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1 金が好きなのは誰の為

 経理の鬼とは彼のこと。

 坂上孝明(さかがみたかあき)、26歳。国立S大商学部で金の勉強をし、K商社財務部経理課に勤めて四年、円のつく数字に関する細かさたるや、金にうるさい経理課の先輩達すらおそれおののくほどである。


「ーーこの前の経費合算、ここの支出がおかしいんだけど。やり直し」


 冷たいというより温度のない淡々とした口調で、今日も彼は電卓を叩きながら提出された資料の誤算を一刀両断していく。


「営業の経費なにこれ、雑費って用途不明にしても多過ぎでしょ。確認とって」


 月次に向けて慌ただしい課は、数字が飛び交い内線電話(ないせん)が荒れ、社員は声をあげながらもパソコンに視線を向け、一心不乱にエクセルを埋める。そんな中でもとりわけ、蛇のようにねちっこく、重箱の隅をつつくようなチェックを入れるのが坂上である。特に接待費に関する厳しさときたら、守銭奴の名にふさわしい容赦のなさだった。

 まるで我が社の金という金を大事に抱えて守る龍のよう——とは、課内で唯一のほほんとした笑みを崩さない経理課長の言である。

 経理の彼は完璧だ。金に関してなら右に出るものもいないかもしれない、と呆れられるほど。

 ついでに顔もほどよく繊細に整っていて、どこか硬質な美しさがある。ただし、支出試算を出す後輩はその冷ややかな眼差しを注がれると、色香ではなく恐怖に震える。


「O社さんからの仕入れ、振込済んだ? まだ? 月次迫ってんだから明後日までに書類作って振り込む。山下、請求書コピー忘れないで」


 表情は変わらず端然としているというのに、その横顔を見た同僚たちはヒッという悲鳴を呑み込むばかり。

 この男、なんでこんなに金の管理が好きなんだ——?

 坂上に面した社員は皆、一度は思う疑問である。そしていくら見目がよくてもモテない理由のすべてだ。

 ある女子社員曰く。

『坂上さんかっこいいんだけど、絶対結婚したくないよね。すっごい家計にうるさそう』

 

 さて。そんな噂の坂上さんのプライベート、といえば。








 定時を大幅に過ぎて退社した坂上孝明は、電卓を扱っているときには考えられない必死の形相で髪を振り乱しながら自宅へと急いだ。ぜーはーと荒い息を整え、玄関に入る。


「綺理さーん!」


 ああああどうしようどうしようどうしよう! 言った時間から一時間二十七分もオーバー! 孝明はぶわっと溢れ出る冷や汗を自覚した。はやる気を抑え、靴を放り投げてリビングに向かう。テレビの真向かいにでんと構えた大きめのソファへ一直線。


「おっそい」

「綺理さん!」


 ソファの上から放たれた冷たい一声に、孝明はぱあああっと顔を輝かせた。

 艶やかな黒髪を肩まで伸ばした女性が、ソファの肘置きに頭を預け、孝明に視線も向けず携帯ゲーム機を操作している。孝明はでれっと笑み崩れながら、ちいさな彼女に抱きついた。


「ぐえっ」

「綺理さん綺理さん、寝ないで待っててくれたんだ……! おれ、嬉しいよ! ただいま!」


 感激のあまり、ぎゅうううっと抱きしめる腕に力がこもる。孝明は荒んだ心に惜しげなく水を注がれたような満ち足りた気分になった。


「おっも……鬱陶しい! 離れろっ」

「綺理さん補充……」

「きもいっ」


 暴言を吐きつつも彼女はゲーム機の操作にいそしんでいる。こういうときは、作業の邪魔さえしなければわりと何をしても許されるので、孝明は思う存分、綺理のつむじに自分の頬を擦り寄せた。右手で首の下から抱き寄せ、細い腰に左腕をからめる。ほんのりあったかくて、やわらかくて、幸せの香りがする。いーにおい。この前買い替えた、ミント系のシャンプー。あー……、綺理さん、あれ、使ってくれてるんだー。

 おれ、死にそう。


「きりさんきりさん、遅くなってごめんね」

「んー」

「なんかめっちゃ算出ミスあって、直し待ってたら遅くなっちゃった」


 しょんぼりと愚痴る。甘えるようにすりすりする。綺理さんの頭ちっちゃい。キスしたい。

 そんな孝明と正反対に、彼女はばっさりと切り捨てる。


「言い訳」

「うっ、ごめんなさい!」


 ぴこーん、と綺理の操るゲーム機が華々しい画面に切り替わった。何かのクエストをクリアしたようだ。そこで一旦、彼女は手を止め、無表情に孝明を見上げた。目が合う。

 きゅんとした。

 綺理さん、かわいい。

 今日も世界滅亡レベルでかわいい!


「たかあき、スーツ」

「えっ」

「皺寄るよ。てか暑苦しい。着替えてきて」

「……わかった!」

「今なんで迷った」


 数瞬の沈黙を見抜かれた。さすが綺理さんだ。だってせっかくベタベタできたのに——とは言えないので、孝明は問いには答えず、すばやく自室に向かった。さくさくと七分丈のグレーのTシャツと細身のやわらかいズボンに着替え、リビングに戻る。綺理の手の中は、いつの間にかゲーム機から文庫本に変わっていた。孝明はそろそろと彼女の傍に近寄り、寝そべる彼女の脇にそうっと腰掛ける。綺理はちらりと彼を一瞥すると、腹の上に本を開いて乗せ、孝明の腰を掴んで引っ張った。


「おわ、」


 無言でぐいぐいと位置を正される。背もたれにまで彼を押すと、彼女はむくりと上体を起こし、彼の腿にぽすんと頭を下ろした。


「!」


 居心地のいい場所を探すようにひたいを擦り寄せてくる。孝明の腰の上あたりに頭の横をくっつけ、綺理はまた本を開いた。孝明は手の甲で口許を押さえ、こみあげる感動を押し込めた。しかし耳まで真っ赤になっていた。

(不意打ちのデレやめてください————!)

 いー、いー、いぃー……と脳内でエコーが響き渡る。あああもう。ああもう! 叫びたい。このひとなんでこうなんだろ! こんな素っ気ないのに! もう!


「き、き、きりさん」

「ん」

「おれの膝どうですか! 寝心地いいですか!」

「ふつー」

「ううっ、他にいい膝があったとしても、おれ以外のは使っちゃだめだよ!」


 真剣に訴えたら、綺理は怪訝そうに見上げてきた。あ、そのアングル最高です。


「いや、しないでしょ。ふつー」

「……!」


 と、いうこと、は! 孝明は無言でうち震えた。おれの膝は、綺理さんの特別! おれは、綺理さんの、特別!


「特別!」

「はー……? なに、今更。彼氏なんだしそうでしょ」

「お、おおおぉ……っ」


 綺理さん、なんか今日、デレ率高い……! おれの幸せメーターが振り切れるのでもうちょっとゆっくりめで——いやいやそんなもったいない何を言ってるんだおれは! 嬉し過ぎて脳内がうっかり大混乱である。

 孝明は、恋人の眉にかかる前髪を払ってやり、あらわになった白いひたいにそっとくちづけた。ちゅ、と軽やかなキス。それだけで心臓が早鐘を打ち、たとえようもない甘いしびれが身体中を駆け巡る。綺理は特に反応することもなく、マイペースにページをめくった。嫌がられないのを良いことに、孝明はさらに彼女のこめかみ、眉間、つむじへとキスを降らせる。はあ、とこらえきれない吐息がこぼれた。


「綺理さん、すきです」

「んー」


 しってる、と彼女は答えた。へへ、と孝明は頬をゆるめる。できれば、もっと綺理さんのいろんなところに触りたい。肩とか、胸とか、指とか、おなかとか、まろい膝とか、足首とか。でも、彼女は今読書中なので、邪魔をしてはいけない。怒られる。孝明はきちんと我慢した。引き際をわきまえるのも、よき恋人の役目なのだ、と本人的には思っている。


「……それ、何の本?」


 でも話しかける。綺理は慣れているのか、なんだかんだ反応をくれる。


「なんか、お菓子職人のエッセイみたいな」


 ぱらり、と再びページをめくる音。孝明は無意識に、彼女の頭を撫でた。

 そのとき、ひょいと彼女が顔をあげた。瞬きの合間に意識が途切れ、唇にやわらかい感触を与えられる。


「っ、え、綺理さ」


 ぼ、ぼ、ぼと赤面する孝明をよそに、綺理はもう本の中へと戻ってしまった。うう、と微かに彼は呻く。


「ずるいから……」


 消え入りそうな声で、抗議。でも尻すぼみになってしまう。恨めしい思いで彼女を見下ろす。綺理さんは、ほんとに好き勝手だ。いつもなら、彼女の自由気まま、理不尽な振る舞いを好ましく思えるところだけれど、こんな煽るだけ煽って知らんぷりは酷過ぎる。


「今日、なんでそんなサービス充実してるの」

「……んー」


 綺理は面倒くさがりだ。たいていの返事は「んー」なのだ。でも長い付き合いの孝明には、そのときどきで「んー」に含まれた意味やら感情やらを察せられるようになっていた。

 このときは、なんだか少し拗ねた風で。

 あれ、と戸惑っていると、彼女はやっぱりこちらを見もしないで言う。


「だって、おそかった」

「え……」

「たかあき遅かった」


 それっきり、綺理は黙る。

 孝明の脳内に理解が巡るまで、数秒を要した。

 ——それは、えーと、だから、つまり。


「さ、さみしかったん、だ……?」


 無言。

 ということは肯定。

 ぶわっと頭の中に花が咲き乱れた。


「き、綺理さああんん!」

「うるっさい、本読めない」

「おれ、おれ、がんばる! がんばってもっと稼ぐ! そんでもっと完璧に綺理さん養う!」

「あっそ」

「でもちゃんと時間通りに帰るようにするからね! 綺理さん、」

「もーマジでうっさいんですけど! 何なのっ」


 ついに切れた綺理が本を置いて孝明を睨む。その隙を洩らすはずもなく、彼はすかさず愛しい恋人の唇を奪った。


「んっ……ふ、ぅ」


 舌を絡ませ、息をまるごと飲み干すように。くちゅ、ちゅ、と淫靡な音が鳴る。孝明は夢中でキスをした。苦しげに喘ぐ綺理の腕から力が抜けた頃、ようやく唇を離し、お互いに潤んだ眼で見つめ合う。は……、と甘い息を吐く綺理の唇に伝う銀の糸ごと、舌の先で舐めとった。


「あいしてる」


 ずっとおれのそばにいて、綺理さん。

 そうしてくれるなら、おれはきっと何でもしてあげる。綺理さんのほしいものはぜんぶあげる。綺理さんのこどもみたいな我侭も理不尽も八つ当たりもなんだって喜んで受け入れる。


「きみがほしいよ」


 息を整えるように胸を押さえた綺理は、少しの時間をおいて、うさんくさそうに孝明を見上げた。


「うすっぺらいんですけど」

「えー! そりゃないよー」


 つーんとそっぽを向く綺理に泣きつきながら、なんとか構ってもらおうと画策する。彼女は信じないけれど、こうしてときどき、本当に抱えきれないくらい、彼女に対する想いが噴出するのだ。好きで好きで仕方なくて、頭がおかしくなりそうで。なのに当の彼女はこの通り冷めたものである。

 まあ、本格的に悟られると、ドン引きされそうだからいいんだけど。



「とにかく、まずおれは財力を身につけないと……」

「あーもーだきつくなよお! すりすりウザい!」



 坂上孝明、26歳。職場では経理の鬼と恐れられる彼だけれど。

 愛する恋人に対してだけは、本気でウザがられるほど激甘である。

 

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