その69
着いた駅の空は爽やかな色をしていた。
プラットフォームに降り立った結子は、
――まるでわたしの心みたいだわ。
と厚かましいことを考えた。
「傘、邪魔になっちゃうな」
隣を歩きながら恭介が言う。
結子は、とんでもない、と首を横に振った。
「このカサブレードがあれば、万が一のときに対処することができるわ。これはカサディアンの魂よ」
しゃきん、と傘の先を虚空に向けながら言う。
恭介は少し思案したのち、
「その『カサディアン』ってなに? 何かのヒーロー?」
突っ込むことに決めてくれたようである。優しい人だなあ、と思った結子は、
「適当に想像してください。……うーん、ホント、邪魔だな、傘」
その優しさをいとも簡単に裏切った。
駅構内を出る前に、結子は、「キョウスケさま、しばしお時間をくださいませ。失礼して、ユイコはお化粧を直して参ります」とバカ丁寧な口調で言ってムダにカレシをびびらせたあと、トイレに入った。出てくるときに鏡の中の自分の顔をチェックして、目やにや青のり的なものが無いか入念に確認したあと、にこりと笑顔を作ってみる。鏡の中の女の子がスマイルを返す。それを、イマイチだなあ、と思った結子は、鏡に向かって、
「次に会う時までにもっと練習しておくよーに」
と言い捨てて、トイレを後にした。
恭介と合流して駅構内を出た結子は、傘を片手にしたまま、うーん、と伸びをしてみた。
こちらでも少し雨が降っていたようで地面は濡れているものの、見上げたブルースカイには雲一つ浮かんでいない。雨に洗われた空気が爽やかである。
こちらの駅前は、結子の住む街より華やかな作りである。大きなコンプレックスビルがいくつか見えて、ちょっと都会に来た気がする。結子は心が浮き立つのを覚えた。そのウキウキした気持ちで、通行人の姿を見てひとりの女の子に目を向けると、
「ねえ、キョウスケ。あの子、可愛くない?」
言って隣を見た。恭介は答えたくないように口を閉じている。結子がしつこく、「ほら、あの子、あの子」と言うと、恭介は、
「どうせ、『可愛い』って言ったら、『デート中に他の女の子のことを褒めるなんて!』とか言うつもりだろう」
と静かに答えた。図星を差された結子は、自分の頭をこつんとすると、てへ、と舌を出して見せた。恭介は、結子のその仕種を涼やかに受け流すと、
「バス停はあっちだね」
と言って先に立った。結子は、「今のは怒っていいとこだったのに、さすがキョウスケだなあ」と感心すると、その後に従った。
バスは発車準備を整えようとしていた。水族館行きの特別便である。ここから十分くらいで水族館に到着する予定。バスの中は混んでいたけれど、まだ座れる席があって、それだけではなく恭介と隣同士に席が取れた結子は、これも日頃の自分の行いの良さのせいではないだろうか、と近頃の行動を見直してみたがそれらしいものが見つからなかったので、過去は振り返らないことにした。
バスはもう少し乗客を待つようである。
窓際の席に座った結子は、夏休みから塾に通わせられそうになりそうだということを、涙ながらに隣の恭介に語った。
「どこの塾?」と恭介。
「駅前の『鉄血ゼミナール』」
恭介は、え、と驚いた顔をすると、
「それ、オレも通う塾だよ」
と、まさかの答えが返ってきた。
「あれ、でもキョウスケって今もう塾に通ってるでしょ?」
「そうなんだけど、親がさ、『鉄血ゼミ』の評判をどこかから聞いてきたらしくて、夏期講習を受けてみて、いいようだったら、今の塾からそっちに変えろって言ってるんだ」
結子は、ほお、と小さく息をついた
何という幸運だろう。これでつまらない夏期講習が楽しみに早変わりである。そんなことを考えている時点で既にして受験生失格なわけであるが、結子は気にしない。
「わたしは受験生である前に、ひとりの人間でありたいんです」
胸を張って言うと、
「いや、今年は受験生であることを優先した方がいいと思う」
もっともな答えが返ってきたので、結子は話題を変えた。
「そう言えば、キョウスケのお母様ってどんな人なの?」
「どうって……口うるさい普通の母親だと思うけど」
「朝ご飯作ってくれる?」
「そりゃまあ、そのくらいはするよ」
「ステキ! いいお母様ね」
結子は当然の流れとして、恭介から「今度ウチの親に会ってくれる?」というお誘いの言葉が来るのを期待して、「もちろんですわ」と答えるために、唇を、「も」の発音がしやすいようきゅっと引き結んで準備していたが、話はそこで打ち切られてしまった。
肩透かしを食った少女を乗せて、バスは出発する。
親しみのない街の風景を車窓越しに見てルンルン気分でいた結子が、ふとカレシの方に目を向けると、恭介は前を向いていた。その目がどこか遠くの方を見ているようで、結子は、
「別れたカノジョのことでも考えているの?」
と言ってみようかとも思ったが、さすがにそういうことは冗談でも口にして良いことではない、ということが分かるくらいの良識はあった。
結子は恭介からそっと目を離すと、窓の外の景色を見るともなく見やった。