その2 笹本先生の講義
州立東京湾上大学工学部次元工学科 笹本名誉教授は退官間近です
みなさん、おはようございます。
えー、本日は前回に続き、VR───Virtual Reality技術の発達史について講義となります。
話の枕に前回のおさらいでもしましょうか。
前回は極初期の仮想現実───バーチャル・リアリティがどのようなものであったか、またその後の発展について、実物を交えながらお話ししましたね。
ある物を、別の方法で表現あるいは再現すること。
それこそ洞窟に描かれていた壁画を想起するまでもなく、有史以前から人類が試みてきたことであります。文字が発明されてからは、過去の記録を後世に伝えることが出来るようになりましたから、つまりは情報を通した想像力で補う形の仮想現実が『実用化』された、とも言い換えられます。
実在の人物だけでなく想像上の人物も含めて立体的に表現した彫刻、絵画、そして絵画の一技法である遠近法やそれを発展させた騙し絵、これらももちろん、出現当時は非常な驚きを持って迎えられたでしょう。ミニチュアの建物や山河を配置したダイオラマも、広くはこちらに分類されますよ。
その後は工業技術的な発展もありまして、前回お見せしたレンチキュラーレンズや立体視眼鏡など、視覚環境における擬似的な三次元画像および映像が登場しました。音響VR環境の基礎であるステレオ理論などは、それこそ1000年も前に実用化され、現在でもその技術の延長上にあるものが多く存在します。
その後機械式計算機に取って代わった古典的電算機───ああ、過渡期には真空管式なども存在しましたが、いわゆる半導体電算機の急速な進化で、仮想空間内の立体物を平面ディスプレイ上に表現する技術が開発されました。この時はじめてヴァーチャル・リアリティ、VRという言葉が世に認識されたのです。
現在ではVRとして扱われないいわゆる枯れた技術でありますが、何よりも手軽に必要な情報を提供する手段として、圧倒的に優れていますからねえ。今後も褪せることなく、人類はこれらの技術を使っていくことでしょう。
しかし同時に、これらは全て現実世界上に疑似再現された環境であります。
今日のVR技術の基礎でありながら、似て異なる物と定義されています。
VR技術に光明がもたらされたのは28世紀、エイブラハム・ルーサーフォードの提唱した超次元理論が実証されたことがきっかけでした。
高次空間世界が利用できるようになった途端、それまでの常識を破壊する技術的大変革が世界を席巻しました。そちらはそれぞれ専門の先生方に譲るとして、VRに的を絞って申すならば、ルーサーフォード理論を応用した数ある発明発見の一つ、次元電算機によってそれまで不可能であった仮想現実内での完全なる人体のシミュレーションが可能になったことは、特に大きいでしょう。
人体にある60億もの細胞の、その内部にある小器官の働きや体液中の血球までを分子単位原子単位で一つ一つシミュレートすることは、それ以前の光電算機でも可能ではありました。……ただし、1人分の人体を1秒間シミュレートするのに当時最高性能を誇った光電算機を三台も投入して七ヶ月半かかったといいますから、その能力は今のゲーム機一つにも及びません。
諸君もよく遊ぶようなゲーム機は、実はすごいんですよ。まあアルバイトをして買うにも少々お高い値段ですが、昔を知る私たちの世代にしてみれば、あの能力であの値段であることの方が信じがたいほどです。
少し横道に逸れましたが、今日の本題はここからです。
諸君にも馴染みのあるゲーム機器をゴール地点に置いて、話を進めてみましょう。
さて、29世紀に実証されたルーサーフォード理論を元に世界初の次元電算機が製作されたのは、30世紀に入ってからのことでした。当初は60階層のビルディング一つ分の容積を持つ本体に、州都東京が1日に使うエネルギーの半量と同程度の電力が必要だったと言います。それこそ、小さな事故で周囲数十キロメートルが吹き飛ぶほどのね。
もちろん、そんな危ない物ですから、地球上に作られることはありませんでした。……事故も最初から折り込み済みだったのか、最初の実験機は軌道上───それも月-地球基準のラグランジュ点ではなく、それまで利用されていなかった太陽-金星基準のラグランジュ点に設置されましたよ。今は記念博物館になっていますから、諸君の中にも行ったことがある人がいるかな?
まあ、それはともかくも、これほどの量のエネルギーが必要とされた理由は、高次空間と現時空間を安定して接続する為の『ブリッジ』と称される技術が未熟だったおかげで、空間同士を力任せに繋いでいたことが原因でした。計算能力は確かに優れていましたが、これでは一般家庭でちょっと気軽に使おうというわけにはいきませんね。
ですが次元電算機の計算能力は本当に優れていましたから、この一台で人体の細密なシミュレートを実用的な時間で行えるようになりました。医療用、宇宙分野、はては経済予測に至るまで、実用化されて最初の20年で人類は100年分の技術史を早送りしたと言われるほどです。
では何故、それほど優れていたのか?
これは素子間でやり取りされる情報が、他の次元を経由することで光速度を超えたからです。
これまでもコンピュータ───いや、敢えて計算機という言い方をしますが、機械式計算機に於ける歯車の壁、半導体式電子計算機に於ける電子速度の壁を越えるのに、人類は大きな活力と知恵をつかってきました。光電算機に於ける光の壁は当時『最後の壁』と呼ばれていましたが、ルーサーフォード理論はついにその壁をうち破ったわけです。
ですが初期から中期の次元電算機は、あまりにも巨大でした。危険も内包していましたから、あくまでも計算の為の計算機の域を出ることがなかったのです。
しかし今から50年ほど前、次元電算機進歩のためのネックとなっていたブリッジ技術にイェンス・ライヒヴァインが改良を加えたことで、小型化と高性能化に向けて大きく走り出しました。
もちろん、そこに至るまでは様々な試行錯誤と苦悩があったでしょうが、ライヒヴァインの発想は実に優れていました。
それまでは異なる次元と情報をやり取りする時に、こちらの世界にも存在する数種類の素粒子に、次元軸を一軸または二軸加えて情報の媒体としていました。更には次元間に半ば無理矢理に穴を開ける為、膨大なエネルギーが必要だったわけですが、毎回毎回莫大なエネルギーを投入し次元同士を繋げては安定させ、その為の計算にさえ余力を取られるのは……諸君もわかるでしょうが、明らかに非効率ですね。
そこでライヒヴァインは最初、次元間を繋げっ放しにしてはどうかと考えましたが、これは残念ながら上手く行きませんでした。正確には、実験その物は成功したのですが、計算上は従来型次元電算機よりも少ないエネルギーで稼働できるはずが、とんでもない大食漢の怪物が出来上がる結果になってしまったのです。これはこれで後に時空間欠損方程式という発見に繋がったのですが、それはおいておきましょう。
ともかく、ライヒヴァインは諦めませんでした。
これでは何のために研究しているのかわからないと当時もずいぶん批判されましたが、ライヒヴァインは苦心の末、一つの結論に辿り着きます。
『私が間違っているわけではない。だが、残念なことに世界も間違っていない』
……有名な言葉ですから、皆さんも聞いたことがあるかも知れませんね。
根本に立ち返ったライヒヴァインは基礎研究を見直し、高低が連続する次元間の接続に、平行世界を利用することを思いつきました。これは後にライヒヴァインの架け橋理論と呼ばれることになり、次元計算機に大革命をもたらしました。
平行世界理論の根本というものは、噛み砕いて言えば分岐の連続で無数の多元世界が生まれ、観測者の不在と結果の収束で消滅するといったものです。
私は今朝、朝食に卵焼きを食べましたが、ゆで卵を食べた世界もあるかもしれません。賞味期限が近いからと妻に言われて、2個食べた世界もあるかもしれない。
もちろん、宇宙規模では、卵焼きを食べたかゆで卵を食べたかは、殆ど意味を成さない差違でもあります。ですがそう言った小さな事象の違いを積み重ねて、平行世界は次々と分岐していくのです。
しかしながらその誤差はほんの僅かで、宇宙全体から見れば、それこそ砂漠の砂粒一つの位置情報以下の事象です。しかも平行世界はその様な『誤差』を飲み込んで収束・消滅していきますから、ゆで卵よりも小さな素粒子のやりとりの『結果』だけを都合良く抜き出すなら、高次元との接続のように巨大なエネルギーも大がかりな装置も必要ありません。与える影響も揺らぎによる吸収……ああ、酷い言い方をすれば世界の消滅と共に消えてしまいますから、影響力はありながら何もないに等しいということになります。
それに多分……昨日も今日も、大きく広いこの世界の宇宙の中では幾つもの超新星爆発が起きているはずですが、それは宇宙構造の安定を揺るがすものでもないし、私も諸君らも何か困ることもない。
そして架け橋理論を使った機器によって生ずる他世界への影響は、それとは比べ物にならないほど小さなエネルギーのやり取りだから、気にしなくてもいいじゃないか。
……というのが、この理論の根本であります。
余所の平行世界にエネルギーどころか結果の受け渡しまで肩代わりして貰うことになるのですが、それ故に、次元世界間を繋ぐのとは比べ物にならない小さな穴一つですんでしまうわけです。
倫理的あるいは安全面についてはどうかという問題は、菜食主義者の食べる野菜を育てる畑にいた動物性微生物の生死は果たしてどう扱うべきかと言った問題に近く、水掛け論になってしまいますし、実際はしっぺ返しや揺り戻しが起きていても人類はそれを観測できないだろうと言うのが通説です。
まあ、それはともかく。
ライヒヴァインの架け橋理論が発表されたことがきっかけとなって、次元電算機の世界に急激なダウンサイジングが起こりました。
すぐに民間企業が導入出来る価格帯の民需品が作られ、その後四半世紀ほどもかからず家庭用の、それもゲーム専用機が販売されるようになりました。これが丁度、諸君らが生まれる少し前あたりの出来事ですね。
もちろん、今ほどの性能はありませんでした。
家庭用を謳いつつも、筐体の大きさは60センチ四方もある段ボール箱のような代物で、これに重さ3キログラムもある重いヘルメットと、長いコードが100本以上も着いたハロウィンのかぶりものみたいなセンサー付きの専用服を身に着けて、ようやくVR世界へと入り込めるのです。
それで再現されるのが視角と聴覚、そして身体運動のほんの一部のみなのですが、当時の人々には熱狂的に受け入れられました。
重要なことは、当たり前ですがこれが娯楽だったことです。
その当時、例えば宇宙飛行士の訓練につかう完全環境再現型のシミュレータや、終末期医療や難病治療などのケアを行うVRホスピタルは一般化していました。
しかしゲーム機は誰もが利用できる物で、値段も安く設定されてます。いえ、そうしなければならない理由がありました。高いレベルでの妥協とはいえ、どこかで性能面も我慢しなくてはなりません。
幾ら面白い玩具でも、生涯年収の半分もするなら誰もが購入するというわけにはいきませんね。この為に、技術者や企業は四苦八苦の無理と無茶と無謀を重ねますし、余人が聞けば笑い話にされかねないようなことにも、真顔で取り組むわけです。
今で言うなら例えば『VOX』、例えば『PVP』、例えば『SC-3T』。現在のような進歩を遂げるまでには、大変な苦労があったことでしょう。
さて、これでハードウェア……ゲーム機器は完成しましたが、中身の方はと言いますと、まだまだ追いついてはいませんでした。
医療用のように人体を完全再現すると、光電算機では問題とならなかった通信速度や処理能力がネックになって、不自然で不自由な環境再現となってしまうことは当初より解っていました。
持ち運べるほどに小型化し、一般家庭の購買意欲をそそるほどの価格にしたのだから、どこかに無理は出てきます。
ではどうするか?
一つは処理能力に合わせ、体感時間を遅くすることです。
現実世界の10分をVR環境下の1分とすれば、同じ作業に10倍の処理能力を投入できる計算になります。
その上でスタンドアローンなソロプレイ専用のゲームにしてやれば、通信環境も不必要となります。
RPGでもアドベンチャーでも構いませんが、これならば機械の能力は際限なく低くてもいいわけです。
この系統の時間拡大型ゲームならば『タンブルウィード・アンド・グレイブ』……TAGシリーズという西部劇を模したゲームが有名ですね。これなどは意図的に処理速度を落とすことで、ゲーム機の能力に余裕を持たせ、同時にオンラインゲームとして十分な情報流量をゲーム機器とサーバーの間に確保することに成功しました。
何せ、ゲームをしているプレイヤーの感じる時間はVR環境下の時間流量と同等ですからゆっくりには感じませんし、通信対戦も西部劇の決闘……互いに10歩進んで振り向いて早打ちするだけのゲームですから、個々の対戦時間も非常に短い。ですが世界中のプレイヤーが対戦相手になるわけで、初の完全VR環境再現オンラインゲームとして大きな人気となりました。
ですが、不都合もやはりありまして、1on1……一対一が基本であること、自由に動けるのは酒場とその前の通りだけと、世界を小さく極限することで対処していたんです。
再現されていた五感も視角と聴覚、そして手を含めた触覚の極一部だけでしたから、当時の環境でもなんとかなったと言えるかも知れません。
もっとも、そのゲーム機もすぐに発展してしまいましたから、堂々巡りと言えなくもないでしょう。
もちろん楽しい面ばかりではありません。問題も出てきました。
丸一日ゲームをしても1時間ぐらいにしか感じないのですから、現実の肉体の管理を疎かにする人々も出てきてしまいました。
諺にもありますが、『ゲームは支配する』と言われる状態ですね。
そこでこれまでは主に技術者や企業向けに整備されていたVR機器法が抜本的に見直され、道路交通法並に人々の生活と密接に関わる法律となったわけです。
いまはコールドスリープチェアやゲームベッドと言った保護機器もありますし、業務用ならVRオフィスまでついた統合環境もあります。いい時代になったと、心の底から思いますよ。
皆さんも中学校のVR教室で授業を受けたことがあるように、教育用の環境も普通に見かけますね。同時に危険性や守らなければならない約束事も教えられたと思いますが、機械任せにしていていい部分と人間が守らねばならない部分、それらが合わさっている大事な内容であります。
さて。
続いて考え出されたのが、再現度を間引く技術です。
圧縮技術───これが現在の主流となっていることは、前回もお話ししましたね。
たとえば聴覚を例に取りますと、個人差年齢差はありますが、人間が音として認識できる範囲は大体決まっています。
今、私の声は皆さんの耳にも届いていると思いますが……よいしょ、たぶんこれは聞こえない。
そう、犬笛です。
文化人類学の林原先生に頼んで借りてきたのですが、吹いてみましょう。
───。
……。
どうですか?
───。
聞こえた人はいますか?
ええ、もちろん、私にも聞こえませんよ。
ですが、犬笛の名前の通り、犬には聞こえます。
マイクで音を拾い、記録することもできます。
でも、人間に聞こえないのなら、サーバーやゲーム機の処理能力をわざわざそちらにまで割く必要はありません。
これで少し、ゲーム機の処理能力の割り当てが減らせましたね。
もうひとつ実験……いえ、実感してみましょう。
左腕の真ん中あたりを、右手の人差し指で押さえて下さい。
感触はありますか?
強く押さえれば強く感じ、弱く押さえれば弱く感じますか?
ですが、どの感覚器を何個使ったかまでは、解りません。
個人差もありますし、私は押さえる強さも指定しませんでしたね。
だったら数を減らしても、ある程度までは誤魔化しが利く……となるわけです。
人間の感覚器は触った、触っていないという信号を化学物質や電位の変化による二値……二進数を使って脳に送っていますが、感覚器1000個使うところを500個に減らしたとしても、同時に受容器側の最大値も500に減らしてやれば信号の強度としては同じ最大値を確保できるわけです。『耐えられないぐらい痛い』と『全然痛くない』の間を何段階にするか、これが不自然でなければいい。
しかも特殊な訓練を受けていない人間は、身体能力の20%程度しか使わないことで冗長性と安全性を確保しているのですが、VR環境下ならその様な制限は不必要ですから、実際にはもっと減らせます。
この様にして、個人を個人たらしめる思考や記憶に関連する脳の一部分以外は、かなりの圧縮を許容してなお、VR世界での人間生活に不都合なしと言えるまでになりました。
しかも極限する───端折るとことには、もう一つ有用な効果がありました。
先に述べた『タンブルウィード・アンド・グレイブ』とは逆に、必要な処理が少なく出来るなら時間の圧縮も出来るわけで、VR世界内では1日過ごしたはずが現実では1時間も経過していない、ということも出来るわけです。
これには本来医療向けであった、疑似生体転写技術の進歩が大きく影響、或いは貢献しました。
VR世界で10年過ごした人にそのまま10年分の記憶を植え付けては、18歳の老人を人工的に作ってしまうことになります。馬鹿正直に詰め込んでいけば、人間が持つ脳の容量では早々にパンクしてしまいますし、処理能力が追いつきません。
しかし人間には、非常に便利な能力が元から備わっています。
物を忘れるという『能力』です。
うん、物覚えがいいほうが便利そうに思えますが、決してそうではありません。
諸君も今朝食べた朝食、あるいは昨日食べた夕食は、そう考えずとも思い出せるはずです。……コンパに出ていて酔っぱらった等、何か理由があれば思い出せないこともあるでしょうが、ほぼ100%の諸君が思い出せるものです。
ですが、誕生日であったとか初デートだとか、何某かの関連づけを有する理由が無ければ、224日前の、または1583日前の昼食は覚えていないのが普通です。
どうですか?
思い出せない諸君の方が多いでしょう。
さて、これで大事なはずの記憶と体験が、君たちの中から消えてしまっていることが確認できたわけですが……諸君の日常生活には何等支障がないのではないですか?
このように、忘れているからと致命的な問題になることは、ほぼありません。記憶を薄れさせ、または忘れることで、人間は適度な柔軟性を維持して脳を労っているのです。
そこでこれを電算機側で処理して、差違を転写すればよろしい。
AIに思考させるよりも余程簡単です。何せ脳は重要な記憶ほど関連するニューロンが発達して強度が増し、脳波の電位変化も触れ幅が大きいとわかっているのです。取り込み時に記憶地図も作成されますから、記憶薄化処理はそう難しくありません。
転写の方は出来上がった薄化記憶に基づいて脳の状態を変化させればいいだけですから、取り込み以上に簡単です。ニューロンを引き直したり特定の刺激をかけたり、作業は微細な精度を要求されますが大がかりな装置は不用です。マッピングに従って電磁波や素粒子で順に弾くだけ、年齢性痴呆の治療や事故によって欠損した部分の再生と違い、無い物を作り出す必要はありません。
それこそライヒヴァイン登場以前の次元電算機が主流であった頃から研究されていた成果は、100年以上に渡って積み重ねられていましたからね。
いまでは時間変動型、あるいは時間圧縮型のVRオフィスで働く人々は、急激に増えています。第三次産業従事者の半数は、週に一度以上の割合でVR世界に赴くと統計上でも答えが出ています。
さて、ゲームの世界へと話を戻しますと、やり取りする情報量や使われる処理が小さくできれば、自然と出てくるのがMMOG───Massively Multiplayer Online Gameと呼ばれる多人数参加型のゲーム群です。VRオフィスのゲーム版とでも言いましょうか、根幹の技術は全く同じ物です。
非VR環境のMMOGは、それこそ1000年前の古典的電算機の第一次隆盛期にまで歴史が遡ります。
当時のゲームはドットと呼ばれる小さな点を寄せ集めた数パターンのグラフィックだけで再現された小さなキャラクターが、二次元ディスプレイの上を動き回る非常に単純な構成でした。極初期には音声を介した会話さえできず、文字でやり取りしていたそうですが、遠隔地にいるプレイヤーと情報の共有が出来るという一点はその時代から変わっていません。
今もVRゲームが法規制されている子供向け……には限りませんが、サングラス型のディスプレイと握って使うコントローラというスタイルのゲーム機器はありますし、遊びとしての楽しさは必ずしもゲーム機が支配するわけじゃありません。
VR環境のMMOGは確かに楽しい。わくわくもします。
ですが、私には5歳の孫と遊ぶボードゲームの方が数倍楽しくて面白く、新たな発見と感動がありますね。
5歳児ってすごいんですよ。
私の顔色を見てどの手札があるかと推測したり、どのマスに止まればどう行動しようかと、稚拙ながら戦術まで立ててくる。
負けると悔しそうな顔をしますが、手加減すると怒るんですから、大したものです。
長年仮想環境の研究に携わってきた私でさえ、未だ現実にあるホンモノには勝てない。心からそう思いますよ。
VR技術は素晴らしいですが、もっと素晴らしい物が目の前に存在するのだと言うことは、諸君にも覚えていて欲しいと思います。
……失礼、話を戻しましょうか。
MMOGには体験の共有、情報の共有、世界の共有が内包されています。
これは人間が人間であることの根幹を意識した、重要な要素ですね。ゲームの楽しさにも定義付けは色々とありますが、ここを疎かにしたMMOGはすぐに廃れると、だいたい相場が決まっています。
圧縮型ゲームの代表例には、例えば『剣と魔法のサーガ』というMMORPG───ロールプレイングゲームがあります。VR世界に再現されたキャラクターになって剣と魔法でモンスターを倒す、オーソドックスなゲームですね。
これも極初期には、スタンドアローンのVR型RPGとして作成されていました。しかし今では軒を貸して母屋を取られる状態、MMORPGとして派生のオンラインゲームの方が人気になっています。
このゲーム、シリーズ初期には視角と聴覚のみが再現されていました。味覚も嗅覚も切り捨てられていましたから、コーヒーを飲んでも目の前から消えるだけで、味もにおいもなかったのです。もちろん触覚も中途半端で、モンスターに殺されても、痛くも何ともありません。
実は私も研究半分遊び半分で狼男に扮して剣を振るっていましたが、これがなかなかに面白い。今は流石に半ば引退していますが、たまに遊んでいることもありますよ。
ふふふ、もしかして、諸君の中の誰かと、ゲーム中でパーティーを組んだことがあるかも知れませんねえ。
ああ、失礼。
……しばらくするうちに、ゲーム機の進歩に合わせて斬られると多少は痛い思いをするようになりました。ああ、そのまま痛みを再現すると、ドラゴンに踏みつぶされると困ったことになりますからね、そのあたりは調整されていましたよ。
その後にはにおいや味、食感まで再現された料理も登場しましたから、打ち上げはオフ会のように現実世界に戻らなくても、プレイヤーの経営するゲーム世界のお店で、ゲーム内通貨を使って行えるようになったのも大した進歩ですね。
それに、です。
ゲーム史ならば若い諸君の方がよくご存じかもしれないが、シリーズ中で一番最初に出たMMO型ゲーム『剣と魔法のサーガMMO』の時間経過は現実世界と同等、つまり等速で運営されていました。
これは当時のゲーム機の能力の限界であって、現行の作品である『剣と魔法のサーガ・《神竜の夜想曲》』では、3.5倍速になっています。
これには裏話がありまして、速度を高めるなら実は10倍速100倍速でも可能なほどに圧縮技術は進歩していてゲーム機側の処理能力も対応していますが、常にアクセスしている人とそうでない人の差が開きすぎないように考慮された結果、毎日同じ時間にログインする人が昼間も夜も経験できるようにとの配慮もありまして、この中途半端な3.5倍という速度に落ち着いたそうです。
いわゆる、ゲーム的な意味でのサーバー───ああ、ゲームによってはワールドやフィールド等とも言いますが、その寿命を多少なりとも考慮したのでしょう。成熟期に至ると、どこも人数は減りますからね。少しでも引き延ばしたいのはどこのメーカーも同じです。
しかし、発想や視点を変えれば、時間圧縮は企業側にもメリットがありまして、これを極端な形で推し進めたのが、今夏にサービスが開始される『新剣と魔法のサーガ・《戦乱の向こうに》』というシリーズ最新作です。
ゲーム機の他に対応するコールドスリープチェアが必須、接続は連続した72時間と少々敷居は高くなりましたが、時間圧縮比は公式サイトによれば通常500、最大値600以上と、少し前の業務用VRオフィスに近い圧縮比を達成しています。つまり、現実世界の3日間が5年以上に引き延ばされるわけですね。
代わりにサーバーは毎回新しく構築することになりますが、プレイヤー全員のゲームスタートが一斉で、外から見れば全員がディーパー……スラングで恐縮だがゲーム廃人と同じ状態で連続プレイをすることで、接続時間の多寡による差はなくなるでしょう。
それに『《神竜の夜想曲》』は現在もサービスが継続していますから、本物のディーパーがやって来ることもない。
ついでに言えば1プレイが3日間に限定されるなら、休暇でもないと長く遊べない大人達が、普段は親が同伴でなければ接続できない子供達を連れて遊ぶことも出来るので、初心者向けに解放されたゲームとも言えるでしょう。
ちょっとした家族旅行にもなりますね。
さて、何故ここまで詳しくお話しするかと言えば、実は私の研究室───ああ、諸君らはまだ教養課程ですから専門を選ぶのはしばらく先になりますが、卒業生にヨカゲームズの社員がおりまして、ちょっと手伝って欲しいと言われたんですよ。
ゲームという物は、完成はしていても本当にバグの一つもなく完璧と言えるのか、ゲームバランスは不公平でないか、様々な検証が必要です。
そこで本講義を受講している諸君の中からテスターを募集したいのですが、希望者は要項を確認した上で、研究室宛にメールを送って下さい。
仕様は現行作をベースにした物ですが、機材はヨカゲームズ側で用意してくれますから、未体験の諸君にも是非参加して貰いたいと思います。
しかし、実際のプレイ時間もそうですが、拘束時間が長いのでよく確認して応募するかどうか決めて下さいね。
さて、今日の講義ではVR技術史のほんの一部、ルーサーフォード理論によって次元電算機が誕生し、ライヒヴァインの架け橋理論によって小型化が進み、ゲーム機が誕生し進化してきた様子についてお話ししました。
皆さんが気軽に遊ぶゲーム一つを取っても、それは人類が何世代にも渡って積み重ねてきた結果の集大成であるということが、よくおわかりいただけたかと思います。
では、今日はここまでにしましょうか。
次回は、今日お話ししたゲーム機器とは対極にある特殊なVR機材について、実例を取り上げながらお話ししたいと思います。
ではまた次回。
諸君、お疲れさまでした。