真澄鏡
〜其の参〜
有栖川家は代々続く由緒ある家柄で、莫大な資産を有する主は政財界の黒幕と噂されて
いるが、実質的には老齢の当主の影で、まだ10代ながら天才少年と呼ばれる孫息子が
すべての実権を握っている。
その有栖川家に、ある日 一人の来客があった。
豪奢な客間に通された樹は、対面に座す女を睨むように見つめる。
彼は有栖川家の当主や孫息子ではなく、少年の作法指導役として住み込んでいる龍王院
咲桜里を訪ねて来たのだった。
二人の間に漂う空気は静かながら、張り詰めるような緊張感を伴っている。
「――― オレの推測は、どこか間違っているか?」
「おっしゃっている意味がわかりません」
「生きているのだろう?」
「何の事でしょうか」
「今、どこにいる」
「存じません」
「正直に答えろ」
「本当に存じません」
徹底して知らぬ存ぜぬの姿勢を通す咲桜里に、樹は息を吐く。
たおやかに見えて頑固なこの女は、嘘などついていないだろう。おそらく、
追及される事を予測して、あえて行き先を聞かなかったと思われる。
知らなければ、誰にどれだけ詰問されても、答えようがないから。
彩花がかつて恋した男が、咲桜里の弟だという事は知っていた。
――― 彩花は、彼のもとへ行ったに違いない。
彩花が死んだという証は、鳳凰堂家の証言のみ。仮にも婚約者だったというのに
遺体にも会わせてもらえず、葬儀すら身内のみの密葬だからと参列させてもらえ
なかった。
――― 彩花は、きっと生きている。
今となっては、その可能性を信じて疑わない。
件の男・龍王院冬夜も、死んだ事になっているが、実は生きていたのだろう。
ならば彩花は、彼と共に行ったのだ。己の真実以外、何もかも捨てて。
最後に会った夜、彩花は、生涯 悔いる事なく生きてゆきたいと言っていた。
あの決意のまなざしは、すべてを捨てる決意の現われ。
見惚れるほどに美しかった、真実の表情。
「彩花は…」
樹は、もはや見苦しく後追いする気など無かったが、それでも気にかかる事が
口をつく。
「……幸せでいるだろうか」
その言葉に、咲桜里の瞳がわずかに変わった。
「今この瞬間、どこかで幸せでいると思うか?」
樹が知りたいのは、彩花の居場所や真相よりも、ただその一点。気づいた咲桜里は
張っていた気を緩め、フワリと微笑する。
「――― おそらく」
それは、初めて告げた“同意”の言葉。
安堵したように、樹もかすかな笑みを浮かべる。
「ならば良い」
最初から、片恋でしかなかったのだ。
いつも寂しげに憂いをたたえていた彩花。
彼女が笑っているのなら。
どこかで生きて、幸せになっているというのなら。
自分は、この想いだけを抱えて生きてゆく。
――― そう決めた。
「長居したな。そろそろ失礼する」
「良かったら、またいらして下さいね」
立ち上がる樹に、咲桜里は優しげな口調で言葉をかけた。
「ここの御子息は病がちで、あまり外出できないので、外の色々な
お話を聞かせていただけたら、きっと喜んで下さると思いますから」
「…そうだな。いずれ改めて訪ねるとしよう」
つい先ほどまで睨み合っていたとは思えぬ穏やかさで会話が流れる。
なぜか二人とも、それを不思議とは思わなかった。
「もう一つ、お伺いしていいかしら」
「何だ?」
咲桜里は言葉を選びながら、しげしげと樹を見つめる。
「そのお姿ですけど……」
彼女が問わんとする事は容易に悟れた。樹は振り向き、淡い水色の瞳で笑う。
「――― オレも、真実に忠実に生きる事にしたまでだ」
彩花が言ったように、嘘で覆い隠すことなく。
彩花が美しいと讃えてくれた、本来の姿で。
誰にも隠さず、何にも恥じず、正々堂々と。
苦手だった和装をやめ、動きやすいシンプルな洋服に身を包み、長めの金髪を
揺らしながら、樹は有栖川家を出る。
彼の戻る先も既に、異端を認めぬ白虎城本家ではなかった。
頃は初冬。
水鏡の如く澄み、清廉な光を放つ満月の夜。
完了