぷり甘えさせてもらいなさい。あなた、大丈夫なの?』
「……」
咲哉は、よろけて壁に手をつき、ゆっくりと屈み込んだ。
腹部と腰の鈍い痛みが膨らんでいく。
『咲哉っ? 聞こえてる?』
「……聞こえてる。隣のベッド、寝てるからさ。廊下に出てきたら、ベンチに足の小指ぶつけた」
そういう事にした。
『大丈夫?』
「大丈夫。やっぱ、母さんの声聞くと落ち着くもんかな」
咲哉は小さく笑った。
「検査では、なんともないって。奈良も。タクシーで帰るって言ったんだけど、秋さんが迎えに来てくれるって。そのまま秋さんのとこに泊めてもらう。だから帰って来なくていいよ」
『そう……ひどい怪我じゃなくて良かったわ。でも、ひと仕事切り上げたら帰るからね』
「わかった。父さんにも心配させちゃったかな」
『まだ伝えてないのよ。お仕事が手につかなくなっちゃうから、こっちの夜にでも伝えるわ』
「うん。それがいいね」
暗い廊下にうずくまったまま、咲哉はホッとひと息つけた気がした。
翌朝、流石と景都は保健室へ相談に行った。
保健室では、流石たち2組の担任の香川教諭と、養護の福井教諭が咲哉たちの話をしていたところだった。
流石と景都は、実は数本の不審な様子を目撃していたのだと伝えた。
香川教諭も福井教諭も目を丸くしている。真剣な表情で養護教諭の福井が、
「昼休みに職員会議があるから、乗り込んでらっしゃい」
と、言った。香川は目をパチパチさせ、
「事故防止の対策についての話し合いでは?」
と、首を傾げる。
「故意に階段から落とされた1年生が、救急車で運ばれたって噂になってるのよ」
福井が言うと、香川と流石に景都も目を丸くした。
「昨日の今日で、もう噂に?」
「噂の出所はバレー部みたい。バレー部と体育館を半分ずつで使ってるバスケ部の子が、昨日の放課後、保健室に聞きに来たのよ。本当にそんな事あったのって。だから誰から聞いたのか聞き返したら、バレー部の子たちだって言うの」
「バレー部の顧問は数本だ」
と、流石が言う。福井が頷いている。
「奈良君とご家族は荒立てないことをご希望だから、変な噂させないようにって教頭から指示があると思うわ。今時、こういう事を生徒が無責任に何かに書き込んじゃったりして、大騒ぎして何が何だかわからない状態にされるくらいなら、奈良君のご家族は正当に被害届を出すことを考えるそうよ」
「それは確かに、学校側がしっかり対応をしておくべきですね」
と、香川もしっかりと頷く。
景都は潤んだ目を擦りながら、
「よかった。やっぱり、学校の先生ってだいたいは凄くまともな人たちだよね」
と、言った。
担任の香川は若々しい女性教諭だ。優しい笑みを見せ、景都の頭を撫でた。
福井教諭と香川教諭は、他の教員や教頭にも流石たちの話を伝えずにいてくれた。
前もって伝えてしまえば、教頭が個別に数本の話を聞く程度で、流石たちが問い詰めるチャンスがなくなっていたかも知れない。
早々に昼食を済ませた教員たちは職員室の席につき、一番奥の大きな机に座る教頭に目を向けている。
普段は保健室にいる養護教諭の福井も、職員室の隅に席がある。2年生の副担任でもある数本は、2年生の担当教諭たちと机を並べていた。
窓の外からは昼休みを楽しむ生徒たちの、賑やかな声が聞こえている。
「えー、それでは、昨日、1年1組の奈良君と2組の栃木君が病院に運ばれた件についてですが」
教頭が話し始めると、養護教諭の福井が手を上げた。
「その件について、新しくお伝えしたいことがあります」
そう言って立ち上がり、福井は職員室の扉を開けた。
廊下では、流石と景都が待っていた。
「入って良いわよ、ふたりとも」
小難しい表情をしている教頭に、福井は、
「昨日、奈良君が階段から落ちる様子を見かけたそうです。犯人と思われる人物の姿も見ています」
と、話した。
「犯人て、変な噂を流しているのは君たちか。奈良君が階段から落ちたのは事故だ。そもそも」
「彼らの話を聞いてから判断してあげてください」
教頭の言葉を遮り、福井のよく通る声が言う。
「……会議中だから手短に話したまえ」
渋々という様子で、教頭は流石たちに言った。
「俺たちは生徒会室の前の廊下から、奈良が落ちたのを見たんです。階段の踊り場の窓越しに。踊り場から3階に上がる階段の途中に、数本先生が座ってました」
流石が話すと、教師たちの視線が数本に向いた。
数本は何も言わず、半分ニヤけたような表情で流石と景都を眺めている。
「階段に座って何してるのかと思って見てたら、2階から奈良が上がって来るのが見えました。でも、奈良が後ろに倒れるみたいに見えなくなって、落ちたのかと思ってたら、数本先生はガッツポーズして下りて行きました。だから、落ちた訳じゃなかったんだろうと思って、ゆっくりそっちの校舎に戻ってたんです」
流石は、不思議屋の水盆で見た階段の記憶を思い出しながら話した。
「ガッツポーズなんかしてないよ。落ちたのが聞こえたから急いで駆け下りたんだ。奈良と栃木を保健室に運んだのは僕だからな。急いで腕を振って階段を下りたのをガッツポーズと見間違えたんだろう」
数本が言い訳を始めた。
流石は予想通りと思っていたが、景都は、正直に言わない数本に悲しげな表情を向けている。
「階段に座って何してたんですか」
「ゴミを拾ってたんだ」
「俺たちが、生徒会室がある校舎の4階から、奈良が落ちた階段まで戻って来た時も、ゴミを拾ってたんですか」
と、流石が聞くと、数本は少し間を開けて、
「戻って来た時?」
と、聞き返した。
「キョロキョロしながら人目を気にするみたいに、階段に貼り付いてたものをベリッて剥がして、丸めてポケットに入れてた」
「ゴミだよ」
ニヤけた顔を変えずに数本が答える。福井が、
「奈良君が落ちた原因かもしれないのに、ご報告がないですね。そのゴミは何だったんですか」
と、聞いた。
「いやあ、それは思い付きませんでした。踏んで転げ落ちるようなものじゃなかったと思うけどなぁ」
「どんなゴミですか」
「ゴミなんか覚えてませんからねぇ……小さい紙屑かなんかじゃなかったかなぁ」
わざとらしく首を傾げる数本に、流石は、
「でかいテープに貼り付けられてた、オレンジ色の丸い物でした。大きさはピンポン玉くらいで、貼り付けてたテープをベリッて剥がす音も聞こえたし、それを丸めてポケットに押し込んでるのも見ました」
と、続ける。
「あっ、そうだ。ガムテープだ。うん。踏ん付けてどうこうなることは思い付かなかったけど、ガムテープが貼り付いて汚かったから剥がしたんだよ。それを丸めたから、ピンポン玉みたいに見えたんだろう」
階段の記憶の中にガムテープなど登場していない。
しらを切り続ける数本に、景都は目を潤ませながら、
「コソコソしてるみたいで気になったから、階段を下りてく数本先生の後をついてったんです」
と、言った。
「何がコソコソだ。見間違いでも言っていい事と悪いことがあるだろう」
などと、数本は偉そうに言う。
とうとう景都は、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「見間違いじゃありません。ピンポン玉は何個かのセットで売ってるもんだ。新しいピンポン玉が、先生の机から出てくるんじゃありませんか」
と、流石が言った。
水盆の様子にはなかったが、不思議屋の老婆に追加で聞いていた話だ。
数本の机の隣で、徳島教諭が、
「数本先生……さっき、ピンポン玉を」
小声で言いかけたが、数本は睨み付けながら、
「余計な口をきくな!」
と、大声を出した。これには教頭も眉を寄せ、
「数本君、言葉に気を付けたまえ」
と、呆れたように言う。
若い女性教諭の徳島も、呆れたような困ったような表情をしている。
数本は同じ体育担当の徳島教諭を指で差しながら、
「口を挟まないでほしいという事ですよ。そういう横やりで話がどんどん変わってっちゃうんです。いつもそうなんですよ。この間だって」
などと、言葉を並べ続ける。
「自分が話変えようとしてるんじゃないか」
流石が言っても、数本はそれに答えもせず、
「さっき見てたピンポン玉は前に授業で使ったのを、ポケットに入れたまま持ってきて戻すのを忘れていたものだ。体育教師なんだから、よくあることだ。今回の件とは関係ない」
「さっき学校の体育倉庫を見てきたけど、卓球の玉は全部白だったぜ。あんたが使ったのは、オレンジ色だろ。階段のタイルと似たような色の、これだ!」
ポケットから、流石はポリ袋を取り出して見せた。ゴミ箱から拾っておいた、両面テープに包まれたピンポン玉が入っている。
「それは?」
と、福井が聞いた。
「階段に座ってたりコソコソしてたり、なんかベリッて剥がしてポケットに隠したりしてるのも気になったから」
話途中の流石にも、数本は、
「コソコソしてないって言ってるだろう!」
と、声を上げる。しかし、流石はさらに強い口調で、
「そんな事はどうでもいい。俺たちは、あとをついてったんです。そうしたら、体育教員室の外のゴミ箱に、ポケットに突っ込んでた階段から剥がしたやつを捨ててたんだ!」
と、言い切った。
「俺が捨てたのはガムテープだっ。それは他の誰かが捨てたかもしれないだろう」
「指紋を調べればわかるっ」
「調べておくから、こっちに持って来なさい」
「犯人の指紋と奈良が踏んだ上履きの跡が残ってるものを、どうするってんですか!」
少々稚拙なやり取りを聞きながら、呆気に取られていた教頭は小さく咳払いした。
「詳しい話は、警察の人に立ち会ってもらいましょう」
やっと、そういう事になった。
「そんな必要ないですよ。いや、もっと前に、ピンポン玉みたいのが入った透明のビニールテープを丸めて捨てたんだったかなぁ」
いつまでも数本が言い訳を作り続けるのも教頭は取り合わず、受話器を耳に当てていた。
警察が来ると、すぐに結論は出た。
流石が拾っておいたピンポン玉にも包んでいたテープにも、数本の指紋がベタベタついていたらしい。
数本が座っていた階段の床や手すりも、鑑識が指紋を取っていた。
ピンポン玉を貼り付けていたのは教材用の大きい両面テープで、職員室奥の備品室に保管されていたものと確認された。
奈良も個別に呼ばれ、上履きの底を調べられていた。
もちろん初めは『その疑いで事情聴取』という話だったが、翌週には数本が離職したと生徒たちに伝えられた。
奈良と咲哉は校長室に呼ばれ、数本が懲戒免職になったことを伝えられた。
老紳士という印象の校長は、外出していて職員会議には出席していなかったのだと話していた。
数本は階段の上階から、奈良が歩く位置を何度も観察していたらしい。いつも同じ足から階段を上がり始める癖を利用し、奈良が踏む辺りにピンポン玉を貼り付けたのだそうだ。
今時は何をやっても体罰と言われるから天罰を与えてやるつもりだったと、数本は供述しているそうだ。学校がそういう事にするつもりなら平教師に決定権はないなどと開き直り、懲戒免職を受け入れたらしい。
校長の話では、学校側の決定はそこまでで、あとのことは警察などから連絡が来るだろうとのことだった。
奈良と咲哉、流石と景都に、1組で奈良と仲のいい吉野も、例の階段の踊り場に来ていた。
相変わらず、人気のない階段は静かだ。
「懲戒免職なんだね。学校の先生ってクビにされる前に、自主退職を勧められるって聞いたことあるけど」
と、奈良が言った。咲哉は踊り場の窓の外を眺めながら、
「それは多分、学校側が生徒に配慮したことでさ。全ての教師が約束されてることではないんだと思うよ」
と、話した。
「クビより重いやつでしょ?」
「うん。普通は退職金も出ないし、転職の時に前職で懲戒免職になったことを伝える義務がある」
と、言う咲哉に、流石は、
「当たり前だろ。下手したら死んでたぞ。奈良もお前も、当たり所が悪かったり受け身が下手だったりしたらさ。そんな奴が、またどっかですんなり教師にでもなってると思ったらゾッとするぜ」
と、低い声で言った。
「確かに」
「確かに」
全員が頷いた。
窓の外を、鳥たちが飛び交っている。
「体罰じゃなくて、天罰だって言ってたってさ」
奈良が呟いた。すぐに吉野が、
「奈良は何も悪くないだろ。天罰が下ったのは数本だ」
と、力強く言う。咲哉も頷きながら、
「ちょっと大事になっちゃったけど、警察に捕まってなければ、いい気になってまた何かしてきたかも知れない。事故じゃなくて故意に落とされたって、自分で噂流してたくらいだしな」
と、言った。
ありのままの記憶を伝えてくれた階段の天井を、景都が見上げている。
「ああいう大人、身近に本当にいてびっくり」
と、景都が呟く。
全員が、もう一度頷いた。
その後、数本は服役のための離職という噂が流れたが、納得できる生徒が多く、それほど話題も続かず忘れ去られていった。




