第6話「スラップスティックの終着点」
陽が昇り、カーテンの隙間から照らす光がネコの顔に差す頃に、彼は目が覚めた。
12月が目前に迫り、頭は肌寒い朝はベッドから出るのを拒む。
それを振り切って、ネコはのそのそと這い出た。
隣のベッドの義政はまだ眠っていて、ネコは彼を横目に寝室を後にした。
暖房を切っていたリビングは冷たい空気で満ちていて、身を縮こませながらネコは寝巻を脱いで、制服に袖を通す。
スマートフォンをポケットにしまい、ネコは自室を後にする。
早朝という事もあって人通りはまったくない。
まるで、この建物にひとりきりになった様な錯覚に陥ってしまいそうになる。
そんな静けさに包まれた廊下を歩き、ネコはひとつの部屋にやってきた。
4040。縷々と佳奈の部屋。
数回深呼吸を繰り返して、ネコはインターホンを鳴らす。
しばらくして扉の奥から足音が伝わってくる。
当たり前だが、その足音は段々と近づいてきて、扉のすぐ前で止まった。
それから、再び沈黙の時間が流れる。
――きっと、佳奈だ。
確信があった訳ではない、ただの予感だ。
ひとつの扉を隔てて、二人の距離は1mも無いのだろう。
それなのに、今はこの扉が厚く硬い隔たりに思えて仕方がない。
その隔たりを生み出したのは自分なのか、佳奈なのか。あるいは両方か。
それを確かめるために、ネコはここに来た。
かちゃん、と鍵が開く音がする。
ぐぐ、とドアノブに力が加わる振動。
時間が何倍にも引き延ばされた様な感覚に、ネコはこの話を切り出した事を後悔してきた。
前日の夜中にネコはメッセージを送っていた。
一言。「縷々と何をしていたの?」
返答。「ごめんなさい」
短く、けれど多聞に受け止められる言葉に、ネコはどういう行為をしていて、それが不貞であると自覚している事を突きつけられた様な思いだった。
なので問い詰めずにはいられなかった。
『だから、縷々と何をしていたの?』
淡々とした文脈に見えて、苛立ちに手が震えていた。
『本当にごめんなさい』
何度も応答を繰り返す内に、縷々が代わりにメッセージを打つ。
『私が悪いの。佳奈は悪くない』
お互いがお互いを庇って、不毛なやり取りが続き、結果としてネコは一言、こう返してスマートフォンの電源を消した。
『明日、7時にそっちの部屋に行くから』
そうして、今ここに立っている。
そして、ついに扉が開いた。
「えっと……おはよう……」
「……おはよう」
佳奈の目の下にはクマが出来ていて、見るからにやつれていた。
牧野達に心が追い詰められていた時、確かこんな顔をしていた様な気がする。
「部屋、入るね?」
「どうぞ……」
そうして、ネコは縷々と佳奈の部屋へと足を踏み入れた。
思えば、割り当てられた自分の部屋以外に入った事は一度も無かった事を思い出した。
リビングまで進むと、あまりの惨状に驚いた。
初めて佳奈と出会った時同様、部屋は散らかり放題で、暫く掃除をしていた様には思えない。
そのゴミ溜めに囲まれたコの字に配置されているソファに、縷々が俯いたまま座っていた。
「縷々、おはよう」
ネコはそんな縷々に声をかけるが、彼女は返さない。
「あ、あの、ネコくん……」
代わりに佳奈が口を開いた。
「……話は座ってからで良い?」
「はい……」
縷々を側面に置き、二人はお互い対面した位置に座る。
きりきりと痛む胸を押さえつけて、ネコはすぐに言葉を発する。
「まずはいつから……そういう関係になってたの?」
「…………10月の中旬ぐらいから…………」
「もうすぐ2か月か……」
きゅっ、とネコは左手を握り込むと自分を落ち着けるために何度も何度も深呼吸を繰り返す。
「じゃあ、どっちから関係を持ちかけたの?」
「それは……わ、私が――」
「違う!」
佳奈が答えようとしたのを遮って、今まで沈黙を貫いてきた縷々が顔を上げて声を叫んだ。
「私が先に佳奈を無理矢理押し倒して、それで……!」
「そうじゃない、違うの! 私が――」
「待って」
また水掛け論でお互いを庇い始めたのを見て、ネコはすぐにそれを止める。
「落ち着いて、冷静に、誰が何をしたのか……それだけを話して」
「……分かった」
そうして、縷々と佳奈はこの2か月の間で何をしたのか……それを打ち明かした。
何度か佳奈が縷々を擁護するのを止めて整理してみれば……はっきり言って縷々が9割方悪いと言える。
無理矢理押し倒してからというもの、何度も性行為を迫って佳奈はそれを断らず受け入れ続けた。
そういう顛末だ。
「結論として、大体縷々が悪い。そういう事でいいね?」
「「…………」」
二人は何も答えなかった。
というより口を開けば庇い合うので次第に答える余地が無くなっていたのだ。
「…………はぁ……」
大きなため息を吐いて、ネコは天井を仰ぎ見る。
そのため息に、佳奈がビクッと震えたのを目の端で捉え、ギリッと奥歯を噛みしめる。
ネコの中に、怒りとかそういった感情は湧いていない。
故に、なんと言えばいいのかが決めあぐねていた。
あれだけドラマチックな出会いと恋愛を経て、その着地点がコレかと失笑に伏される……どれだけ粗末な茶番劇であろうか。
けれども、ネコには一つだけ懸念があって、それが引っ掛かって仕方がない。
「佳奈」
「はっ、はい……」
短く、弱々しい声で佳奈を呼ぶと、ネコは無言でソファを立ち、佳奈の前に跪いた。
「少し、手を失礼するね」
「う、うん……」
そう言って、ネコは佳奈の右手を取る。
デートの度に手を握っていた筈なのに、今見ると全くの別物に見えてしまう。
肉は薄く、皮ばかりで骨が浮いていた。
そのままもう片方の手を取ってみる。
同じ様に肉付きの悪い手だが、一つだけ違うところがあった。
手の表面に歯型のアザが遺っていたのだ。
「佳奈、この手のアザ」
「え?」
「縷々に付けられたものじゃ無い、自分のだよね?」
「……そう……だね……」
自身がPTSDと診断されてから、ネコは精神疾患についての知識を少しばかり蓄えている。
精神疾患の中には過食症と呼ばれるものがある。
摂食障害の一種なのだが、端的に言えば強いストレスから逃げるために過食……即ち、異常な量の食事を取る病気だ。
そして、その直後に嘔吐する。
食べた物を栄養として吸収するよりも先に体外へ無理矢理に排出してしまうのだ。
そういった性質から、過食症を患っている者にはとある特徴が表出する。
それがこの手のアザだ。
拒否反応から自然に嘔吐する場合もあるが、食べたものを吐き出さなければいけないという強迫観念から嘔吐を起こす為に口の中へ手を突っ込む。
それを繰り返せば段々と手に自身の歯が食い込んでアザとなる。
佳奈のこの手のアザはそれによるものだと推察できる。
「今回の件は縷々が無理矢理迫った事から始まった。それは避けられない事実だ」
縷々と佳奈が俯いたままで、ネコの言葉を聞く。
二人の姿を交互に見て、ネコはそのまま続ける。
「でも、佳奈はそれを拒否する事も出来た。ボクに相談する事も出来た」
「ご、ごめんなさい……」
佳奈の声がうわずったものになる。瞳には涙が溜まっていて、ネコが握るその手はかたかたと震えている。
「…………という事はボクにも問題があるから、佳奈はそれをしなかった。そうだよね?」
「そ、そんな事ない!」
その言葉を聞いて、佳奈はネコの顔を見て声を張り上げた。
彼女の目を見て、ネコは握る手の力が少し強くなる。
「嘘はダメだ、佳奈」
「へ……?」
「もう隠し事はダメなんだよ」
「そんなの、してない……」
「それじゃあこの手はなんだよ……!」
語気を強めながら、ネコは握った佳奈の左手を掲げる。
「佳奈の手は元より確かに小さかったよ、偏食だから痩せがちで元から肉付きは悪かった……でも、こんな……こんな骨と皮だけの手じゃなかっただろ!」
「うっ……」
「ずっと一緒にいたのに、ボクはたった今、この時になって気がついた……ボクはそれぐらいに……佳奈の事を見ているようで見ていなかった! そんなだから佳奈は縷々を受け入れたんだろ!?」
恐らくきっと、ここまで声を荒げる姿を見せるのはほとんど無かった筈だ。
それ故に、縷々と佳奈は目を丸くしてネコの方を見る。
「だから……だから……! お願いだからちゃんと話してよ、ボクは佳奈と別れたくない……ホントは縷々に取られるかもって不安で、イライラして、気がどうにかなりそうで、苦しかったんだよ……! 悪いところは直すから……!」
いつの間にやら、ネコまで泣き、取り乱して佳奈の胸に縋りつこうとする。
だが、佳奈はネコの肩に手を当てて、それを止めた。
「佳奈……?」
「や、やめて……!」
「ど、どうして……?」
「言うよ、全部言う……だからそれだけはやめて……」
その言葉を聞いて、ネコはふらふらと、尻餅をついて倒れた。
「わ、私、母親っていうのが大嫌いなの」
「どういう意味……?」
力なく佳奈を見上げるネコを見下ろしながら、佳奈は声を震わせながら言った。
「ヒステリックに叫ぶし、要らない物を押しつけてくるし……その癖私のやる事なす事にケチをつけてくる。それなのにいっつも誰かが悪い私が悪い。そんなのばっかり」
「だから世界中の母親なんて存在、消えてしまえばいいって思ってた」
虚ろにネコを見つめる瞳は暗く澱んでいて、未だ底知れない深い闇を物語っていた。
「それがどういう関係が……」
「ネコくんって、お母さんの事大好きだよね?」
「え?」
ネコに、そんな自覚は無い。
ネコにとって母は自分と父を捨てて、大事な時に側で居てくれない、カミツレに入って何かしら物は押し付けてくる様にはなったが、それでも理解が出来ない存在。
そんな認識だ。
けれども、佳奈の目には全く違う様に映っていた。
「何かにつけてネコくんはお母さんの事を話すよね、一緒のベッドで寝る時だって寝言でいっつもお母さんお母さんって……」
「そん……なこと……」
「あるよ! だって、ネコくんは私をお母さんの代わりにしてるじゃない!」
全身に電撃が走ったような衝撃だった。
そして、脳裏に義継の言葉が蘇り、何度も何度も反芻される。
『それがお前の言い訳か?』
「デートで一緒のベッドで寝る度に、胸に顔を埋めて髪を撫でて貰うのを要求するのだって、全部全部お母さんにして欲しいことじゃん!」
『理由を尤もらしい言葉で飾ってる』
最早ネコは言葉を紡ぐ事ができず、蚊の鳴く様な声を上げる事しか出来なかった。
「誰かの母親になんかなりたくない! 恋人っていうならちゃんと恋人扱いしてよ! お母さんの代わりが欲しいならもっと適役が居るでしょ!?」
一息にそう言うと、佳奈はうずくまって膝に顔を埋める。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
あとは、ひたすらに佳奈は謝り通しだった。
それを中断させたのは、登校時間が差し迫ってるのを告げるアラーム音だった。
「…………ボクの方こそ、ごめん…………」
よろよろと、産まれたての小鹿みたいなおぼつかない足取りで立ち上がると、ネコは部屋を出ようと玄関へ向かう。
「学校行くね。二人も、最近サボり気味だからちゃんと来なくちゃダメだよ」
そう言って、ネコは二人の部屋を出た。
来る前と違い廊下は喧騒に包まれていて……この3人にあった事などなかったかのように世界は回っていた。




