その75
別れたはずのカレシが後ろからついて来ているのに気がついたのは、もう少しで家に着くというところだった。後ろから聞こえる足音にふと振り向くと、それに合わせて少し離れたところに恭介が立ち止まるのが見えた。おそらく家まで送るつもりなのだろう。カレシのギムというわけである。結子はちょっとの間、細めた目で恭介を見たが、彼は立ち去ろうとはしなかった。
――好きにすればいい。
結子はそのまま何も言わず家路をたどると、門前で立ち止まって、しかし振り向かず、門をくぐった。家に入ると、母からの「お帰り」の声を無視する格好で、二階へと階段を駆け昇り、部屋のドアを開けると乱暴に閉めて、ベッドにダイブする。
その胸に、恭介に対してこれまでに感じたことのない気持ちが渦巻いている。
それが苛立ちなのだから、なんだかなあと思わずにいられない結子は、いつの間にか眠りについていた。
どのくらい眠ったのか、携帯電話のコール音で結子は目を覚ました。
窓から見える景色は、すっかり夜の色である。
誰とも話をしたくない気分だった結子は、しばらくの間コール音を無視していたが、一度切れた後に、もう一度かかるという執拗さを見せたので、ため息をついて携帯を取った。
「誰?」
ディスプレイを見もせずに、ぶっきらぼうに言うと、
「わたしの名前、登録してないの?」
やけに可愛い声がした。
「アスカ?」
「そう」
「何の用?」
電話の向こう側から、ふう、という吐息が聞こえた。
「……あなたには協力者に対して、報告をしようという気持ちは無いの?」
明日香が、今日の成果を話せと言っている。
結子は公平な女の子である。確かに彼女にはその権利があると認めた。
「……キョウスケと喧嘩した」
「喧嘩?」
「そう」
明日香は舌打ちした。
「ちょっと! よくないよ、アスカ、そういうの」
「したくもなるでしょ。人の好意を無にする人ね、あなたは」
「もしもーし。聞いてましたか? 喧嘩したって言ったんだよ。なんかわたしが悪いってことになってるけど」
「本田くんが怒るところなんて想像できない。あなたが怒らせたんでしょ。それか、一方的にキレたか」
明日香は決めつけたように言うと、
「折角時間を使って、服と靴を選んであげたのに、無駄だったってわけね」
容赦なく続けた。
「……服は可愛いって褒められたから、全くの無駄ってわけじゃあ」
「……それで?」
「ん?」
「……したの?」
「そしたら、どうして喧嘩になるのよ」
「知らないわよ、そんなこと」
知らないなら教えてやろう、と結子は、デートの顛末を洗いざらい話して聞かせた。
聞き終わった明日香から何らか慰めの言葉を得られるなんてことを期待するほど結子は厚かましくはなかったけれど、
「バカじゃないの」
この言葉はさすがにひどすぎるだろう。
「アスカ、わたしのこと嫌いだからってそれは無いでしょ」
「嫌いだけど、それは今の言葉とは関係無い」
「ウソだ」
「嘘じゃないわ。バカだと思ったからバカだって言っただけだよ。本田くんは別に何も悪くないでしょ」
「悪いでしょ! キス断ってんだよ!」
「したくないなら断るだけでしょ。それにそもそもそんな流れでキスしたい気になるわけないじゃん。あなた、頭おかしいんじゃないの?」
「流れは関係ない!」
「あなたには関係無くても、本田くんにはあったんでしょ。あなた、自分のことしか考えて無いの?」
結子は頭が沸騰するのを覚えた。こっちは、ファーストキスを断られているのだ。明日香だって女の子。自分に置き換えて考えてみればそれがどのくらいのショックか分かるハズではないか。そう言ったあと、
「それと! あなた、あなたって言うのやめてよね。わたしのことは、ユイちゃんって呼んで!」
言ったところ、
「嫌よ」
素っ気ない答えを得て、電話は切れた。
何だよ、と思って、思わず壁に投げつけたくなった携帯電話を、意志の力を総動員して、机の上に置いた。明日香に話したことで気分は一層悪くなった。話せば気が晴れるというのは、相手次第である、と一つ賢くなった結子は、とんとん、というノックの音を聞いた。
「ユイコ、晩ご飯は?」
暗がりの中に母のシルエットがある。
食欲など無い。
いらない、と答えた結子は、
「何を言ってるの? ユイコが作ってくれるんでしょ」
慮外の言葉を得た。
結子は思い出した。
家事を引き受けるという条件で、今しがた皺になるのも気にしていないワンピースと、玄関にぞんざいに放り出された靴を買ってもらったのだということを。
「そうだったね」
結子はため息をついてベッドを立った。部屋着に着替えてから階下へと降りる。こんな気分のときに夕食を作らないといけないとは。家庭の主婦は、何か悲しいことがあったときでも子どもや夫のために夕食を作らないといけないんだなあ、とその大変さに想いを馳せた。
「この頃、何か落ち込むことあった? お母さん」
キッチンで母に訊くと、ダイニングテーブルについた母は、ちょっと考える振りをして、
「そうねえ。何も無いわねえ」
言った。
「いいなあ」
「正しく生きている人にはね、落ち込むことなんてないのよ」
母が言う。
至言であろう。
しかし、そうすると、結子は正しく生きていないということになってしまうが――
「失敗したの?」と母。
「え?」
「今日のこと」
むう、と結子は口をつぐんだ。
中学も三年生にもなれば、母親に恋の顛末を語ることなどできない。
「察してよ」
結子が言うと、
「でもね、ユイちゃん、ママもユイちゃんと同じ頃に、ママのお母さん、つまりおばあちゃんからね、そういうことを訊かれたのよ」
との答え。
いやいや、それならよっぽど今の自分の気持ちが分かるはずではないかと思った結子が、
「おばあちゃんに対してどう思った、そのとき?」
もしかして自分が母に抱く感情を、母は祖母に抱いていなかったのかもしれないと確かめてみると、
「うざったいなあって」
同じだった。
「そう思うなら、どうして同じことを自分の娘にするの?」
「だって、自分だけされただけじゃあ、悔しいじゃないの」
「…………」
「だから、ユイちゃんも娘ができたら、その子に言ってあげなさい」
「……ご飯作るね」
「ママ、ビーフストロガノフの気分だってこと言ったっけ?」
「言ったよ、今」
「よかった」
結子は、夕飯のために鮭を焼いた。
魚が焼けるにおいを嗅いでいると、余計みじめな気分になってきて、ビーフストロガノフとまではいかずとも、何かしらエレガントな洋食にすれば良かったと思ったが、いざ食べてみると、焼き鮭は美味だった。
結子はご飯をモリモリ食べた。お代わりまでするという、およそ乙女がしてはいけないことをしてしまったが、そのことで落ち込んだりはしなかった。もちろん、それは、他に落ち込めることがあったからである。