その54
ついに学校に着くまでの間、結子は恭介とほとんど言葉を交わさなかった。
待ち合わせの公園から学校までの時間、いつもなら、まるで瞬間移動でもしたのかと錯覚するほど短く感じていたものだが、今日はやけに長かった。学校は遥かかなたにあって、歩いても歩いても全然到達しないような感覚である。
二人がわずかに交わした言葉は、
「今日も暑くなりそうね」
「そうだね」
という、まるで数十年連れ添って、話す話題が完全に底をついた熟年夫婦がするようなおざなりな会話だった。恭介は自分からぺちゃくちゃとおしゃべりするようなタイプではないので、こういうときはこちらから話しかけなければいけないと結子は思いはしたのだが、うまく言葉が出てこなかった。
――気まずいなあ……。
それもこれも自分のせいであると思えば、カレシと楽しくお話できないというこの心理的ストレスも当然の罰であるように思われた。
学校に着いた結子は、自分のクラスの前で恭介と別れた。別れ際、
「今日は一緒に帰ろうね」
と言うのが精一杯の結子は、「じゃあ、下駄箱のところで」と恭介からOKの返事を貰ってホッとしてから、教室に入りカバンを机の上に置くと、再び教室を出て廊下を急いだ。結子が向かっていく先に三年三組があって、中に入った彼女は、ちらほらと見える三組生徒たちを横目にしながら、机の一つに席を取った。知り合いの席である。
そのまま少し待っていると、教室入り口からお目当ての人が現れた。白い夏服姿の少女である。結子が手を振ると、彼女はその場でちょっと立ち止まったあと、足早に近寄って来た。結子は、おはよう、と挨拶してから席を立った。それに対する答えは、
「いい加減にしてよ、もうウンザリ! 何なの、あなたは? わたしのストーカーかなんかなの!」
なかなか攻撃的である。しかし、結子はくじけない。少女の言葉は、カエルの面にかかった水ででもあるかのように、結子に何らのダメージも与えなかった。
「今度の土曜日、暇? 明日香」
結子が言うと、明日香はカバンを机の上にどんと置いて、中から教科書を取り出し机の中に入れ始めた。そうして、
「忙しい」
素っ気なく言う。
結子が続ける。
「服を見に行くのに付き合ってくれない?」
「聞いてなかったの? 今、忙しいって言ったばかりでしょ」
「だって、ウソでしょ、それ」
結子が言うと、明日香は形の良い眉をしかめるようにした。それから、彼女は結子の方を見ずに、教科書取り出し作業を続けながら、
「何をしに行くのに付き合えって?」
訊いてきたので、結子は内心ニンマリとしながらも、一緒に服を見に行って欲しいのだと、真面目な顔で答えてから、
「わたしに似合う服を選んでもらいたいの。できれば、こう可愛らしいヤツ。ガーリーでフェミニンな感じの」
続けた。
明日香は軽く頭を押さえるようにしてから結子を見た。
「これだけははっきりさせておくけど、わたしはあなたのことが嫌いなの。大嫌い。Do you understand?」
「ゴメン、アスカ。わたし、英語分からないから。それ、どういう意味?」
「英語、関係ないでしょ。はっきり嫌いだって言ってるんだから」
「わたしもあんまり好きじゃないよ、アスカのこと」
結子はしゃあしゃあと言ってのけた。それから、
「でも、それとこれとは関係ない。歯医者が好きじゃなくても、虫歯になったら行くしかないでしょ。それと同じことよ」
軽く首を傾けるようにする。
「意味が分からない」
そう答えた明日香の声は諦めを含んでいる。結子は押し切ったことを確信した。
「一つだけ」
と明日香は前置きしてから、
「何でわたしなの? 他にも友達はいるでしょう」
訊いた。その目に鋭い光がある。結子は簡単に答えた。
「いるけど、アスカがいいのよ」
「何で」
「だって、わたしに遠慮しないでしょ」
嫌っているからこそ、歯に衣を着せることはしない。服を選ぶときでも、似合うものは似合う、似合わないものは似合わない、とはっきりと言ってくれるだろう。他の友人だと、そうはいかない。これまで築いてきた友達関係にとらわれて、似合わないものでも、
「カワイイ~」
とか言う可能性がある。だから、忌憚ない意見を言ってくれそうな明日香が良い、と結子はハッキリと言った。
明日香はじっと結子を見た。結子はその目を見返した。明日香はまなざしを逸らすようにすると、
「何で嫌いな人が可愛くなるのに付き合わなきゃいけないの。おかしいでしょ」
言った。結子の答えは適当極まる。
「まあ、それは何かノリでってことでさ」
「わざと似合わないものを似合うっていうかもしれない。あなたのこと嫌いだから」
「アスカはそういうことはしない」
結子は断言するように言った。これには自信がある。いったん引き受けておいてウソをつくような、性質のねじれは彼女にはない。
ため息をついた明日香に、結子は、
「次の土曜日、駅前広場で十時ね、よろしく!」
それだけ言うと、それで話は終わったと言わんばかりに、背を見せて足早に教室を出た。