その64
手持ちぶさたを解消するため、結子は口を洗った後に、キッチンに立って夕食の下ごしらえを始めた。服を買うためにもらったお小遣いのお返しでもある。母はクロスワードパズルに飽きたのか、リビングで優雅に一世代前に流行っていた懐かしの音楽を聞きながら、お茶している。父と弟の姿がさっきから見えなかったが、二人は男の友情を温めるべく、公園にキャッチボールに行っているとのことだった。
「ユイちゃんが構ってあげないから、パパ寂しがってるわよ」
母が笑いながらそんなことを言ってきたので、父は誰の旦那なのかということを、結子は思い出させてやった。
「それと、もうパパ、ママっていう呼び方いい加減やめようよ。恥ずかしいじゃん。わたしもうそんな風に呼んでないし。ていうか、小学校に入ったときくらいから呼んでないからね」
「ママって呼ばれても恥ずかしくない母親でいたいっていうこの親心が分かんないかなー」
「『親心』っていうのは、子どもを想う親の気持ちってことでしょ。言葉の使い方間違ってるよ、お母さん」
「いつからそんなに可愛くなくなったの、ユイちゃんは?」
母と娘の素晴らしいコミュニケーションを取りながら、夕飯の準備を終えた結子は、まだ四時過ぎであることに愕然とした。むさ吉をキスの練習台にしてからまだ一時間しか経っていないぞ、こうなったら夕食後のデザートでも作ってやろうかと思ったが、あいにく材料が無い。
「ママって呼ばれたかったら、お菓子の材料は常に常備しておこうよ、お母さん」
「ユイちゃん。『常備』っていうのは『常に準備しておく』ことだから、『常に常備』っていう表現は、同じ言葉を二回重ねていることになるのよ。『頭痛が痛い』みたいな」
「お母さんはいつからそんなに可愛くなくなったの?」
「可愛かったのはほんの一時期よ。ママはすぐに『可愛い』じゃなくて、『綺麗』になったから」
結子は家を出た。夏休みの間、通うことになる塾でも見に行こうと思ったのである。空は薄曇りで、風は無く、ぶらぶらするのにちょうどよい。結子はお隣の大和の家を通り過ぎざまに、彼の部屋をちらりと見上げた。こういう何もすることのないつれづれには、よく大和に電話をかけたものだった。畏れ多くもクイーン・ユイコのお暇つぶしの相手として選んでやっていたわけである。あんまり感謝はされなかったけれど、嫌な顔をされたこともなかった。
それを、恭介と付き合い始める中二の冬までやっていたのだった。今から思えば、小学校の低学年くらいであればまだしも、中学生くらいの男女が、公園で仲良くバドミントンに打ち興じていたりなどすれば、それはもう付き合っていると見られてもおかしくない。今はもうそれぞれに付き合う人ができて、そんなこともできなくなってしまった。枝に引っかかったシャトルを取りに一緒に木に登ることももう無い。これからも無いだろう。それはどちらかといえば悲しい。
――どちらかと言えば、だけどね。
結子は自分自身に釘を刺すように心の中でつぶやいた。
塾は駅前にある。
今日は土曜日、駅前の繁華街はこれから賑わいを見せ始める。
結子は塾の前に立った。持ちビルだろうか、三階建ての小奇麗な建物である。窓を通して中の様子が少し覗けるようになっていて、土曜日だというのに勉強している感心な中学生の姿が見えた。夏期講座に通わせる、と母は言っていたが、それだけではなくおそらく夏休み以降もなし崩し的に通わせられることになるのではないだろうか、と結子は疑っていた。そうして、その母の判断はおそらく正しい、とも認めていた。悔しいけれど。なにせ放っておけばいつまでも勉強しないことは明らかである。まだどこの高校に行くのかさえ結子は決めていなかった。
――キョウスケが行く高校をわたしも目指せばいいのかな……。
恭介が狙っているのは、中堅より少し上の高校だった。今のまま勉強すれば、彼は特に問題なく合格できるようだ。一方、結子の方は、今の成績ではキツい。本気で恭介と同じ学校に行きたいと思うのなら、夏休みなど全て返上して、プールも夏祭りも花火も捨て、勉強に打ち込まなければならない。
結子は頭がクラクラしてきた。
勉強する自身の姿を想い浮かべたからではない。行ける行けないは別にしても、結子には、どうしても恭介と同じ高校に行きたいという気持ちが無いことに気がついたからである。高校が違っても別に構わない。それは一面で高校が違っても二人の仲は変わらないという信頼の現れであるとも言えるけれど、反面で、二人の未来を描く気持ちがないということになりはしないか。それはすなわち、恭介との仲を軽く考えているということになりはしないだろうか。
結子は、塾に背を向けた。
風が出てきたようである。
結子はパーカーのフードをかぶると、家路をたどることにした。