2 吾輩は不遜な猫である
『彼氏とかわたしの無限ATMになってくれる下僕じゃないと無理』
それは、北山綺理が高校一年生の頃。
彼女が友人たちと可愛らしい恋バナに花を咲かせながら言った言葉だった。これを聞いた友人たちは、「いやそんな男いないでしょ!」「わかるっちゃわかるけどさあー」「この女最低すぎるぞー」などと楽しげに笑いつつ大いに盛り上がっていた。
その死角で。
たまたま彼女たちの会話を聞いていた男が、雷に打たれたように目を極限まで見開いていたことを、誰も気づかなかった。
彼——坂上孝明は、このとき天啓を受けたのである。すなわち。
(つ、つまり……お金さえあれば、綺理さんが嫁になってくれる……ッ!)
たいへんな勘違いである。
・ ・ ・
北山綺理は浪費と怠惰と自由を愛する駄目人間である。
孝明より二歳年下の彼女は、好きなものを好きなときに好きなだけ買いたいし、やる気がでなければ何もしたくないし、ときどきものすごく理不尽な欲求をぶつけたくなる。
それは、事実だ。
孝明は、その全てを笑顔で受け入れる。というか、進んでそうすることを求められる。どうやら彼は、綺理を養い、その我侭の矛先を向けられることに至上の喜びを感じるらしい。へんたいだ。
正直綺理は自分の望む自由気ままな生活なんて無理だと思っていたし、ほしいもののほとんどは手に入らないと考えていた。それなのに、だ。
それなのに孝明と付き合ってから、自堕落極まりない生活が現実のものとなってしまっていた。
喜ばしいことだし、わりと罪悪感はないけれど、自分の恋人はへんな人間だなあと常々思っている。それに、誤解があるような気がするのだ。
「あ、ルノワール展かー……」
ごろん、と定位置のソファに寝そべりながら、綺理はスマホの画面をスクロールさせた。孝明、こういうの好きだっけ。興味ないかな。じゃあひとりで行こうかな。ちなみのこの費用は全額孝明が出してくれる。
「ふむ……」
綺理はちょっと目を閉じて、自分の中にしまってある思い出を呼び起こす。
同棲してください、と頼まれたのは自分が二十歳を過ぎた頃。
綺理が学科の飲み会や、ゼミの手伝いで帰りの遅くなるのが増えたことが契機だった。彼はずいぶんとそのことを心配し、気を揉み、就職活動が上手くいって万々歳の時期に青い顔ばかりしていた。もともと頭のデキはいい人なのに、なぜか恋愛方面は上手くないのが彼だった。
綺理さんのめんどくさい家事はおれがぜんぶやるし、もちろん綺理さんがやりたくなったら任せるし、生活のぜんぶ面倒見るし、ほしいものあったらおれの口座から引き出して買っていいし、ていうか一緒に出掛けて買いにいくし、嫌なことあったら今まで以上におれにぶつけていいし、も、ほんと好きに生きてくれていいから、お願いだから俺と一緒に暮らしてください。
というのが、彼の珍しい頼みだった。それから、帰ってきたときに綺理さんがいたらおれは死ぬほど嬉しい、と。
ふーん、そうなんだ。綺理は思った。同時に、それで嫌になられたら、終わりかもな、とも思った。自分が厄介で面倒くさくて役に立たないよほど恋人にふさわしくない人格であるという自覚はあったし、さすがの孝明だってうんざりするだろうと予測をつけることは簡単だった。だからその提案に頷いたとき、実はほんの少し、悲しかった。
綺理は綺理なりに、孝明が好きなのだ。性格を変える気はなくても。
嫌われるのはつらいなあと思ったけれど、でも、孝明の願いは叶えたかった。家に帰ったときに自分がいることで嬉しいと彼が感じるなら、嬉しがらせたかった。少しの間でも。
そういうわけで同棲するに至ったわけなのだけど、不思議なことに、開き直って今まで以上に理不尽で自侭に振る舞う綺理を、孝明はとろけきった顔で可愛がった。
こいつ、ほんとにわたしのこと、好きなんだ。
静かな衝撃とともに理解した。理解したけど、正直こいつの思考とか嗜好とかさっぱり理解できないわ、と感じた。謎すぎる。
まあ、いいんだけど。
わたしは、たかあきが好きだから、いいんだけど。
一緒に暮らして四年、孝明はすぐベタベタしてくる。綺理を抱き寄せて膝に抱えてすりすりしてくる。正直うざい。でも、嫌ではない。
綺理はソファから降りて窓辺へ向かう。背の低い小机の上に設置されたパソコンをカタカタといじる。綺理は立派な無職だが、ライティングとコーディングのバイトでちまちま稼いではこっそり孝明の口座に振り込んでいる。綺理が色々買ったりで変動が激しいため、彼女以外にはじゃっかん守銭奴気味——というかお金大好き——の孝明にもバレていない、はずだ。別に見栄とかプライドとか後ろめたさとかからではなく、暇だからやっているだけである。そして孝明の金は自分の金であり、つまり自分の金も孝明の金にすれば永久機関なのだ。綺理はお金自体が好きなのではなく、好きなものを手に入れる手段として必要としているだけなので、そのへんはあまりこだわりがなかった。それに案件ごとのゆるいアルバイトは、気が向いたときにやれるところがいい。
(んー……)
わたしは、たかあきに、飼われている。
ちょっとしたことで飼い猫に変わった野良猫なのだ。そういうかんじだ。
くあ、と欠伸をしながらパソコンを閉じる。あーでも、そろそろ外のバイトもしたいなー。短期でサラッと。
そんなことを思いながら、わたしは床の上にクッションを敷いて丸くなった。
猫を飼っている友人で、とんでもない飼い主バカがひとりいる。
「バイト!?」
帰ってきた孝明は、飽きもせずに綺理を抱き上げ、膝のうちに囲って悦にいっていた。ぎゅうぎゅうとぬいぐるみにするように抱きつかれ、こいつときどき本当に鬱陶しいなあ……という気持ちがわき起こり、綺理は半目になった。借りてきておいた洋画を一緒に観ながらコンビニで売っているお徳用ポップコーンを食べる。孝明に餌付けされて。孝明の骨っぽい指がポップコーンをつまみ、意気揚々と綺理のくちびるに持っていく。嫌がるのも面倒なので大人しく食べてやると、調子に乗った彼はさらに同じことを繰り返した。
「はあ、かわいい……」
うっとりと気持ち悪いことを言われた。
そして、期待に満ちた目でねだってくる。
「綺理さん……指、舐めて」
「却下」
綺理は自分の手で次のポップコーンを取った。落ち込む恋人に、それより、と話しかける。
「しばらくバイトするから」
「は! そうだった……なんで!? お、おれのお金じゃ物足りないってこと!?」
「ときどき本当にたかあきが何言ってんのかまったく分かんないわ」
引きこもりが働くと言っているのだからもっと喜んでほしい。札束を振りまく勢いで。
しかし孝明は半ば涙目になってひっついてくる。
「おれを捨てるのかー!」
「うぜえー! ちょっと離れろ!」
ええい、映画が観えんだろうが。じたばたと暴れて抗議すると、彼は少しだけ腕の力を弱めた。綺理は溜息をつく。
「そういうんじゃないから。単に、カフェの制服着て給仕やりたくなっただけ。ちょうど急募のやつ見つけたし」
これを聞いて、孝明は戸惑いがちながらも納得したらしい。
「そうなの……? まあ、それはおれも買えないしなあ」
「あーうんそうそう。だから、していい?」
「うん。綺理さんがしたいなら」
さっきまでの錯乱ぶりは何だったのかと言いたくなるくらい、あっさりと許可される。
まったく面倒な飼い主である。
孝明は綺理を養い、金をかけることで綺理の特別であると感じられるらしい。そして自分の金を使って楽しく生活している綺理を見て満足するらしい。
意味が分からないが、これを友人に置き換えるとなんとなく分かる。
綺理の友人は、それはもうお猫さまに奉仕することを心の底から楽しんでいる。ケアに金をかけ、猫のストレスにならない程度に着飾らせ、自ら餌を与えてデレデレしている。
そして、他の人間が気紛れであげた餌に嬉々として食いつく飼い猫を見て、
『わ、わたし以外の手からそんな美味しそうにごはん食べるなんてっ! ひどい!』
とかほざいていた。
つまり孝明のこれも、そういうことなのだ。
孝明の金を使わせたいということは、友人が猫に餌をあげるのと似たような心境なのだろう。
やっぱり、へんたいだ。
でも、これくらいじゃないとたぶん、綺理に付き合うなんて無理だろう。だからまあ、良かったのだ。多少うざいくらいで。
機嫌を直した孝明が、またポップコーンを食べさせようとする。綺理は少し考えてから、ポップコーンを食べ——孝明の指をぱくりとくわえた。
「えっ!?」
ぺろ、とさらに舐める。猫のように。塩の味。
「え、え、あぇ……き、きり、さ」
真っ赤になる孝明の広い胸にもたれかかる。孝明の匂いがする。あ、心臓の音めっちゃはやい。
(すき)
言わないけど。
無言で悶えている恋人を放置し、綺理は悠々と映画鑑賞に意識を集中させた。
だって自分は、自由気ままな飼い猫なので。
金金と下品ですみません。