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3 割れ鍋は底なし沼なので 前

 その日孝明は社内であるというのにも関わらず、大いにそわそわどきどきしていた。内面では。

 もちろん表面に出ているものはよそさま仕様の冷たく端然として変わらないそれだ。つまり無表情。多少、気怠げな色も見え隠れしている。しかし彼は上機嫌だった。同僚の誰にも分からない——同期の友人にはもしかしたら「あれ今日なんか優しい?(当社比)」と思われる程度の——変化である。もし家であれば、ふんふんと楽しげな鼻歌でも垂れ流していたかもしれない。

 ただし、彼の指は目にも止まらぬ速さでカタタタタッとパソコンのキーを打ち続けている。その指の動きときたら通常より割り増しの速度なので、うっかりそれを見てしまった隣のデスクの後輩やたまたま近くを通り過がった先輩がビクッと肩を震わせる。やべえ坂上がなんかご立腹だぞ、鬼の逆鱗撫でたのどこの部署だよ、いやそれ言うなら龍だろ、どっちでもいいよばかっ、というやりとりがひそひそ交わされた。

 ところで孝明は、キーをビシィッバシッカタターンッ! とぶっ壊れそうなほど激しく叩く人間が嫌いである。嫌い、というのは言い過ぎだろうか。しかしキーなんて、大概の場合はささやかに触れるだけで文字を打ち出してくれるのだ。どんなに急いていても乱暴にする必要などないし、気が逸るなら指の方を速めればいい。だいたい強く叩くだけ、接触している分のロスが出る。それこそ時間の無駄だ。しかも壊れやすくなる。ちなみに、軽く押しても動かないやつは買い替えあるいは修理時である。

 そう、無駄で非効率的な行為など、経理課にあるまじき行状だ。脅しをかけるならともかく。そもそも、キーというのが、強く叩きすぎると本当に飛ぶとみな知らないのだろうか。そんなことを考えていると、昔、もう異動になった先輩が怒りに任せてエンターキーを小指で叩いたら、ぱきっ、という軽い音とともに四角いキーがきれいな弧を描いて吹っ飛んでいった瞬間が脳裏に浮かび、それ以来ぜったいにパソコンを手荒に扱うまいと決めたことまで彼は思い出してしまった。眉間に皺が寄る。本人的には遠い目の代用である。そう、ぜったいに、自分は、キーを吹っ飛ぶほど激しく叩いたりしない。無神経に、時には嬉々としてそういうことをやる人間を嫌悪する。

 まあ電卓は良いんだけど。


「あれ〜、坂上くんお昼まだなんじゃない〜?」


 キーではなく花が飛んでいるようなふんわりした声が、冷ややかオーラで完全武装の孝明のもとまで遠慮も躊躇もなくふりかけられた。配属二年目の同僚社員が、その人物の後ろで泡を食って青ざめた。しかし、当の孝明は僅かに目を開き、瞳孔を引き絞り、やがて大人しく頷いた、だけだった。


「はい。これが終わったらいかせていただきます」

「そっか〜。ほどほどにね〜、胃袋すかすかで数字がぼやけたりなんかしたら、大変だからね〜」

「はい。胸に刻みます」

 

 大真面目に返す。相手はにこにこと笑う。


「うんうん。あ、獅童くーん、君も今日は昼担だったから、食べてないよね〜? 一区切りしたらいってきなね〜」

「はっ、はい! すいません!」


 孝明の斜め前のデスクに座る青年が慌て気味に頷く。すると、この人生のんびり〜みたいな顔の経理課長は、これまた好々爺然と微笑み、よっこらしょとファイルを持って室外へと出ていってしまった。課内の人間は思わず連絡用ホワイトボードを仰ぎ見て、課長のきっちり秒数まで書かれた時間つきの予定を確認し、なるほど、と疲労の滲む息を吐く。なるほど、抜ける予定があったから、今、空気も読まずに声をかけていったのか……。

 と、弛緩した空気をまた引き締める声が上がる。

 

「獅童」

「うあっ、はい! なんでしょう!」

「おれまだ抜けられないから、構わず好きなときに食べにいってね」

「はいぃっ。お気遣いありがとうございます!」

「うん」


 字面だけ追えば親切な先輩、といったところであるが、残念ながら口調があまりにも淡々として愛想の欠片もないため、やけに冷たく響いている。孝明からすれば仕事中だからこうなだけで特に深い意味はないのだが、後輩にあたる獅童の方はダラダラと冷や汗を流してびくついてしまう。坂上先輩……仕事中じゃなければ、けっこう気さくで話しやすい人なんだけどな……などと密かに思う。あ、でも淡々としているのはいつものことか。

 笑顔というか柔らかさが少な過ぎる。

 こっそり後輩に怯えられている孝明は、しかし、無表情の裏で非常にうきうきしていたし、満面の笑顔だった。あくまで心中で。

 

(あと少し、あと少し、あと少し)


 予定した時間きっかりに終わるよう、実のところ極めて計画的に仕事を行いながら、孝明はるんるんとあるひとりの人物の顔を胸に思い描いていた。











 ぷす、と銀色のフォークが、濃緑の粉をたっぷりとふりかけられた、白くなめらかなチョコレートで覆われる丸い表面に突き刺さった。

 ぶすぶすぶす、と下まで刺さり、僅かに横へ傾けられ、優しく切り分けられる。フォークの表にくっついた部分を、すくうように持ち上げ、彼女は桜色のちいさな唇へ運ぶ。

 ぱくり。

 唇が閉じられる。くわえたままだったフォークを、するりと抜き取る。それからゆっくりと咀嚼する。

 もきゅ、もきゅ。

 ごくん。

 ゆっくりと、それはじれったいほどゆっくりと、その眠たげな顔中に満ち足りた笑みが広がる。

 その光景に孝明の胸は震えた。彼女が食べたそれよりもよほど甘い何かが体内に放出され、彼の脳をどろどろに蕩けさせる。


「か、かわいい……っ!」

「おいやめろ。外でそれはきもすぎる」


 孝明の最愛の人は冷静に突っ込んだ。でも孝明はもはや、彼女にきもいと言われることにすら歓びを感じるようになっていた。ていうか、このひと何言ってもほんと殺人的にかわいいな。やばいな。きもい、って言うときのちょっとひそめられた眉と、苦虫を噛み潰したみたいな目の下の皺、冷め切った眼差しが素晴らし過ぎる。ふてくされたような口許も良い。孝明には分かる。これは、少し——本当にほんの少し——照れているのだ。


「昼間でも会えるなんて、おれほんと幸せすぎて死にそう」

「じゃあもうこない」

「うそうそうそ死なない! 死なないからまた気が向いたら出てきてくださいっ」

「ん」


 綺理は再びフォークを構え、自然に俯いてケーキに集中した。孝明が買ってきたリンスで栄養たっぷりの黒髪が、さら、と繊細な動作でまろい肩を滑る。孝明はその瞬間を脳内アルバムに刻みつけた。

 彼は愛おしさを隠しもせずに目を細め、静かに頬杖をついた。この店自慢の抹茶のホワイトザッハトルテを、綺理はかなり気に入ったようだった。誘って良かった、と悦に浸る。


 ことの発端は、孝明の会社から近い位置にあるビルに、この和風喫茶チェーン店が入ったことにある。


 最近波に乗っているというその店の紹介を、綺理はSNSか何かで見たらしい。ここのこれが食べたい、と孝明にのしかかりながら言ってきたのだ。どれどれと見せてもらった案内に書かれた店の名前に覚えがあり、そういえば、と翌日ビルを確認してみたところ、案の定前の和食屋が消え去りその店がでんと構えていた。そしてかねてよりやってみたかったことをここぞとばかりに実行したのである。

 すなわち。


「お昼を綺理さんと一緒にできる……素晴らしい……」


 これに尽きる。

 綺理は面倒臭がりだ。ただ昼に出てきてほしいと言われても「いやだめんどい」で終わるだろう。というか終わっていた。孝明の方も、そういつも一緒にできるわけではなし、同僚との付き合いもある。が、しかし、一回くらい。いや半年に一回、いやいや一ヶ月に一回くらい——昼間の綺理さんを堪能したい!

 マジでここに入ってくれてありがとうございますリンドウカフェさん。おれ幸せ! 至福! 


「美味しい?」

「ん」


 こっくりと深く首を縦に振った綺理は、ふと何かに気づいたように顔を上げ、はたはたと瞬いた。それから何やら難しげな顔で考え出す。そして、まだ半分ほど残っているケーキの皿を、孝明の方へすべらせた。孝明はきょとんと彼女を見る。


「ん? どうしたの」

「……ひとくちどうぞ」

「えっ」


 孝明は驚いた。が、すぐに納得する。綺理は欲しがるわりに、意外と博愛の人だ。自分のものは自分のものだが、だからこそ分け与えてくれる。おそらく、孝明が見ていたことと、名物だということで、食べたいのかと誤解したのだろう。くっ、外でなかったら思い切り抱きしめられるのに! ほんとに罪なひとだなー! 


「って、は! これは間接キス……!」

「……どこから突っ込めばいいのか分からないから」


 はやく食べて、と綺理に促され、孝明は控えめにケーキを削り、口に運んだ。抹茶の上品な苦みと、ホワイトチョコレートの甘さ、バターケーキとジャム代わりの抹茶ソースの絡み合った中身がいっぺんに味わえる。これは美味しい。しかもこのフォークは綺理さんの使用済み……! 脳内が抹茶を弾き飛ばしてピンク色に染まる。


「ありがとう、美味しかった」


 にっこりと爽やかに彼は微笑んだ。綺理は彼の脳内を見透かしたように嫌そうな表情になった。


「たかあきさあ、会社の近くなのにいいわけ」

「え、何が?」

「擬態してるんでしょ」


 綺理は孝明の外面のことを、擬態、と呼ぶ。彼としては、別に意識的にやっているわけではないので少々複雑だ。まあ、仕事中は意識的に、真面目でいようとけじめをつけているつもりではあるけど。


「あれは、今のおれとも地続きになっているんだけどねえ」

「……へー」


 それは違うだろ、という顔をする綺理は、しかし面倒なのか追求はしてこない。ただ、いつも通りこだわりなく続ける。


「たかあきが良いなら良い」


 好きにすれば。

 そう言外に含まれた言葉に、孝明の頬はまた緩む。うん、と囁くと、綺理はケーキの皿を取り返し、もそもそと食べ直す。間接照明の穏やかな明かりが、彼女の耳や、手の甲や、繊細な睫毛を照らした。うっとりと見つめているうちに、孝明の和風明太子パスタができたての状態で運ばれてくる。けれどもいつまで経っても食べ始めないので、綺理が煩わしそうにフォークの尻で彼の腕を突っついた。そうしてようやく、遅い昼食にありつく。

 孝明が食事に集中しだすと、今度はケーキを食べ終えた綺理がぼやーっと彼のことを見つめはじめたことに、残念ながら彼は気づかなかった。

 そのふんわりした頬に、仄かな笑みが浮かんだことにも。


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