Dolly Bird
*Dolly Bird
首を絞められる夢を見た。
息苦しさに喘ぎ、もがくようにして――実際ひどくもがいていたのだろう、シーツはぐちゃぐちゃになっていた――飛び起きた午前四時、部屋は真っ赤に染まっていた。一瞬火事かと思って息を呑んだが、どうやら違うらしい。天井には見覚えのない星型のシールが貼られていて、子供部屋に寝かされているのかと頭を抱えた。
頭が痛い。どんなに酒を呑んでも二日酔いにならない性質だから、これはきっと違う原因があるに決まっている。素肌に感じた外気に身震いをして、そこで初めて自分がなにも着ていないことに気がついた。
頭が痛い。
ずきずき、ずきずき、嫌になる。
遠くの方から足音が聞こえてきて、この家に自分以外の誰かがいるのを知った。それが頭痛の原因である可能性は低くない。動くのも億劫だったし、第一、彼女――核心を持って言う。『彼女』だ――が、この部屋に入ってくるのも時間の問題だった。トイレの水を流す音が途切れた頃、案の定、控えめに寝室のドアが開けられた。
「あれ、起きてる」
ぱちくりと目をまたたかせた彼女は、「いししっ」とアメリカの幼児向けアニメに出てくる猫のような笑みを浮かべ、跳ねるような足取りでベッドに潜り込んできた。大きなシャツの上だけを着ているせいで指先までを袖が覆っているし、むっちりとした太腿が顕わになっている。冷えた体温があたたかいベッドの中に滑り込み、僕の素足に触れた。思わず足を退ければ、彼女は不満そうに睨んでくる。
ここは彼女の家ではなく、間違いなく僕の家だった。そしてここは、間違いなく僕の部屋だった。
それなのにやたらめったと甘い香りが漂っているし、天井には得体の知れないシールが貼られている。赤く染まっている部屋は、サイドテーブルの上に生えているきのこ型のランプの仕業だった。カーテンは藍色のシンプルなものだったが、レースカーテンはやたらとファンシーな柄が選ばれた。
頭が痛い。ひどくアンバランスだ。
僕が使うはずのないマニキュアの瓶がランプの光を弾き、ふわふわとした巻き毛が隣でシーツの上に散っている。彼女は機嫌のいい猫のように擦り寄ってきた。やめてくれ。僕は猫が嫌いなんだ。あんな気まぐれないきものは大嫌いだ。なにを考えているのか分からない瞳が嫌いだ。引っかかれたことも噛みつかれたこともないけれど、正直に言うと――認めるのはとても嫌だったが――僕は、猫が怖かった。だから、猫に似ている彼女も怖かった。
ピンク色の爪が携帯をいじり、その明かりが彼女の頬を照らす。「お酒臭いよ」と彼女は言った。そう、と僕は返した。会話はそこで途切れ、彼女はそれ以上なにも言わなかった。五分ほど携帯を触るとぽいと投げるようにサイドテーブルへ置き、ロマンティックフラワーだかエンジェルローズだかの香りを含んだたっぷりの巻き毛を波打たせて、彼女はぼんやりと上体を起こしたままの僕に視線をくれた。
純日本人によくある、黒い目だ。濃い茶色が黒目の周りをぐるりとしている。お世辞にも大きいとは言えない小粒の目は一重だし、小さくて低い鼻も、総合して見れば化粧を施していない今は、とてもじゃないが可愛いだとか美人だとか言えたもんじゃない。勘違いしないでほしいが、けっして不細工だと言っているわけではない。彼女は化粧をすれば、文字通り化けるのだ。
出会った頃は真っ黒でまっすぐだった長い髪は、いつの間にかミルクティ色に染まり、大きなカールが作られていた。黒々としていた凛々しい眉も、細く、茶色く、綺麗なアーチを描いていた。
華奢な手に引き倒され、剥き出しの肩を悪戯になぞられる。彼女は楽しそうに笑った。
「ね、ね、ふるさとはどうだったの」
「どうって、別に。なんの思い出もない場所だ。ただの観光気分だったよ」
「ははっ、きみが観光してるところなんて想像もつかないよ」
けたけたと心臓のすぐ近くで笑われて、妙にくすぐったかった。
「でもすごいなあ。フランス生まれのおぼっちゃまだもんね。ハーフってそれだけで得してると思う。こんなにきれいだなんて、羨ましい」
「フランス生まれというだけで金持ちだと思うのはやめてくれないか。事実、僕の母はフランスのど田舎のど庶民だ」
「そうそう、そうだったそうだった。ごめんごめん。でも、きれいだってところは否定しないんだ」
――おいしそうなホットケーキみたい。すっごくきれい。
あのとき、無遠慮なシャッター音に驚いて振り向けば、「いししっ」と笑った彼女と目があった。頭の悪そうな例えだと思ったが、レンズに切り取られた僕の髪は、それ以来こんがりきつね色に仕上げられたホットケーキのように見えて仕方がない。大きな一眼レフを胸に提げ、背中にはローズボアのリュックを背負っていた彼女は、初対面の男においしそうだの綺麗だのと言って、再びレンズを向けた。
この国ではハーフが珍しいのか、昔からじろじろと見られることはあったけれど、いきなり写真を撮られたのは初めてだった。そして、いきなり「これ、今度の展示会に出展してもいいかな」などと言われたのも、もちろん初めてだった。
あれよあれよという間に話は進み、断っても断っても強引に話を進められた結果、僕の写真は町の小さな会場に貼り出されることになった。対象どころか佳作にも選ばれなかったけれど、彼女はとても満足そうに胸を張り、展示会の帰りに、喫茶店で安いコーヒーを奢ってくれた。
砂糖を三つも入れたことに驚く僕に、そこで初めて彼女は「そういえば、きみ、名前は」と聞いてきたのだ。僕は少し迷った。綺麗だと言われることは正直苦手だったし、名前でからかわれたことも多い。この名をつけた両親を恨んでなどいないし、むしろ誇りに思っているが、彼女のような人種に名を告げるのは抵抗があった。
「アンリ」
顎先をくすぐられてはっとする。回想に浸っていた僕を、彼女は怒るでも呆れるでもなく、どこか目を輝かせながら引き戻した。
あのときあれほど迷ったのに、結局僕は彼女に名前を教えていた。アンリ。和名では『杏里』だ。日本でもフランスでも、どちらでも通じるようにつけられた名だが、日本でアンリと言えば女性名がほとんどだ。
あのとき、彼女は何度かマフィンと一緒に僕の名を口の中で転がして、満面の笑みを浮かべた。よく似合う、とってもきれい。からかうでもなく、子供のようなまっすぐな笑顔に、少し腹が立った。懐いた猫の毛を、逆立たせてみたくなった。
そんなことを思いながら連絡先を交換したというのに、なぜか今では部屋の合鍵を交換する仲になっている。頭がずきりと痛んだ。
「今日さ、出かけようよ。車はあたしが出すから」
「僕は昨晩帰ってきたばかりなんだけど」
「知ってる」
「疲れていると言ってるんだ」
「癒してあげるって言ってるの」
ああ言えばこう言う我儘な猫は、やはり苦手だ。
フランスへ発つ前はさながら市松人形のような風貌だったのに、帰ってきたらふわふわの西洋人形のような頭になっていて、空港で驚いたのを覚えている。どうかと訊ねられたので、素直に一瞬誰か分からなかったと言ったら、思い切り足を踏まれた。
彼女はシャツの袖越しに僕の鼻を摘まみ、心臓の辺りをとんっと拳で軽く叩いて大げさに肩を竦めた。
「きみはね、腰が重すぎるの。今回向こうに帰ったのだって、あたしがお尻叩いてやっとでしょう。お墓参りくらい、きちんとしないとお母さんが可哀想よ。生まれ故郷に初めて帰るなんて親不幸にもほどがあるわ」
「帰ったんじゃなくて、行ったんだよ。あそこを故郷だなんて思ったことは一度もない」
「またそういう風に言う。確かにきみは、フランス語なんかこれっぽっちも話せないけど」
母は確かにフランス人だったが、日本にいた時期が長かったので会話はすべて日本語だった。メルシィ、くらいしか聞いたことがない。そのことをなぜか不服そうにしている彼女は、ある日フランス語のテキストを買ってきたことがある。学ぶことを断固拒否すると、ぷっくりと頬を膨らせてしまったけれど。
「まあいいや。もうひと眠りしようよ。話は起きてからでいいでしょう。おいしい朝ごはん、作ってあげる」
掠め取るようにキスをされて、反論の余地なく彼女は瞼を下ろしてしまった。勝手に人の腕を枕にして、勝手に胸に寄り添って眠る姿に、ずきずき、ずきずき、頭が痛む。どうしたものか。知らぬ間に星の浮かんでいる天井を見上げて、僕はしばし思案した。
不思議と息苦しさはなく、首を絞められるという物騒な夢のことはすっかり忘れてしまっていた。冬の寒い日、布団の中に猫が入ってくるとぽかぽかとして快適だと祖父が言っていたが、これはこういうことだろうか。だとしたら、猫も案外悪くない。好きではないけれど。
朝、目が覚めれば、彼女はもう隣にいなかった。ベッドは一人分の熱を失っていて、冷えたスリッパが足から僕の意識を揺り起こす。ダイニングにはすでにサラダと焼き立てのおいしそうなホットケーキに、見るからに甘ったるいミルクティが用意されていた。ホットケーキには蜂蜜じゃなくて、ラズベリー、オレジママレード、ブルーベリージャムが用意されている。パンケーキとホットケーキの違いが僕には分からないが、彼女がホットケーキと呼ぶのでそう認識している。
きつね色のホットケーキに、甘そうなミルクティ。合わないんじゃないかと思ったが、不思議と嫌な気はしなかった。
「おはよう。お弁当はもう作ってあるから、準備したら出かけようね」
たっぷりのブルーベリージャムを乗せて頬張ったホットケーキは案の定甘かったが、ほどよい酸味が味を引き立てる。砂糖抜きのミルクティを飲んだとき、彼女は嬉しそうに僕を見つめていた。
朝食を食べ終え、化粧をきっかり三十分で終わらせた彼女は見違えるように可愛らしくなっていた。ぱっちりとした目も、ふわふわとした髪も、ミニスカートだって申し分ない。テレビで見た、流行のスタイルを適度に取り入れている。
疲れているんだと言っても聞くはずのない彼女は――いつだって彼女は強引なのだ――、僕を車の助手席に問答無用で乗せ、しばらく町を走らせた。連れてこられた海辺の公園は水族館と隣接しており、てっきり水族館の方へ行くのかと思っていた僕には、彼女が公園に迷わず進んだとき、ちょっとした驚きを覚えた。行かないのと聞けば、行きたいのと聞かれて閉口する。
芝生の上をヒールで歩く彼女と似たような格好をした女の子が、男の腕に絡みついて水族館に消えていくのが見えた。
風がミルクティ色の髪を攫う。根元の黒髪が顕わになって、プリンでも見ている気分だった。
「――dolly bird」
無意識に呟いていたその言葉に、彼女は振り向いた。黒く縁取られた目をぱちぱちと動かして、グロスで光る唇の端を持ち上げる仕草は見慣れていたけれど、髪を掻き上げる仕草はあまり見たことがなくてどきりとする。黒髪の頃は、ポニーテールでいることがずっと多かったのだ。
「ふうん、きみ、そんな風に思ってたんだ」
一眼レフではなく、手のひらサイズの赤いデジタルカメラが僕を捉える。電子音のあと、僕はそのモニターに切り取られたのだろう。「うん、きれい」あのときと同じ表情で、彼女は言った。彼女は僕にびしっと指を突きつけて、悪戯の成功した子供のように目を輝かせる。ころころと表情の変わる様子が、いつ見ても不思議だった。どうしてここまで感情を表に出せるのだろう。僕には到底理解ができない。
「まあ、確かにあたしは馬鹿だけど。でもね、あたし、きみよりは大人だからね」
あまりに予想外の言葉に、声を失った。渇いた喉を潤すように唾液を嚥下して、たっぷりと間を開けて言う。
「心外だな。君よりも子供だなんてことがあるはずがない」
「いいえ、アンリはとっても子どもだもの。大体ね、学者なんて子どもみたいなものなのよ。社会人のくせして、一般社会を知らないでしょう。ずうっとお勉強ばっかり。ああ、もちろん、それが悪いなんてこれっぽっちも思ってないからね」
「どうだか」
「ほら、そうやってすぐに拗ねる。ひとのことdolly birdなんて洒落た呼び方するくせに、自分にはちっとも洒落っ気がないんだから」
眼鏡を奪われては、視界は途端にぼやけて歪んだ。十五センチの焦点距離は彼女の顔さえ曖昧にしてしまう。はっきりしないパーツの動きで、彼女が笑ったのが分かった。
いつも、なにか大事なことを言う前に、彼女は僕の眼鏡を外したがった。付き合うと決めたとき、破局の危機を乗り越えたとき――恋人と別れることを危機と思ったのは彼女が初めてだった――、合鍵を交換したとき、僕がフランスに行くと決めたとき。必ず彼女は僕の眼鏡を奪い、彼女よりも僅かばかり色素の薄い僕の瞳をそのまま覗き込み、視力の悪い僕でもはっきりと焦点が合う距離で見つめてくる。吐息さえ触れ合いそうなその近さに、最初は戸惑うばかりだった。今でも少し落ち着かない。特に、人目に付きそうな外ならばなおさらだ。
「『Dolly Bird』って絵本があるんだけどね」
よくもまあそんなタイトルを絵本につけたものだ。
dolly birdは、流行の服や髪形をして可愛い姿をしているが、頭が悪い女のことを差す言葉だ。今の英語圏でそう言うのかは知らないが、少なくとも、僕が向こうにいたときは口語として使われているのをたまに聞いた。
「副題が『ひとりぼっちのかいぶつ』なの。真っ黒い翼の烏天狗の女の子が、外国人の男の子と出会って、それで恋をするの。まるで人形のように可愛い鳥の女の子だから、『Dolly Bird』。その子は、片方しか翼がなかったんだけど、男の子に出会ってやっと空を飛べるようになるのよ。男の子は最初、彼女を天使と勘違いするの」
「どういった話なのか皆目見当もつかないけれど、最近の絵本は斬新だということがよく分かった」
「面白そうかな」
「さあ」
烏天狗と外国人が出会うとは、キャスティングがどうにもしっくりこない。鶴の恩返しだとかそういった雰囲気なのだろうか。今時の絵本は想像がつかない。もしかしたら、桃太郎も変わってしまっているのかもしれない。
そっけなく返すと、彼女はつまらなさそうな声を出した。海の匂いを孕んだ風がその唇を掠めていく。張り付いた髪を払ってやれば、少し機嫌を良くしたようだった。
「読んでよ」
「なにを」
「『Dolly Bird』。絵本と、児童書と、普通の小説。どれにするか迷ってるんだけどね。まずは絵本にしてみようと思って。色々試しているところ」
「ちょっと待って。ということは、君が書いたのかい」
「そうだよ。だからね、すごくびっくりしちゃった。いま、アンリがあたしのことdolly birdって呼んだから」
屈託のない笑みに頭が痛む。彼女はけっして作家ではないし、エスパーでもないはずだ。だのにいきなり突拍子もないことを言うのだから、こちらの思考がついていかない。
「僕の記憶が正しければ、君はカメラマンだったはずだけど」
「だから、表紙はこれでーす」
提げていた鞄から取り出したなにかをずいっと目の前に押し付けられ、思わずのけぞった。白が溢れて分からない。なんとか引き剥がしてまじまじと見てみると、それは正方形の絵本のようだった。表紙には大きく『Dolly Bird』の文字が踊り、その背景には写真が使われている。赤く染まり始めた空を見上げる一人の青年の後ろ姿に、心当たりがありすぎた。
「ちょっと、これ」
「引きの絵だから分からないよ、大丈夫大丈夫。これね、あたしのお気に入りなの。あ、あとで読んでね。感想ちょうだい。絶対だよ」
いつの間に撮られていたのだろう。引きたくるように絵本を回収され、僕は大きく息を吐くことしかできなかった。
なるほど、それで烏天狗と外国人か。
「まだ僕が『烏みたいにうるさい』だとか『天狗になるな』って言ったこと、根に持っているのか」
いつだったか、カメラマンとして仕事が入り始めて忙しくあちこち駆け回っていた彼女に言った台詞だ。確かに、我ながら大人気ない発言だったと反省している。けれど、それを根に持って絵本の題材にするなど、彼女の方がより幼稚ではないか。
「ああ、違う違う。そうじゃない、そうじゃないのよ、アンリ。そうじゃないの」
けらけら笑って抱き着いてくる彼女の小さな身体を抱き返すこともせず、僕は馬鹿みたいに突っ立っていた。なにが「そうじゃない」のかよく分からない。楽しそうに笑う彼女は、小さな子供にでも言い聞かせるように優しい声を出す。猫なで声だ。
「そうじゃなくてね。確かに、あたしとアンリがモデルだけど、でもね、嫌味なんかこれっぽっちも含まれてないの。そこは分かって」
見上げてくる大きな瞳は、偽りの睫毛で縁取られている。
「あたしはね、最初から羽なんかなかった。ずうっと、昔から。飛べるわけがなかったの」
当たり前だ。僕らは人間で、鳥ではない。天使や天狗のような、ファンタジーの世界の住人でもない。ごくごく当たり前の生活をするしかできない、日本に暮らすただの人間なのだ。
彼女は僕から少しだけ離れると、海を見つめながら手首のシュシュで髪を結わえた。馬の尻尾のようなそれが目の前で揺れる。羽なんかない。そう言った彼女の背は、薄っぺらかった。
「でもね、あたし、飛んでみたかった」
空を。
そんなことは無理だと分かっているけれど、誰しもが考えるある種の夢だ。不思議ではない。けれど、彼女は空だけではないのだと言った。空を飛びたいだけじゃない。比喩的な意味で、『飛びたい』のだと。
「アンリと出会って、あたしは『飛べた』んだよ」
「……意味が分からない」
「初めてだったの。自分からなにかやってみようって思ったの」
展示会に出展するのも、被写体を人間にしたのも、おはなしを書いたのも。
彼女の声は、波や風に負けてしまいそうなほど小さかったのに、はっきりと僕の耳に飛び込んできた。
「ひとりぼっちの世界で誰かと出会うって、とっても幸せなことなのよ、アンリ」
慈愛に満ちた眼差しは母のようであったが、痛みも、暗い部分も知っているであろうそれに、胸の奥の方がぞわりと撫でられた。ハンドクリームによってしっとりと潤った指先で目元をなぞられる。眼鏡はまだ返ってこない。それなのに、彼女の瞳がやけにはっきりと見えた。
「羽がなくたって飛べるんだもの。片方だけでも翼があれば、きっとどこへだって行ける。片羽同士が集まれば、一対の翼になって大空を羽ばたける。きっと、そうだよ」
風に揺れるミルクティ。
僕は黒い髪も好きだった。まっすぐで、吸い込まれてしまいそうなあの髪が、大好きだった。
「……君の発想力が、たまに怖くなる」
「未来を担うお偉い学者さまにそう言われるなんて、光栄です」
「褒めてないよ」
「Dolly Birdだもんね」
偽善だ綺麗事だと言ったところで、彼女はきっと「それがどうしたの」と笑い飛ばすだろう。
――ひとりぼっちの世界で、誰かと出会う。
ああ、そうだ。
確かに、すごく幸せなことだった。
「ねえ、」
強風に煽られて目尻の端から剥がれかけたつけまつげを気にする彼女を、僕は少しだけ強引に抱き締めてみた。薄っぺらい身体だ。彼女が驚いて声をあげたせいで、水族館へ向かうカップルの視線がこちらに向いた。どうでもいい。見たければ見ればいい。どうせ彼らも、あとで同じようなことをするのだろうから。
「――Ne me quitte jamais.」
小さなハート型のピアスが飾る耳に、そっと流し込んでみる。震えた肩が愛おしかった。抱き締めて、甘い香りのする身体を、頭から食べてしまいたくなった。
頬を染めて彼女が僕を睨む。
「……フランス語、話せないんじゃなかったの」
「いままで僕がどこに行っていたと思っているんだい」
少しも勉強してなかったのだと思っていたのなら、やはり彼女はおばかさんだ。
ことりことりと音を立てる心臓と、あまりの狂おしさに、首が締められているような気がした。
――Dolly Bird.
どうかずっと、離れないでいて。