鏡の中で
「いらっしゃいませ」
元気な女店員の声が店内に響く。今は彼女1人だけのようだ。
声と同時に入ってきたのは少し髪の長い青年、倉野良和だ。
「カットとシャンプーお願いします」
「あ、はい。じゃあそちらに座って待っててくださいねー」
店員は横にあるソファを指した。言われた通り、良和は隣に置いてある黒いソファに腰を下ろす。ソファの柔らかさは、後ろに吸い込まれそうなくらいだった。
しばらくしてから先客が出ていき、店員が良和の方に近付いて行った。
「お待たせしました。あちらにどうぞ」
「はい」
散髪屋の中は主に黒色が使われている。ソファも散発用の椅子も、そして床までも黒だ。
「どんな感じで?」
「後ろの辺切ってください」
「分かりましたー」
店員がそう言った時、少しだけ目の前がグラついた。
変に思ったものの、店内は先程までと何も変わらない。
店員は良和の髪を洗った後、銀色に光るハサミを出し、髪を切り始めた。
(若いのに上手いな)
良和は鏡に映った店員の顔を見ながら思った。
しかし、不意にチクリと痛みが走る。
「!?」
「あ、すみません。痛かったですか?」
「いや……」
当たり前だろ、と思いながらも、良和はまた前を向く。だがしばらくしてからまたも痛みが走った。
さっきから首の後ろ辺りに痛みが走る。
「あの……」
「はい?」
「痛いんですけど……ハサミ当たってませんか……?」
良和は鏡越しの店員を少しだけ睨んだ。向こうも鏡越しに良和を見てくる。
その顔は、一瞬だけ笑ったように見えた。そしてその笑みの後、またしても目の前が揺れた。
「いえ……? 当たってませんよ」
店員はそう言ったものの、その後も何度か痛みが走った。
「……いい加減にしろよ!」
とうとう良和は立ち上がった。何度も痛みが走るので、我慢の限界だったのだ。それでいて店員は知らないふりをするばかりなので、更に怒れてくるようだ。
「え? あの……」
「さっきから何度も何度も当てやがって。さすがにもう白ばっくれねぇよな?」
「いえ、何の事ですか……?」
「ふざけんじゃねぇよ! ハサミだよ、ハサミ!」
鏡に映った良和の首の後ろには赤い血が滲み出てきていた。
しかし店員は未だに分からない顔をしている。
首の後ろを流れる血を拭うと、良和はそれを見つめた。店員への怒りが込み上げてくるが、ふと不思議な箇所を思い出した。
1度目の痛みが走った時、この店員は確かに「痛かったですか?」と聞いてきた。
故意にやったのだろうか?
だが今の店員は全く分からない顔をしている。
「……どう言う事だ……?」
良和は口の中で呟いた。
それにあの鏡で見た笑いも気になる。
鏡越しに、店員にも良和の血が見えているはずだ。それなのにタオルやティッシュを用意しないのは何故だろうか。
「ティッシュ」
「……え?」
「早くティッシュをくれ」
「…………あ、はい」
良和は店員の持ってきたティッシュを取り、首の後ろを流れる血と手に付いた血を拭いた。真っ白なティッシュに付いた真っ赤な血も、店員には分からないようだ。
しかし、彼女が演技をしているようにも見えない。
真っ黒な床と同化している自分の髪を見下ろし、良和は眉を顰めた。
(一体どうなってるんだ……)
床とティッシュとを交互に見ているうちに、また目の前が揺れた。床が回転しているように見える。黒い床に吸い込まれそうだった。
無意識のうちに、良和はまた散髪用の椅子に腰掛けていた。
「……大丈夫、ですか……?」
良和は鏡を見た。店員が心配そうな顔をしている。今度はきつく睨んだ。
鏡の中の店員はさっきと同じ笑みを見せた。不敵に、そして不気味に笑っている。
だが鏡から目をそらし、少し顔を上げて店員を見ると、心配そうな顔で見ているだけだ。口角は上がっていないし、目も細めるどころか見開いている。
「…………ここは……なんなんだ……?」
「え?」
「鏡の中のアンタは笑ってる……」
「鏡……?」
店員は鏡を見た。不思議そうな顔の彼女が映っているだけだ。
「それにこの血……。これを見てなんとも思わないのか……!?」
良和は、握っていた手の力を緩め、震えながらティッシュを店員の前に突き出した。
「血……って?」
「あるだろ、ここに!」
懸命に伝えようとするが、良和の指した場所を見ても店員は首を傾げるばかりだ。
「…………もういい」
そう言うと、良和は体に被さっていたクロスを脱いで丸め、店員に返した。
「あの……」
「帰る。いくらだ」
「シャンプー代だけで1000円になります……けど、あの…」
店員の言葉に耳も貸さず、良和はカウンターの上に1000円を叩きつけると、ドアを押し開けて出ていった。
店内に残された店員は、ボーッと出入り口を眺めていたが、しばらくするとノロノロと歩き出し、床の上に散乱している髪をほうきで掃き始めた。
良和の言っていた事の意味は全く分からないままだ。
(鏡……)
ふと、彼の言葉を思い出し、鏡を見た。
どこも何も変わらないただの鏡だ。店員の顔も変わりない。首を傾げた後、また下を向いて床を掃き始めた。
鏡の中で、彼女の後ろに置いてある銀色のハサミには、しっかりと赤い血が付いていた。
読む人によって受け取り方の違う小説を書きたいと思ってました。
作者が最後を決めるのではなく、読者様方がそれぞれ違う最後を決められる。
この小説が、そんな作品になっていれば嬉しいです。