その74
その怒りの源は、今しがたの恭介の「謝罪キス」という言葉でもあったけれど、それは根本的なものではない。より深くにあるものは、
「女の子から誘ってるのにどうしてしないのか」
というそのことだった。
いやしくも男子なら、女の子が決意を固めたことを受け止めるべきだろう。しかも、そこいらの男子じゃない。本田恭介なら、自分が付き合っている男子なら、当然そうすべきである、という強い思いが結子にはある。
それをしない。臆病な気持ちからできないのならまだいい。自分の見込み違いだったと思えばいいだけの話である。そうじゃなくて、恭介はできるけどしないのだ。何かしらのこだわりがあって、できるけどあえてしない。その選択が不快だった。
――辱められた。
そう明確に言葉にできたわけじゃないけれど、結子は、純粋な覚悟に汚水を浴びせられたような気がした。
「それだけだと思えないって?」
結子は確認するように訊いた。彼女としては、これはチャンスを与えたつもりだった。
恭介は静かに首を縦にした。
その瞬間、結子は泣きたくなってきた。
結子は常々、女の涙というものには否定的な評価を下してきた。少女漫画やドラマではしょっちゅうヒロインが泣いているけれど、流した涙と引き換えにして得られた未来などしみったれている。それこそ、その涙が消えるように、儚く消えていってしまう程度のものだろう。その点、男の涙にはそういう同情を誘うような色がなくて気持ちがいい。しかし、今現在、結子は思いきり泣きたかった。それらのヒロインのようにさめざめと涙を流したい気分だった。
それをどうにか押さえられた自分を褒めてよいかどうか微妙なところである、と結子は後から思う。恭介の前で格好はついたけど、泣いていればストレスの発散になったかもしれない。
結子はぐっとまぶたに力を入れるようにして涙をとどめ、くるりとその身を翻した。
「ユイコ」
呼ばれた声に答える気の無い結子はそのまま広場を横切ろうと歩き出すと、すぐに後ろから腕を捕まれた。
「放して」
振り向かずに言う結子にかけられた言葉は、
「傘、忘れてるぞ」
色気の「い」の字もないものである。
振り返った結子は、恭介の手から傘をひったくった。恭介は、結子の手を握っていない方の手に、自分の傘と結子の傘を持つという無理をしていたので、結子が自分の傘を取った表紙に、自分の傘を落とした。それを拾わずに、恭介が言う。
「好きだ、ユイコ」
その目はまるでこの世界に結子一人しか存在しないかのようにまっすぐである。
結子の胸は、どきん、と大きく鳴ったが、
「……放して」
その動悸を抑えるように、結子はことさらに静かな声を出した。
彼の言葉は素直に嬉しかったけれど、行動がその言葉を裏切っている。言葉で行動を取り繕うことができると考えているのであれば、それはやはりバカにした話だ、と結子は思っている。
「でも、好きだからしたくないんだよ」
恭介が続ける。
「どんなリクツよ……ううん、リクツなんか関係ない!」
「オレの話を聞くんだ、ユイコ」
「聞いてどうなるの? 分かってないよ、キョウスケは」
「分かってるよ!」
恭介の声によって、先ほどから二人の争いに気づき始めていた周囲の客はいっそう、注意するようになった。しかし、結子は周りのことに気を使うことができるほど冷静ではなかった。
「分かってないよ、キョウスケは。何も分かってない」
「ただ、すればいいのか?」
「……え?」
「ただ、すればいいのかって聞いたんだよ」
恭介の声には悲しみの色があって、
「オレにとって結子は特別なんだ。特別な人とすることは全て特別でありたいんだよ。だから慎重になる。それっていけないことか?」
続けられた調子には訴えるような色が重ねられた。
それを聞いた結子は、よっぽど、そんなことないよ、と答えたい気持ちになったけれど、
「……聞こえのいい言い訳だね」
口をついたのは否定の言葉だった。
恭介は、ハッと息をのんだようである。
結子は、彼の手が自分の腕から離れるのを感じた。
押し黙った恭介を置いて、結子は再び身を翻した。
恭介の言うことは頭では分かっているつもりだった。正論だし、大切に考えてくれているということも分かる。それでもなお、ファーストキスを断られたという事実が、結子の胸を押し潰していた。それはキス云々ということを超えて、覚悟をもってなしたことを受け入れてもらえなかったというそのことである。
恭介はすぐに後ろからついてきたが、結子に話しかけようとしなかった。
結子も黙っていた。
二人で水族館の敷地を出て、駅に行き、電車に乗って、ホームタウンに戻る。
その間、一言もしゃべらずに、ついに目さえ合わせないまま、結子は恭介と別れた。