一、
幼い頃に見たホラー映画のワンシーンを鮮明に覚えている。
ちなみに、映画とは言っても映画館ではなく実家のテレビで見たものだ。僕が幼い頃は残酷描写や性描写の規制が緩く、平日の昼間であってもホラー映画をテレビで観賞することが出来たのである。
既に詳細は覚えていないが、確か『化け猫の呪い』だか『恐怖』だか、そんなタイトルであったと思う。舞台は江戸時代。屋敷の主に殺された女中が、化け猫(幽霊)となって復讐をするといった内容だ。構成はありきたりだし、化け猫という設定を活かせていないし、おそらくは駄作の類であろう。ただし、所々の場面がとにかく怖かった。例えば、斬られた女中の血をすする黒猫、廊下に立つおぼろげな影、などなどなど。
そんな中、特に恐ろしいのが冒頭で述べたワンシーンであった。登場人物の一人が浴槽の蓋を開けると、そこに血まみれの女が横たわっていて、こちらをじっと見ているのだ。
蓋を開けた人物がその後どうなったかは覚えていない。もっと言えば映画自体のラストシーンの記憶さえない。しかし、風呂には霊がいるという印象だけは、その映画によって僕の頭に色濃く刷り込まれた。
さて、僕は今現在、ホテルの一室に身を置いている。理由は至極単純で、自宅の風呂場から逃げてきたのだ。当然ながら、先に述べた化け猫の呪いを恐れてのことではない。もっと別の、『脅威』が怖かったのである。
発端は一週間前の深夜のことだ。
個人情報の特定を防ぐために詳しいことは伏せるが、僕はフリーランスで在宅の仕事をしており、乱れた生活を送っている。その日も夕方に目を覚まして仕事に取り掛かり、午前二時頃に風呂を沸かし始めた。
その後、風呂の準備が完了したことを知らせる曲(人形の夢と目覚め)に呼びだされたのだが、作業が中途半端であったため、浴槽の蓋を閉めただけで再び部屋に戻った。それからおよそ一時間後、きりの良いところで風呂場に向かった。ところが、服を全て脱ぎ、浴槽の折り畳み式の蓋を開けると、そのお湯は、入浴できる状態ではなかった。
表面に、大量の毛髪が浮いていたのである。
それこそ浴槽の中に誰かが潜んでいるのではないかと思えるほどの量で、黒く長い毛が海藻のようにユラユラと揺らめいていたのだ。恥ずかしながらそれを見た瞬間、悲鳴をあげて蓋を投げだしてしまった。
とはいえ、僕もいい歳であり、すぐさまオカルト現象と断定するほど短絡的ではない。服を着直した頃には冷静さを取り戻し、原因について考えることが出来た。
霊の仕業でなければ、何者かが忍び込んで毛髪を投じたか、浴槽側面の給湯口から流れ出てきたかのいずれかであろう。そう仮定し、まずは給湯器のメーカーに問い合わせをすることにした。
説明が遅くなったが、僕の自宅は古い借家で、浴槽は二穴式の風呂釜を備えたものとなっている。その為、追い炊き中に給湯口から大きな湯ドロ(ヘドロ状の湯垢)が出てくることが稀にあった。考えにくいことではあるが、僕より以前に住んでいた人の毛髪が風呂釜内に詰まっており、それが何らかの切っ掛けで流れ出てきた可能性もゼロではなかった。
給湯器メーカーの窓口はガス漏れ等にも対応できるよう二十四時間あいていた。そこでさっそく電話をして事情を説明したのだが、緊急の案件ではないという理由から、朝になったら調査員を派遣するという対応であった。
致し方なく僕は入浴を諦め、肌寒さを払拭しようと、眠くもないのに布団に入って朝を待つことにした。
午前八時になって調査員は訪ねてきた。
その調査員も大量の毛髪を見て驚いてはいたものの、さすがに専門家ということもあって、慣れた手付きで作業を始めた。
そして結論から言うと、調査結果は想像以上に気味の悪いものであった。
前述の通り僕の自宅は古い借家であり、風呂釜兼給湯器が屋外に設置されている。調査員曰く、その風呂釜に細工を施した形跡があるとのことだった。つまり、誰かが風呂釜に毛髪を入れたのだ。毛髪を投じたという仮説と、給湯口から毛髪が流れ出てきたという仮説の、ハイブリットこそが正解だったのである。
人に恨まれることをした覚えはないが、明らかにストーカー的犯行と言える。調査員の勧めもあって、僕は速やかに警察に通報をした。
それから三十分もせずに二台のパトカーと数名の警察官が到着し、僕は給湯器メーカーの調査員と共にここまでの経緯を伝えた。すると警察官達は、指紋や足跡の採取、毛髪の回収など一通りの捜査を行ない、最後に、パトロールを強化する旨だけを僕に告げた。
丸一日を潰したにもかかわらず、何も解決しなかったどころか、調査員の出張費二万円を失っただけであった。
一応風呂釜は問題なく使えるということだったので、その日の夜は普通に入浴をした。本当は、少なくとも事件が解決するまでは、自宅の風呂場を使いたくはなかったのだが、最も近い銭湯でさえ一駅以上離れているため、怯えながらも妥協して風呂に入ったのである。
翌日、昼過ぎに玄関のチャイムの音で僕は起こされた。
眠い目を擦りながらインターフォンの通話ボタンを押すと、小さなディスプレイに女性の姿が映しだされた。見た目は三十代後半、非常に痩せこけ、どことなく妖怪を思わせる顔付きである。それだけでも十分不気味であったのだが、その時の僕はもっと別のことが気に掛かった。その女性の髪は、無造作に短く切り詰められていたのである。
僕は、もしや、と思いながら、「どなたですか?」と尋ねた。すると、震える声で女性からこう返事があった。
「お風呂場に、いますよね?」
もちろんインターフォンを使用中なのだから、僕が風呂場にいる訳がない。
質問の意味は分からなかったが、『風呂』という単語から、僕はこの女性が毛髪を仕掛けた本人、あるいは関係者と察し、会話を試みることにした。念のためにスマートフォンのICレコーダを立ち上げ、録音ボタンを押し、それから玄関の扉を開けたのである。
肉眼で見る女性の姿は、ディスプレイ越しに見たそれよりも更に薄気味悪かった。
「お風呂場に、いますよね?」
女性は同じ言葉を口にした。そこで、この家には自分しか住んでいないという旨を丁寧に伝えた。ところが女性は納得せず、語気を強めた。
「嘘をつかないでください。呼ばれたんです」
その言葉を聞いて僕は事件の真相が分かった気がした。この人は何らかの妄想に取り憑かれて奇行に走ったに違いない。そう思ったのだ。
いずれにしても警察に連れていくのが得策と考え、僕は提案をした。
「誰かを探しているのでしたら、警察に相談しにいきましょう」
自分なりに出来る限り穏やかに告げたつもりだったのだが、女性は、気に障ったのか、叫びに近い声を発した。
「お風呂場にいるでしょ! ほら、今も呼んでるじゃない!」
そして、家の中に入ろうとしてきたのである。
当たり前だが、そんな錯乱状態の人を家に上げたくはない。僕は咄嗟に女性を押しとどめた。けれども、女性は痩せているにもかかわらず異様に力が強く、しばらく玄関で揉み合うこととなってしまった。その間も、「呼んでいるでしょ!」という叫びが繰り返され、説得をする余裕などない。
結局、不本意ではあるが、僕はその女性のことを殴って外に追い出した。
ここまでの話だけでも既に恐ろしい出来事であろう。僕自身もこの時には最悪の事態に巻き込まれたと思い込んでいた。しかし、最も悪い事態というのは、ここからなのであった。このエッセイで伝えたい『脅威』が、姿を現し始めたのである。