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68/84

その68

 しんと静まり返った車両内に、男の声の残響。そのあといっそう大きくなる赤ちゃんの泣き声。赤ちゃんをあやそうとする母親の声はまだ若い。その母親に向かって、再び、男の罵声が飛ぶ。早く黙らせるように、と急かしているようだ。

 赤ちゃんはなかなか泣きやまない。しかし、それは当然だろう。お母さんのお腹の中という絶対安全領域から何の因果かこんな浮き世に無情にも放り出されたのである。結子だってたまに泣きたくなるのだ。加えて、赤ちゃんにはそもそも泣くことくらいしか他にやることも無い。その辺りの事情を全く斟酌しんしゃくせずに、例の男は舌打ちを繰り返し、足を床に打ち付けて、イライラをアピールしている。結子の席からは、男の姿がちらりとだけ見えた。後ろ姿なので顔はよく分からないが、スーツ姿のようである。

 こういうとき、周囲の誰も、まあまあと、苛立つ男をなだめたり、母親に声をかけてあげたりしないのは、関わり合いを面倒くさがっているのでなければ、「確かにあいつの言う通りだ。赤ん坊の声はうるさい。どっか行ってくれないかな」と思っていることになって、いっそう情けないことになる。

 結子はすっかり眠気が飛んでしまった目をパチリと開くと、席を立った。恭介が、「どうした?」と怪訝な目を向けてくるのに対して、

「ちょっと待ってて」

 と言い置いたまま、通路を歩く。そうして、赤ちゃんが自己主張をしている席まで行くと、「大丈夫ですか」と、その母親に声をかけた。赤ちゃんを抱いたまま、え、と振り向く母親。その顔を見た途端、結子はギョッとした。

 つけ睫毛とアイラインを使って瞳を大きく引き立たせた顔に、どこの貴族令嬢だと突っ込みたいような芸術的なクルクルロール頭。年は二十歳くらいのようである。それ以上だとしても大きくは超えていないだろう。ヤンママというやつである。彼女のその何とも形容のしがたいメイクを見て、赤ちゃんの泣く理由が分かった気がした。

 結子は小さく息を吸って、気を取り直した。独創的なメイクアップをしているとしても彼女がしょうもない母親であるという根拠にはならないし、そもそも赤ちゃんに罪は無い。聞くと、六カ月であるという。結子が、おむつとミルクについて訊いてみたところ、母親は話しかけられたことでちょっとホッとしたような顔を横に振ってみせた。そのどちらでもないらしい。いよいよ結子は、

――大好きなママにそのメイクをやめてもらいたくて泣いて訴えているのかもしれない。

 と確信を深めたけれど、それについては口に出さずに、きょろきょろと辺りを見回した。目当てのものが見つからないので、自分の座席に戻ろうとしたところ、いつの間にかすぐ近くに恭介がいるのが分かって、彼に、

「さっきチョコが入ってたレジ袋持ってきて」

 と言って、取ってきてもらった。何に使うのか、などということをいちいち聞かずに、恭介はすぐレジ袋を持ってきてくれた。結子は、受け取ったレジ袋を赤ちゃんの耳元に寄せると、それでもってガシャガシャと音を立てた。不審げにそれを見るおめめパッチリママに構わずに、しばらくそれを続けていたところ、まるで魔法のように、これまで激しく泣いていた赤ちゃんが泣きやみ始め、ついにはスヤスヤと眠り始めた。

 呆気に取られるママに、結子は、

「このガシャガシャは、お母さんのお腹にいたときの音と似ていて、赤ちゃんが安心するらしいですよ」

 と魔法の解説をしてから、レジ袋をプレゼントした。ママは、安心したように息をつくと、「ありがとう」と言って頭を下げた。意外に礼儀は心得ているようだ、と思ってしまった結子は、自分の偏見を素直に認めた。

 結子は離れ際に、近くに座っていた例の男に向かって、

「おじさんだって三十年くらい前まではこうやってビービー泣いて、周りをうるさがらせてたんだから。自分のことを棚に上げるのはやめなさい」

 よほど注意してやろうかと思ったが、その声で赤ちゃんが起きてしまうのもつまらないし、おっさんを教育してやる義理など一ミリたりとも無いのだから、やめておいた。

 恭介と一緒に結子は席に戻った。

 車両内は穏やかな静けさに包まれた。

 前を見ると、恭介が感心したような顔をしている。結子は、

「前にお母さんに聞いたことあるの。弟で試してたから実証済みだしね」

 そう言ってから、

「絶対、今、『所帯じみた女だなあ、引くわ~』とか思ってるでしょ?」

 細めた目でじいっと見て訊くと、恭介は虚をつかれたような顔をして、

「そんなこと思ってないよ」

 慌てて言った。それから、

「凄いな、ユイコは」

 続けていう。結子は、いやいや、と手を振って、

「凄いのはお母さんよ。わたしは教わったことをやっただけだから」

 謙遜でもなくそう言うと、恭介はゆっくりと首を振った。

「違うよ。赤ちゃんが泣きやんだことが凄いんじゃない。誰も助けようとしなかったなかで、あの赤ちゃんのお母さんを助けにいったそのことだよ。オレ、ユイコのそういうところが好きなんだ」

 真正面からそんなことを言われたので、結子は面食らった。唐突に凄いことを言い出す人である。結子は、何と答えて良いのか分からず、「あ、ありがとうございます」というぎこちないお礼の言葉しか出て来ない自分を不甲斐なく感じた。もっと可愛い応答ができればいいのに。

 その後は何事も無く電車は走り続け、やがて目的の駅へと到着した。

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