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鴇さん!  作者: NNED
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 野川 鴇乃助 本名 山岡 鉄 御年87歳。


 ちゃきちゃきの江戸ッ子で深川生まれの深川育ち。19歳で戦地に送られたがなんとか生き抜き、復員後は銀幕を飾るスターの一人として活躍。

 しかし段々と時が過ぎ、娯楽が増えテレビの時代になると、一つ、また一つと仕事が減り、35の時に役者を引退した。その頃東京を離れ、豊子と出会い恋をし、豊子の実家に婿入りし、時計を作る工場を継いだ。

 鉄の役者時代の事を知る人間は、よっぽどコアな映画ファンでも知る人は無いに等しい。


 苦労も多かったが、貧しいながらも幸せな人生を送った。

 ただたまに、役者としての自分を思い出す。近場の芝居小屋に行っては大根役者の下手な芝居を見て「俺ならもっと人を魅せる演技ができるのに」と落ち込んだ。


 3人の子供たちも立派に大きくなった。

 それぞれの道を歩むために、皆家を出て行った。自分の好きな事を諦める辛さを知っている鉄は、誰にも家を継げと言う気にはならなかった。

 時が過ぎ行き、妻に先立たれ、立て付けの悪い築60年の家で鉄は一人。たまに孫が遊びにきてくれたり、年々少なくなっていく友人たちと会ったりするが、鉄は孤独だった。


 今ではボケ防止にと始めたナンプレとクロスワードが生き甲斐の寂しいお爺さんである。





 ーーーちくしょう、電子辞書がこんな時に壊れるたあ、どうなっていやがる。



 いつも通りクロスワードをやっていたのだが、答えをど忘れしてしまった。ーーーあれだろう、あの、小学生が学校にしょってく学生鞄。ラ…なんとか。

 孫にこの間買ってやったばかりなのに、名前が出てこない。


 うんうん唸って頭を捻りしばらく考えたが、最終的に諦めた。あんまり考え込むのも良くないと聞く。


 それで引き出しの中から、何年か前に長男が買ってくれた電子辞書を取り出した。アナログ人間な鉄でも使いやすい逸品だ。

 しかし、久々に使ったら辞書はうんともすんとも言わなくなってしまった。電池を交換し電源を入れたが何も起きない。寿命だったのだろう。はあ、息子からの贈り物で結構気に入っていたんだがと、項垂れた。


 仕方がない。

 なら、紙の辞書だ。広辞苑や新明解、大辞林、さてどこに締まったか。と、ここでまた項垂れた。

 書斎は2階にあり、大体の本や辞典はみなそこに仕舞われている。

 今居るのは1階。築60年のこの家の階段は最近の階段と比べて急だ。

 最近は膝が痛くて登っていなかったのだが、背に腹はかえられない。この思い出せない気持ち悪さを解消しなくては。


 やっとの思いで二階に上がり、広辞苑を開き、ああ!ランドセル!そうだランドセル!と合点した時のことだった。

 チャイムが鳴った。


「はいよー」


「回覧板ですー」


 階段をおりるのは一苦労だが、孤独死を防ぐためと町内会の決まり事で、一人暮らしの老人の家に回覧板を届ける時は、必ず相手を確認する事になっている。


 階段を降りようと手すりを掴んだ。



 だが実際の所掴めていなかった。

 スカッと手が空を切り、よろけてしまった。


 もう少し鉄が若ければ。

 もう少し鉄に筋力が有れば。

 もう少し階段が緩やかであれば。


 そうしたら、多少よろけても鉄も踏ん張る事ができたのだろうが、そうはいかず、鉄は階段から転がり落ちた。


 ーーーああ、これは死んだな。




 鉄の意識はブラックアウトした。







 目が覚めた。


 ここがあの世か、久々に先に死んで行った豊子や友人達に会えるな、と起き上がった。が、すぐに気付く。


「ここ俺の家じゃねえかい。」


 死ねなかったか。と、また気付く。


「あ?声が若え?」


 声に張りがあり、嗄れていない。

 ふと手を見ると、そこには見慣れた無骨でしわしわになった手ではなく、瑞々しい若い頃を思い出すような手があった。


「は?」


 階段すぐ近くに洗面所がある。よし、と覚悟を決め、立ち上がる。恐る恐るといったかんじで、鏡を覗いた。



「!?」



 そこには若い頃の、役者になった頃の自分が居た。

 自分は死んで幽霊になったのかと、目が覚めた階段に向かうも、そこには何もない。居間の机を見ると解きかけのクロスワードと壊れた電子辞書。


 ーーーわからねえ、俺は狐に化かされたんだろうか。


 そこでまたチャイムが鳴った。



 反射的に「はいよー」と声を上げると


「回覧板ですー」と声が返ってきた。


 既視感とでも言うのだろうか。階段から転げ落ちた少し前とまったく同じやり取り。恐る恐る玄関の戸を開けると、隣の家に住んでいる一家の娘が立っていた。


「あれ?鉄さんは?お孫さんですか…?」


 今の姿はどう見ても90の大台を目の前にした老人には見えない。鉄は慌てて誤魔化した。


「ま、まあ、そんなもんさ。

 わりぃけど、ジイちゃんは今散歩行ってて居ねえンだ。」


 少女が少し顔を赤らめる。


「あ、あの…失礼じゃなければ、お名前、お聞きしてもよろしいですか?」


 その質問に咄嗟に


「鴇、ってえんだ。」


 と答えた。


「鴇さん…」


 しばし娘は鉄に見惚れた。仕方が無いだろう。

 背は高く、しっかりとした体つき。目はきりりと切れ長で、鼻筋はスッと通っている。唇の形も良く、肌にはニキビ一つ無い。右目尻には二つ並んでホクロがあるが、それは鉄の美貌のアクセントにしかならない。低く、少し掠れたその声は色気がある。


 うっとりとうら若い年頃の娘に見つめられて、鉄も悪い気はしない。



 しばし見つめ合っていたその時、どこからか女の悲鳴が聞こえてきた。



「どろぼー!!!捕まえてー!!!」


 家の前の道路を原付が走ってくる。車幅の狭い住宅街の道路を、それなりのスピードを出してグネグネと蛇行運転している。その上二人乗りだ。それだけでも危ないが、後ろに乗っている男はヘラヘラとヘルメットも被っていない。

 男の腕には高そうな女物のバッグ。



 ひったくりだ。


 鉄の体が反射的に動く。


 玄関にあった箒を手に、サンダル履きで道路に出た。前方の原付は驚いて急ハンドルをきった。


 原付は鉄の横を横滑りして倒れ、電信柱に引っかかって止まった。

 乗っていた二人に大した怪我は無いのか、それともアドレナリンでも分泌されていたのか、咄嗟に立ち上がり、走り出そうとした。


 が、



「逃がさん!!」



 鉄は箒を構え、まずフルフェイスのヘルメットを被った男の腹を思い切りはらう。うめき声を上げ、ヘルメットの男が腹を押さえ屈んだ所、容赦なく箒を頭に叩き付けた。その衝撃で男はそのまま道路に倒れ伏せ、意識を失った。


 ノーヘルの男はそれを見てあわてて逆方向に逃げようとしたが、それを許すわけも無い。原付で転んだ時に傷めたのだろう、男の足下はおぼつかない。それを見逃さず、箒をつかって足払いした。男は間抜けな声をあげて転んだ。



「観念せい!!」



 そこにタイミングよくパトカーが到着した。

 そしてワッと歓声がわく。

 閑静な住宅街のど真ん中でそんな騒ぎを起こしていれば目立たないわけがない。野次馬が出来、お向かいや隣近所の人々は窓からそれを興奮した様子で見つめていた。

 隣の家の娘はあっけにとられつつ、見事な体捌きに思わず拍手している。


 男たちは御用となりパトカーに押し込まれる。

 警官が二人、事情を聞きたいと鉄に近づいてきた。そしてその場で簡単な質問を受けた。



「ご協力感謝します。

 少し詳しいお話を署でお聞きしたいのですが、今お時間大丈夫ですか?」



 大丈夫じゃない。



 たしかに時間は大丈夫だ。

 年金暮らしの鉄に何か用事はあるかと言えば、そういえば明日は週一回のデイサービスの日だなと思い出すことと、明後日は通院する日だなと確認することと、結局書き込んでいないクロスワードの「ランドセル」の5文字を書き込むことくらいだ。


 後ろめたい事も何か責められるような事もしていないが、今の自分の姿を考えると、大丈夫じゃない。

 身元が確かじゃない。

 もし警察で身分証明書を出せと言われても、年金手帳と今じゃ乗らなくなった車の免許しかない。どちらも今の鉄には出せる代物ではない。

 住所と言えば、一人暮らしの爺さんの家で、

 なぜここに居たのかと聞かれれば、そこに住んでるからだ。孫だと誤魔化そうものなら、狭いこの町のジジイにこんな孫がいたか、という話になり得る。

 身元の分からない若い男が、行方の分からない老人の家にいるというのは、少し笑えないだろう。


 と、ここで思い出す。そういえば、刑事課には次男の友人がいるはずだ。今は課長をやっていると聞く。彼に事情を正直に話してみて、どうしたらいいか少し相談に乗ってもらおう。


「大丈夫です。

 あの、そちらに中島俊一さんって方いらっしゃいます?」


「課長ですか?」


「そうそう。知り合いなんで、その人に会いたいんですが。」


「…?わかりました。」


 ちょっと不審がられたが、まあ同意は得たから良しとする。




 次男の良樹と同い年で幼なじみ。

 二人は高校時代同じ剣道部に入っていた。鉄は剣道の段位を持っていたのでよく教えに呼ばれていた。

 今年49歳になるだろう。彼の父親は若い頃に肝臓癌で死んでしまったため、鉄が父親代わりのような所もあった。4、50代の頃の自分と比べると随分と若いが、俺の顔も覚えているだろうし、なんとか通じるだろう。

 まっすぐで見ていて気持ちのいい男だった。

 正面から話せばきっと分かってくれる。

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