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73/84

その73

 立ち尽くしていた時間は、そう長くない。

 すぐに結子はその場に膝をついた。

 買ったばかりのワンピースが汚れるのにも構っていられない。結子がひざまづいた所は通路であって、見物を終えて帰ろうとする客の通行の邪魔になっていたが、そんなことにも構っていられなかった。恭介の顔を見上げる格好を作ってから、ごめんなさい、と頭を下げる。

 結子はすぐさま、ぐいっと両の二の腕を取られて、立ち上がらせられた。

「そんなことまですることないだろ」

 恭介は苦笑している。

 穏やかな声だ。

 しかし、その穏やかさが、返って結子には辛かった。

 思いきり罵倒してもらった方がいくらかマシである。恭介がそんなことをするとは思えないけれど。そうして、もしも罵りの声をかけられたとしても、それはいくらかマシというそれだけのことであって、それ以上のものではない。

 カレシの名前を他の男の名前と呼び間違える行為はどのくらいの罪に値するだろうと考えれば、それはやはり逆のことをされたときのことを想像してみれば分かりやすい。結子は息を呑んだ。到底、想像なんかできそうにない。

 しかも、である。

――これが初めて……?

 と疑う気持ちが結子には濃厚だった。

 初めてなのだろうか。

 仮にそうでなかったとしたら。

 これまでもしばしばあったとしたら。

 そうして、それに恭介が何も言わず、耐えていたとしたら。

 結子はほとんど叫び出したいくらいの気持ちだった。

「ユイコ、通行の邪魔になってるから」

 恭介の声はあくまで静かである。

 結子は、彼の手に引かれて、イルカプールの客席を離れた。客席の屋根の下から強い日の下に出たわけだけれど、明るさは感じたが暑さは感じない。それどころか、肌がぞわぞわとして寒いくらいだった。「オレ、気にしてないからさ」

 隣から聞こえているはずの恭介の声がやけに遠い。

――気にしてない……?

 結子は恭介を見ることができない。

 彼の言っていることは明確に嘘である。他の男の名前と間違われてそれを気にしていないとしたら、それはそこまで結子のことを想っていないということになるけれど、彼が自分のことをどのくらい想ってくれているか、結子は理解していた。とすれば、今の恭介のセリフは結子を思いやったものということになって、

――こんなときまで……。

 思いやらせてしまう自分がひどく幼く思えた。

 二人は広場のようなところに来ていた。清々と開けた場所で、海が見える。

 結子は足を止めた。手をつないでいる恭介を止めるようにして、彼に向き直る。

「……ユイコ?」

 結子は持っていた傘を手から放した。その傘がパタンと地面に倒れる音を合図にするようにして、

「キスして、キョウスケ」

 言った。

 え、と恭介が意表を衝かれたような顔をするのを見てから、結子は目をつぶった。闇の世界の中で、今しがたの自分の言葉がするりと喉から出たことに対して不思議に思わない自分が不思議だった。結子は心もち顎先を上げるようにした。そうして、こんなことはいつでも行えたのだと、自分の愚かさを知る思いだった。

 恭介が息をつくのが聞こえた。勇気を溜めているのだろうか。結子は待った。すでにこちらからのアクションは終わったのである。今度は向こうのターンのはずだ。

「ユイコ……」

 恭介の両手が肩に置かれるのが分かった。

 結子はつぶっている目に力を入れた。

 いよいよなのだろうか、と思ったとき、肩が軽く揺すぶられるのを感じた。そうして、

「目を開けて」

 という柔らかな声が続いた。

 結子は、ふるふると首を横に振った。サイは投げられたのである。唇に感じるべき感触を得るまで、目を開けることなどできない。

「開けるんだ、ユイコ」

 今度は固い声だった。結子はどきりとした。未だかつてそういう声を恭介から聞いたことがない。明確に非難を込めた声である。しかし、結子はそれでも目を開かなかった。今の自分の行為は正しいという絶対の自信があって、恭介は為すべきことを為さなければならないという確信がある。

 そのために断固目を開かなかった結子だったが、肩口に置かれた手が頬に触れて、その手が頬をつねるようにしたときは、開けざるを得なかった。けして彼の要求に屈したわけではない。怒りの目を向けるためである。

 結子の険悪な視線を、恭介も強い目で受け止めている。

「初めてなんだ」

 恭介が言った。

「わたしもそうだよ」

 結子が返す。

「じゃあ、どうしてこうなるんだよ。おかしいだろ」

「何もおかしくないと思う。ロケーションだって最高じゃん、海が見えるし」

「謝罪のキスなんか嬉しがると思ってるのか?」

 結子はその言葉にカッとした。

「謝罪? 謝罪って言ったの、今?」

 手のひらを自分の胸に向けて、結子が続ける。

「わたしが謝罪なんかでキスしたいって、そんなことを考えている子だと思うの!? 好きだからでしょ! 好きだからキスしたいって思ってるだけじゃんか! どうしてしてくれないのよ!」

「とてもそれだけとは思えないからだよ」

 恭介は素っ気なく言った。

 その素っ気なさは結子にとっては相当にショックだったけれど、今は怒りのエネルギーの方が大きい。

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