60-19 モーリッツの帰宅
「大奥様、若旦那様がお帰りになられました」
弾んでいた話が一段落した頃、折よくモーリッツが帰ってきたようだ。
「あら、思ったより早かったわね。夜になると思っていたけど」
マルレーヌは驚きつつも、早い帰宅を喜び、出迎えに行こうと席を立った。
エルザもそれに続く。
「私も、出迎える。……皆は、応接室に移動しておいて」
きちんとした挨拶をするなら居間よりも応接室だろうと、エルザは移動しておいてくれと声を掛け、自分は玄関まで兄を出迎えに行った。
「お帰り」
「お帰りなさい、兄さま」
「ただいま、母さん…………って、エルザか!? 来てくれたのか」
「ん。……お子さんお誕生、おめでとう、ございます。……あとでちゃんともう一回挨拶するけど、まずは、ここで」
エルザとしても、長兄モーリッツの顔を久しぶりに見たかったのである。で、
「……仕事が大変なの?」
モーリッツは、かなり疲れた顔をしていたのである。
「あ、ああ。……休暇をもらうために、頑張ったからな……」
「でも、もう兄さま一人の身体じゃない。それは自覚しなきゃ、駄目」
「そうよ、モーリッツ。あなたも人の子の親になるんですからね」
マルレーヌもモーリッツに忠告する。
「うん……そうなんだがな……」
ここで、エルザがぴしりと言う。
「そうなんだがな、じゃない。兄さまは明らかに疲労が溜まってる。このままじゃ、倒れる。これは、妹じゃなく『国選治癒師』としての、忠告」
これには、ワーカーホリック気質のモーリッツも、少し堪えたようだ。
「そう、だな……気を付けるよ」
まだはっきりしない兄ではあるが、玄関先で話し込んでいる場合ではなかった。
そのまま、勝手知ったる兄の部屋まで同行するエルザ。マルレーヌは応接間に戻っていった。
「でも、戻ってくるの、思ったより、早かったね?」
「ああ。……実は、ロイザートでジン殿の屋敷に寄ってな」
「え?」
「あわよくば、飛行船で送ってもらおうと思ったんだが、そう都合よく彼がいるわけもなかったさ」
「……」
「でも、バトラーD殿がゴーレム自動車を貸してくれたので、その分の移動が早かったんだ」
「そうだったの」
「うん? お前も、バトラーD殿から連絡をもらって駆けつけてくれたんじゃないのか?」
「そ、そう、だけど、ゴーレム自動車を貸した、という話は聞いて、ない」
どうやらロイザートの仁の屋敷に、モーリッツは立ち寄っていたようだ。
エルザは咄嗟に、時系列を頭の中で並べてみる。
5日。
午前6時、赤ん坊が生まれたので、エキシから鳩便がロイザートへ。
モーリッツが宮城でそれを知ったのが午前10時頃。すぐに休暇を申請。
6日。許可が下りたのが午前11時頃。7日から9日までの3日間とのこと。
昼休み、仁の屋敷へ行くも仁は不在。だがゴーレム自動車を貸してもらえた。
この時点で、仁サイドも赤ん坊誕生を知った。『魔素通話器』で二堂城(現地時間は午後4時頃)に連絡が入った(という建前)。
エルザ、大急ぎで支度を調える。仁も同時に知った(ということにした)ので、折よくデウス・エクス・マキナと通信会談をした際に、エルザを送ってもらえるように頼んだ。
エルザ、急いで支度。
7日。エルザ、ロイザートへ。そして今に至る。
モーリッツ、早朝にロイザートを発つ。借りたゴーレム自動車でコジュへ、そこからトスモ湖を船(ゴーレム自動車も運ばせる)で渡り、サギナへ上陸。
サギナから再びゴーレム自動車を駆って先程帰宅。
時系列に矛盾は出ない。
エルザは内心でほっとした。
さて、モーリッツは自分で着替える派なので、エルザは部屋の外で待つこと3分。普段着に着替えたモーリッツが出てきた。
「今、フリッツ兄さまとグロリアさんも来てる」
「うん、執事に聞いた。挨拶に行くとしよう」
そのまま、兄妹並んで応接室へ向かう。
エルザはしばし娘時代に戻ったようで、懐かしさに浸りながら短い道のりを歩いていったのである。
* * *
「兄上、第一子の誕生、お祝い申し上げます」
「モーリッツ義兄様、おめでとうございます」
エルザの前に、フリッツ・グロリア夫妻がお祝いの口上を述べる。
そのあとでエルザが、
「主人は外せない用事で間に合いませんでしたので、先行して私が来ました。モーリッツ兄さま、第一子のお誕生、おめでとうございます」
と正式に挨拶をする。
モーリッツもマルレーヌも、またフリッツもグロリアも、仁の交友関係を知っているので仁が不在なことに関しては何も言わなかった。
フリッツが持ってきたお祝いの品は『医薬品類』であった。『アヴァロン』で生産され始めた、効果の高いものだ。
もちろん、蓬莱島のものには比ぶべくもないが、一般に使うには十分すぎるものである。
「おお、これはありがたい。領民のためにもなるな」
モーリッツとしては、小さいながらも領主であるため、領民の健康には気を使っているのだ。これは、己が病弱なことも背景になっている。
そして、エルザは『魔絹』の生地、厚手・薄手をそれぞれ一巻ずつ。市場に出せば数十万トール以上の値がつくであろう品である。
「おお、これは素晴らしい。イングリットも喜ぶだろう」
染めることも自由、仕立ても自由な、純白の『魔絹』。モーリッツはその価値を正しく見抜いていた。
蛇足ながら、『魔絹』は普通の絹よりも丈夫であるとはいえ、5倍(引っ張り強度)程度であり、硬度はさほど高くないので(高ければあの風合いは出ない)、一般人でも加工ができるのだ。
これが地底蜘蛛絹になると、剪断強度が桁違いになり、一般人には加工できなくなる。
例えると、ボディアーマーや防刃ベストに使われているアラミド繊維で織られた布を、普通のハサミで切ろうとするよりも困難である。
さらに蛇足になるのだが、持ってきたペルシカ、アプルル、シトランをモーリッツも口にしたので、溜まっていた疲労は少し改善したようだった。
そして、大事な質問が。
「で、兄さま。赤ちゃんの名前、決まっていたら、教えて」
「お、おお、そうだったな。……じゃあ、イングリットのところで発表するよ」
ということで、モーリッツを先頭に、エルザ、フリッツ、グロリア、マルレーヌらはイングリットの部屋へと向かった。
「旦那様、お帰りなさいませ」
モーリッツがドアを開けると、笑顔のイングリットが迎えた。
「ただいま。この子の名前を決めたから、発表したいと思う」
「はい、聞かせてくださいませ」
「そうだな。 ……この子の名前は、『ヘンリエッタ』にしようと思う」
「いい名前ですわね、あなた」
「ん、いい名前」
ヘンリエッタ・ランドル。それが、モーリッツの長女の名前になった。
「いいなあ、兄貴」
「いい名前ですね」
「ヘンリエッタちゃん……エータちゃん? それともリエッタちゃんかしら?」
フリッツ・グロリア夫妻もいい名前、と認め、マルレーヌに至ってはもう愛称を考えていたのである。
いつもお読みいただきありがとうございます。
20190529 修正
(旧)例えると、アラミド繊維で織られた布を、普通のハサミで切ろうとするよりも困難である。
(新)例えると、ボディアーマーや防刃ベストに使われているアラミド繊維で織られた布を、普通のハサミで切ろうとするよりも困難である。