その60
倒れた結子がまず初めに確認したのは、大和のことだった。チャリは三人のところに突っ込んで来たのである。
――ヤマトは……?
素早く目を走らせた結子は、彼が無事であるのを見てホッとした。普通に立っている。それから、自分の身よりもまずクサレ縁の子を心配するこの叔美を誰かに気がついて欲しいものだとつらつらと思った。
「大丈夫か?」
大和の声が聞こえた。しかし、それは結子にかけられたものではない。大和は自分の腕の中にいる少女に、落ちついた口調で言葉をかけていた。どうやら、自転車が突っ込んできたとき、彼は咄嗟に明日香をかばったらしい。二人の女の子を同時に守る甲斐性は無いので、カノジョを優先して、クサレ縁の方は突き飛ばして済ませたわけだ。ナイス判断!
結子は、突き飛ばされた拍子に取り落とした紙袋を、街路にしゃがんだまま拾い上げると中身を確認した。ちょっと落としただけである。中身に被害はなかった。結子は胸をなで下ろした。今日一日の成果が、こんなハプニングで台無しになっては悔やんでも悔やみ切れない。
暴走自転車は、ひき逃げ――実際には誰もひかれていないので、ひき逃げ未遂か?――して、そのまま去っていったようだ。影も形も見えない。あれだけまともに突っ込んで来てまさか気がつかなかったということは無いだろうから、バックレたのであろう。結子がその卑怯な振る舞いに対して、腹立たしく思っていると、
「大丈夫?」
すっと差し出された手は女の子の細さだった。見上げた結子の目に、明日香の顔が映る。カレシからその身を盾にして守ってもらい、そのカレシはクサレ縁の子を突き飛ばした。図らずも、カレシの本当の気持ちを知ることができて、さぞや得意げな顔をしているだろうと思った結子だったが、意に反し、明日香の目は怒りの色を含んでいた。
――なにを怒ってんだろ?
明日香の手を取って立ち上がった結子は首を傾げた。しかし、大した興味があるわけでもないし、もう別れようとしているしで、気にしないことにした。
「怪我ないよな、ユイコ?」
大和が確信のある口調で言ってきたので、突き飛ばしておいてそういう言い方はないだろうと思った結子だったが、明日香の前で言い争いをしたくないのでぐっと抑えた。
「モチロン。全然平気よ。どうせだったらもっと強く押してもらっても良かったくらい」
「だよな」
――そんなわけあるかっ!
そう思った結子だったが、大和の判断が適切であったことは認めざるを得ないので、再び我慢した。しかし、三度目の忍耐ができるかどうかは自信が無かったので、早いとここの場を去った方が良さそうだと考えた。
「じゃあ、そういうことで。今日はありがとうね、アスカ」
せめてもの腹立ちまぎれに大和には声をかけないで背を見せるというちょっと子どもじみた振る舞いをした結子が街路を歩いていくと、少ししてタッタッとリズミカルな音がして、隣に現れたのが別れたばかりの明日香だった。
「どうしたの?」
結子は不審な目を向けた。
「家まで送ってく」
明日香はぶすっとした顔で答えると、
「もしかしたら家に帰るまでに何か後遺症が出るかもしれないから」
訳の分からないことを言い出した。
「後遺症って……お尻を打っただけよ。頭を打ったわけじゃないわ」
「それでも何かあるかもしれない。お尻を打ったショックで起こる何かしらの症状が。だから送ってく。帰り道で死んだりしたら寝ざめが悪いから」
「えっ、死ぬほどの症状なの?」
「可能性の問題」
結子は、視線を巡らせて大和を見た。大和は先ほど別れたところから一歩も動いていないようである。カノジョがおかしなことを言い出しているというのに、能天気な様子で手など振ってきたりしている。
「ヤマトはどうするの?」
「……置いてく」
それで結子はピンと来た。明日香は何かしら結子に話があるのだ。カレシとラブラブできる機会をうっちゃってまでのお話とは楽しい話になりそうだ、と結子は身を震わせた。
「早速なにかしらの症状が現れたみたい。じゃあ、お願いしますか」
そう言って、結子は歩き出した。隣に明日香が並ぶ。空は少し曇ってきたようで、暑さがやわらぎ、歩くのにちょうど良い気温になっていた。
結子は街路を抜けて、ちょっと寂れた大通りに戻ると、そのまま通り沿いに足を進めて駅前広場に戻った。広場は駅を利用する人で溢れている。アマチュアロックバンドが広場の隅にあるステージで演奏していていつもより賑やかだった。
駅を横に見ながら駅前広場を抜けても、明日香は無言だった。黙々と歩き続けている。結子も何も話さない。女の子が二人そろえば楽しくおしゃべりするのが普通であるのに、結子と明日香の周りには静けさが漂っていた。その静寂は、ついに結子の家のすぐそばまで続いた。
結子は今日の感謝の意を込めてこちらから話を促そうかと決心しかけたとき、
「わたし、あなたには負けないから」
闘志を秘めた声が隣から上がった。
結子は立ち止まって明日香を見た。
しめりを帯びた風が、明日香の黒髪を揺らした。