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二、

 女性を追い出すと、すぐに辺りは静かになった。思いの外に諦めが早かったと胸を撫で下ろし、僕は警察に電話をした。

 前日にも通報をしていたので、警察官達がどの程度の時間で到着するのか、おおよその予測は出来きていた。そこで僕は、証拠品として提出することになるであろう録音データを確認することにした。

 スマートフォンのICレコーダを立ち上げ、再生ボタンを押す。すると、当然ながら僕と女性の声が聞こえてきた。


「お風呂場に、いますよね?」

「呼ばれたんです」

「呼んでいるでしょ!」


 そういった言葉が繰り返される。ほんの数分前の出来事であり、僕の記憶と相違はない。ただし一点、心当たりのない奇妙な音が入り込んでいた。女性の叫び声に被せるように、微かなノイズが聞こえてきたのである。

 僕は音量を大きくしてからノイズ部分を改めて再生し、耳を澄ました。


「ハヤク、キテ」


 それはまるで、幼い少女の声のようであった。

 僕は慌てて音声を止め、スマートフォンを投げだした。それでも耳の奥に掠れた囁きが残っているような感触がして、全身に鳥肌が立った。

 そんなはずはない。考えを巡らせた。録音した時は女性と揉め合っていたので、衣擦れの音などが合わさって声のように聞こえただけに違いない。けれど、もし本当に声がしていたのであれば。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。突然のことに僕は肩をピクリと引き上げ、それから呼吸を整えてインターフォンの前へ向かった。


 やって来たのは警察官達であった。ただし前日とは異なり、制服を着た人だけではなく、スーツ姿の中年男性も紛れていた。尋ねると、その男性から刑事課の者であるという旨の返答があった。

 僕はとりあえず警察官達を招き入れ、事情を説明した。そして、得体の知れない存在を認めたくはないためノイズのことを伏せた上で、録音したデータを再生させた。案の定、誰もノイズのことについて言及せず、黙って頷くだけであった。


 報告が終わると、スーツを着た男性が一枚の写真を取り出し、僕に尋ねた。


「この顔に見覚えはありませんか?」


 それは間違いなく、自宅に訪れた女性の顔であった。

 直接見た時の姿に比べると幾らかふくよかであり、また、髪は長く整っている。けれど妖怪を思わせる佇まいは、そのままであった。

 当然、その女性が何者であるのか疑問が沸く。ましてや、たった一日で特定に至っているのだ。僕は写真の人物が訪ねてきた女性であることを認めた上で、男性に説明を求めた。


 スーツの男性は一瞬だけためらった表情を浮かべ、それから、落ち着いた口調で話を始めた。


「昨日採取した指紋を照合したところ、一致したのですよ……」


 曰く、現在の指紋照合はコンピュータにて行なわれており、データベースに指紋を登録した瞬間に、過去の事件の関係者が検索されるとのことだった。件の女性に関して言えば、七年前に失踪した少女の母親であり、一年前まで今の僕の自宅である借家に住んでいた人物とのことだった。

 一年前とは、僕が引っ越してくる直前のことである。その頃まで、女性は借家に一人で暮らしていた。また七年前までは、失踪時九歳の娘と二人で暮らしていた。その事実を知った時、どうにも薄ら寒い思いがした。

 そんな心情を察したのか、一通りの説明を終えた男性は相好を崩し、僕に対してこう告げた。


「女性の現住所も判明していますし、もう、解決しますよ」




 警察を見送ってすぐ、僕は入浴をすることにした。午後六時頃のことである。

 これだけのことがあった直後に風呂に入ろうとすることに疑問を抱くかも知れないが、その時の僕からしてみれば、少しでも陽のある時間に済ませてしまいたかったのである。

 認めたくはないと思いながらも、風呂場に何かがいる気がしていたのだ。


 とはいえ、いざ風呂場に向かうと、昼間に聞いた「ハヤク、キテ」というノイズを思い出し、尻込みしてしまった。

 どうすれば良いか考えた挙句、僕はスマートフォンで賑やかな音楽(盆回り)をリピートで再生し、その日に限っては、それを風呂場に持ち込んで気を紛らわせることにした。

 その甲斐あってか、湯船に浸かって身体の強張りが解けた頃には、気持ちも軽やかになっていた。浴槽の縁に置いたスマートフォンから流れる曲を聞きながら、少し疲れていただけだ、などと自嘲気味に笑うことさえ出来た。


 ところが、お湯から出て頭を洗っている最中、異変が生じた。

 それまで滞りなく流れていた音楽に、ジリ、ジリ、というノイズが入ったのである。僕は言いようのない不安に駆られ、急いで泡を流してしまおうと、やや俯いて頭からシャワーを浴びた。

 その時、ピチャリピチャリと裸足で濡れた床を叩いたかのような音が背後から聞こえ、同時に、何者かに肩を叩かれた。僕は悲鳴をあげ、目に泡が入ることも気にせず、後ろを振り返った。しかし、そこには何もいなかった。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。自身に言い聞かせても、肩には冷たい感触が残ったまま。

 そうして、このまま入浴を続けるか否か迷っていると、突然、スマートフォンが着信音を発した。怯えによって冷静な判断力を失っていた僕は、誰でも良いから人の声を聞きたいと思い、救いを求めるように通話ボタンを押した。

 すると電話口から、こんな言葉が聞こえてきた。


「お風呂場に、いますよね?」


 それは救いどころか、狂気を含んだ女性の声であった。

 一瞬、何が?と聞き返しそうになったが、その答えを知ってはいけないと即座に考えを改め、僕は、「なんで電話番号を知ってんだよ」と呟いた。

 けれども女性は問いには答えず、同じニュアンスの言葉を繰り返した。


「お風呂場に、いますよね?」

「今、いますよね?」

「いますよね? うちの娘が……」


 僕は耐えきれず、怒鳴り声をあげた。


「いい加減にしてくれよ!」


 瞬間、静寂が漂った。

 そして少し間があってから、女性は優しい声色でこう言った。


「お母さんよ。やっぱりそこにいたのね」


 僕は、「は?」と息を漏らした。


「そうなのね。今は鏡を見ているのね」


 僕の正面の壁には全身の映る鏡があった。


「あら、鏡に男の人が映っているの?」


 その言葉を聞いた時、鏡に見てはいけないものが映る気がして、僕は逃げるように湯船に飛び込んだ。しかし身体の内から寒気が込み上げ、温かいはずのお湯さえ冷たい。僕は、殴るように追い炊きのボタンを押した。湯沸かし器の起動する音が聞こえ、循環した熱いお湯が側面の給湯口から流れ出る。

 やがて、身体が温もりを思い出し、気持ちも幾らか落ち着いた。


 見ると、まだスマートフォンは通話状態であった。

 僕は、得体の知れないものの存在を認めてはならないという対抗心に似た感情を抱き、虚勢を張って電話口に向かって言い放った。


「お前の身元はもう割れてるからな!」


 しかし、女性は相も変わらず僕の言葉を無視し、不気味なことを語り出した。


「お母さんに早く来て欲しいの? 待っててね。今日もちゃんと『お母さんを』届けたから……少しずつ、少しずつ、お母さんを届けるからね」


 嫌な予感がする。そう思った時、給湯口から熱いお湯とともに白く細長いものが流れ出てきた。最初はタバコの吸い殻かと思ったのだが、よくよく見てみると、それは、人の指であった。


 僕は勢い良く湯船から出て、全身びしょ濡れのまま部屋に逃げた。そして、再び警察に連絡をした。



 到着した警察官達は辟易した調子で捜査を開始した。

 その様子を見て僕は、「早く女を捕まえてくれ」と苛立たしげに愚痴を零した。しかし事情聴取を担当していたスーツ姿の男性は、「すぐ捕まりますよ」と繰り返すばかりで話にならない。

 僕がどれほど恐ろしい思いをしたのかが分かっていないのだろう。当然と言えば当然だし、仕方のないことではあるが、僕は何かを主張せずにはいられなかった。


「あの女は狂ってるんです!」


 それは、自分自身に言い聞かせる台詞でもあった。

 この時においてもまだ、得体の知れないものなど存在せず、全てはあの女の妄想と思いたかったのである。そう、あの女は、失踪した娘に身体の一部を届けなければならない、そういう妄想に取り憑かれているだけなのだと。


 スーツの男性は僕をなだめようとしたのか、急に同情するような面持ちで何度も頷いた。僕は、苛立ちは収まっていなかったものの、落ち着いた口調で電話の内容などを報告し、続けて、自身の想像を補完するために、件の女性とその娘のことについて尋ねた。

 すると男性は鼻から息を吐き出し、語り出した。


「ああ、ちょうど七年前の今頃にね、少女が消えたんですよ……」


 スーツの男性はその失踪事件の捜査にも関わっていたらしく、当時のことを思い出しながら、丁寧に詳細を教えてくれた。


 七年前、当時九歳だった少女は失踪した。その家庭には父親がおらず、母親(女性)は、貧しいながらも一人で娘の面倒を看ていた。母親の証言によれば、仕事が終わって帰宅したところ、留守番をしているはずの娘がいなくなっていたとのことだ。学童保育の終了時刻六時から母親の帰宅した八時までの間に娘はいなくなったということになる。

 室内には争った形跡がないために娘が自ら外出した可能性が高いとされたが、目撃証言が一つもなく、結局、事件は解決しないまま時が過ぎた。


 僕は話を聞き終えると、スーツの男性にひとつだけ質問をした。


「その少女は、まだ、生きていると思いますか?」


 男性は肩をすくめ、溜め息混じりに返事をした。


「私の口からは何も言えませんね」


 その言葉から、少女は死んでいると誰もが思っている、と察し、僕はそれ以上何も尋ねず、捜査の様子をぼんやりと眺めた。


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