真澄鏡
〜其の参〜
街を一望する丘の上には、西欧諸国の一角かと見まごうばかりの洋館が並び建っている。
それらは文明開化の折に政治家や財閥が己の財力やステイタスを誇るかの如く、金にあかせて建築した邸宅や別荘で、戦災や破産の憂き目に遭わず、現代まで残った貴重な屋敷だった。
中でも、最も目立つ豪奢な館に「曽我部」という表札が掛けられている。
曽我部家は、元・華族の家柄で、皇族とも繋がりがあるらしいと噂される由緒ある家系であり、莫大な資産を有する主は政財界の黒幕として恐れられているという評判だが、実質的には老齢の当主ではなく、わずか10代でありながら、頭脳明晰な天才少年の孫息子がすべての実権を握っている。
その曽我部家に、一人の来客があった。
時の流れが止まったような雅趣に溢れた客間に通された白虎城樹は、対面に座す女を睨むように見ている。
樹は曽我部家の当主や孫息子ではなく、少年の作法指導役として住み込んでいる龍王院咲桜里を訪ねて来ていた。
二人の間に漂う空気は静謐で、薄氷のような緊張感を伴っている。
「―――オレの推測は、どこか間違っているか?」
「おっしゃっている意味がわかりませんわ」
「生きているのだろう?」
「何の事でしょう?」
「今、どこにいる」
「存じません」
「正直に答えろ」
「私は何も知りません」
徹底して知らぬ存ぜぬの姿勢を通す咲桜里に、樹は息を吐く。
手弱女に見えても実は頑固なこの女は、嘘などついていないだろう。
おそらく追及される事を予測して、あえて行き先を聞かなかったと思われる。
知らなければ、誰にどれだけ詰問されても、答えようがないから。
かつて彩花が恋した男が、咲桜里の弟だという事は知っていた。
どんなに隠蔽しても、プロが念入りに調べれば 証拠など いくらでも出て来る。
"龍王院冬夜。彩花の幼馴染で主治医、鍼針の使い手。享年15歳。(存命の場合 現在21歳)"
写真を入手し、姿も知った。
純日本人らしい黒髪に黒い瞳。和装の似合う端正な顔立ち。
彩花に向ける視線は、明らかに自分と同じ恋する男のまなざし。
そして、彼を見つめる彩花の幸せそうな笑顔。
まごうことなき相思相愛の二人だと一目でわかった。
―――― 彩花は、彼の後を追ったに違いない。
だが彩花が死んだという証拠は、鳳凰堂家の証言のみ。仮にも婚約者なのに遺体と対面できず、葬儀すら身内だけの密葬だからと参列させてもらえなかった。
―――― 彩花は生きている。今となっては、その可能性を信じて疑わない。
龍王院冬夜も、死んだ事になっているが、実は生きているのだろう。
ならば彩花は、彼の元に行ったのだ。己の真実以外、何もかも捨てて。
最後に会った夜、彩花は「生涯 悔いる事なく生きてゆきたい」と言っていた。
あの決意のまなざしは、すべてを捨てる決意の現われ。見惚れるほどに美しかった真実の表情。
「彩花は…」
樹は、もはや見苦しく後追いする気など無かったが、それでも気にかかる事が口をつく。
「……幸せでいるだろうか」
その言葉に、咲桜里の敵視にも似た瞳がわずかに揺れた。
「今この瞬間、どこかで幸せでいると思うか?」
樹が知りたいのは、彩花の居所や真相よりも、ただその一点。
気づいた咲桜里は、張っていた気を緩め、フワリと微笑する。
「――― おそらく」
それは、初めて告げた“同意”の言葉。
安堵したように、樹もかすかな笑みを浮かべる。
「ならば…良い」
最初から、片恋でしかなかったのだ。
いつも寂しげに憂いをたたえていた彩花。
彼女が笑っているのなら。
どこかで生きて、幸せになっているというのなら、それでいい。
自分は、この想いだけを抱えて生きてゆく。
――― そう決めた。
「長居したな。そろそろ失礼する」
「良かったら、また訪ねていらしてね」
立ち上がる樹に、咲桜里は優しげな口調で言葉をかけた。
「こちらの御子息は病がちで、あまり外出できないので、屋敷外の色々なお話を聞かせて下されば、きっと お喜びになりますわ」
「…そうだな。いずれ改めて訪ねるとしよう」
つい先程まで睨み合っていたとは思えぬ穏やかさで会話が流れる。
なぜか二人共、それを不思議とは思わなかった。
「もう一つ、お伺いしてもいいかしら」
「何だ?」
咲桜里は言葉を選びながら、しげしげと樹を見つめる。
「そのお姿ですけど―――……」
彼女が問わんとする事は容易に悟れた。
樹は振り向き、淡い水色の瞳で笑う。
「――― オレも、真実に忠実に生きる事にしたまでだ」
彩花が言ったように、嘘で覆い隠すことなく。
彩花が美しいと讃えてくれた、本来の姿で。
誰にも隠さず、何にも恥じず、正々堂々と。
苦手だった和装ではなく、動きやすいシンプルな洋服をまとい、金色の髪をなびかせて、樹は曽我部家を出る。
彼の戻る先も既に、異端を認めぬ白虎城本家ではなかった。
頃は初冬。
水鏡の如く澄み、清廉な光を放つ満月の夜。
完結