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銅のスコップ

作者: 三浦潤

 愛用していた銅のスコップを小説の泉に落としてしまった。これでは小説を掘り出せない。

 困ったことになった。スコップは私達スコッパーの必需品だ。

 買い換えるのは惜しい。あれは安物のスコップだったが、私にとってはたった一つの大切なスコップだった。どんなに安っぽいものでも使い込めば愛着が湧く。小説と一緒だ。

 しかし、泉に落ちたスコップを拾いに行くのは危険だ。スコップなしで泉に潜れば文字に溺れる。文字に溺れたスコッパーは頭がおかしくなる。常識を破壊され、破綻した文章を食み始めるのだ。そうなればスコッパーとしておしまいだ。もうまともな小説は見つけられない。

 そんなことは嫌だ。だが私にはあのスコップが必要だ。


「どうしたものか」


 迷っているうちにも私のスコップは泉の底へ沈んでいく。そろそろ決断しなければならない。

 私は、スコップと運命を共にすることに決めた。スコッパーなどこの世にいくらでもいる。その中のたった一人が、自分のスコップのために命を投げ出すのも悪くないだろう。

 準備運動を始める。屈伸、背伸び。大きく息を吐く。

 これでもスコッパーの端くれだ。多少は泳げる。スコップを手にできれば、あとはなんとかなるだろう。

 よし、行こう。

 文字の波を睨みつける。

 すると、静かに揺れる水面が、ふいに止まった。寒気がする。

 なにかが浮き上がってきた。小説の泉から現れたそれはため息が漏れるほど美しい女性の姿をしていた。

 泉に潜む女神の存在は、スコッパーの中で語り継がれてきた。金と銀の道具を出し、どちらを落としたか聞いてくるという話だった。それがこの泉から掘り出された作品なのか、もっと昔から存在していた作品なのかは知らない。

 伝説どおり、女神は両手にスコップを持っていた。金と銀のスコップだ。そしてとてもきれいな声で私に語りかける。


「あなたが落としたのは金のスコップですか? 銀のスコップですか?」


 伝説では銅のスコップだと正直に答えれば両方がもらえるはずだった。しかしこの女神自身がその物語を知らないはずもない。銅とすぐに答えても、金と銀のスコップはもらえないかもしれない。銅のスコップすら返してくれないようには見えなかったが。

 そこで私は正直に答える。溺れる者は、というやつだ。


「私が落としたのは銅のスコップです。女神様の仰る金と銀のスコップは、私のものではありません。もしよろしければ銅のスコップを見つけてはいただけないでしょうか」


 女神は目を見張った。


「まあ、なんと正直な方でしょう。ではこの金と銀のスコップをお渡しします」

「そうではなく、私がほしいのは落としてしまった銅のスコップなのです」

「でしたら新しくこちらをお使いになればいいのです。この金のスコップを使えば、小説のあふれるこの泉から、良質な長編小説をたやすく掘り出せます。銀のスコップであれば良質な短編小説をたやすく掘り出せます。あなたの使っていた銅のスコップでは、未完結のものや良作の模倣品、模倣品の模倣品まで見つけてしまうでしょう。それが続けばただでは済みません。精神を引っ張られ、よくない影響があなたに及びます」


 本当に私のことを考えて言ってくれているのだとわかった。

 しかし私は首を振って返答する。


「それでも銅のスコップがほしいのです。私はずっとあのスコップを使ってきました。あれは私の価値観と言っても過言ではありません。今この場で簡単に良作を掘り出せるスコップを選んでしまっては、それこそスコッパーとしての私は終わってしまいます。きっと私はあの銅のスコップでしか自分の好きなものを見つけられないでしょう」


 簡単に手放せるものとそうでないものがある。

 たとえばもはや自分の思考に根付いてしまった小説の一文などがそれだ。それを、世界的に有名な小説のある一文に、その文章がすてきだからという理由だけで置き換えるわけにはいかない。私を構成する重要なものだからだ。

 私のスコップは私の手垢まみれだ。私の趣味嗜好が染み付いていて、この手によく馴染む。良質かそうでないかではなく、自分が好きか嫌いかで小説を判断するためには、そうしたものは必要不可欠だった。私は「一般に良質と言われる小説」よりも「私の好きな小説」を掘り出し、存在を広めてやりたかった。

 だからこそ、


「あれでなくては、いけないのです」


 私は胸を張ってそう言った。

 女神は感動したのかハンカチーフで目元を拭っていた。


「そこまで仰るならもはや言うことはありません。わかりました。すぐにあなたの落とした銅のスコップを探し出しましょう。少しお待ちください」


 女神は金と銀のスコップを私のもとへ置いてから小説の泉へ潜っていった。

 今なら二つのスコップを持ち去ることができる。私を試しているのだろうか? あるいは本当にうっかりということも、あの女神の様子からはありえる話だった。

 妙に落ち着かず、私はとりあえず座ることにした。

 文字が波打つ様を眺めながら女神の帰りを待つ。しばらくすると、銅のスコップを持つ女神が泉から浮き上がってきた。


「お待たせしました。こちらがあなたの落とした銅のスコップですね」

「ありがとうございます」

「それにしても、本当に金と銀のスコップは必要ないのですか」

「はい。それはまた別のスコッパーにお渡しください」

「あなたも、そうなのですね」

「え?」


 女神は寂しげに笑った。その意味するところは、私にはわからない。

 銅のスコップを受け取り、金と銀のスコップを渡す。


「それからこれを」


 一冊の本をもらった。数ページしかない作品がたくさん並んでいる薄めの本だ。


「実は私が書いたんです。ずっとここにいて、退屈だったから。よかったら読んでください。それで、もし感想があれば紙に書いてここへ投げ入れてくださると嬉しいです」

「わかりました。そうしましょう」

「ありがとうございます。ではさようなら」


 私は女神が書いたという本と銅のスコップを抱えて家へ帰った。

 そして本を読み、感想を書いている。

 机の横に立てかけられた銅のスコップに目を向けると、胸が軽く締め付けられるような思いになった。


「やはり金のスコップも銀のスコップももらっておけばよかったか」


 その後悔すら愛おしく感じられる。スコッパーの性だろうか。

スコッパーという単語を見てこんな想像をしてみました。実際がどうなのかはわかりません。

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