その5
大和との関係について、結子は諄諄と説いた。
大和は結子の最も古い友人であり、良き隣人である。実に十年の間仲良くやってきて気心知れた人である。しかし、ただそれだけで、もちろん「それだけ」というには深い関係であって、語弊があるかもしれないが、少なくとも恋愛感情などない。秘めた想いもなければ、魂のつながりもない。
「つまり、姉弟みたいなもんだよ」
そう結子は結論づけた。
しばらく沈黙が下りた。
疑り深い様子で目を細める明日香の前で、結子は自問した。
――わたし、何やってんだろ。
そうではないか。なんにも悪いことをしたわけではないのに弁明めいたことをしているのだから。しかも、よく知りもしない子に対してである。明日香とはこれまで二度しか言葉を交わしたことが無い。大和が彼女を初めて紹介してくれたときと、廊下で一度すれ違ったときにあいさつしたことがあるくらいである。よくよく思い出してみれば、初めて会ったときから彼女には結子に対する敵意が見えたような気がする。初めて会ったとき、結子としては、「大和のカノジョだったらわたしにとっても友だち!」的な感じで温かくオープンに接したつもりだったのだが、明日香はすぐに大和の袖を引いてその場を去ってしまったのだ。
――あんときに気づけよ、わたし!
ひとり空しい突っ込みを入れる結子。それにしても分からない。なにゆえ、かほどに綺麗な子が自分に嫉妬するのか。結子としては、彼女に対して、「女の子勝負」では完全降伏をしてやっても良いくらいの気持ちである。張り合えるつもりなど全く無い。それなのに彼女は嫉妬している。恋は盲目というけれど、明日香の場合は目が不自由になるのではなく、何らか不思議な作用を持つ眼鏡でも目にかかってしまうのではなかろうか。恋の眼鏡――これをかけるとカレシに近づく女が十割増しに見えます。
「……それだけ?」
「え?」
不意に放たれた明日香の言葉に結子は反応できなかった。
「あの、何て?」
「言いたいことはそれだけなのかって訊いたのよ」
こちらを見上げる明日香の瞳の奥に暗い炎が見えた。細い肩が小刻みに震えている。何かしらの負のエネルギー――おそらく怒り――があまりに大きすぎて彼女の小柄な身の内から溢れ出ているのである。結子は内心で悲鳴を上げた。それから、荒ぶる天使をなだめようと、もう一度丁寧に大和との関係がクサレ縁に過ぎないことを言上したのだが、
「うるさいっ!」
それは全くの逆効果だった。
二人の間が半歩縮まる。明日香が間を詰めたのだ。同時に、
「今度はわたしがしゃべる番よ!」
と、結子の口を閉ざしてから、
「自分の付き合ってる人が他の女の子と仲良くしてるのが、どのくらいムカつくことか分かる? ええ、分かんないでしょうね、あなたには。だから、今教えてあげるわ」
そう言うと、細い腕を振り上げた。
一瞬後、パンという小気味良い音が梅雨空を打って、結子の頬が弾けた。
結子は繊細そのもののような少女に存外に力があることを認めた。
「そのくらいよ」
傲然とした目に嘲笑を浮かべる明日香。
結子がショックを受けていた時間はそう長くはない。むしろほんの一瞬のことである。彼女には、ひっぱたかれてただ茫然とするような、少女コミックのヒロイン的なか弱い神経は通ってなかった。やられたらやり返すのみである。結子は拳を固めた。平手に対して握り拳というのは公平ではないかもしれないが……知ったことじゃない! 「歯をくいしばれ!」と念じて、そのまま暴力衝動に身を任せてしまいそうになったところ、結子の頭にふわっと浮かんだ顔がある。その顔が結子の右ストレートを止めた。いまいましいことに、それはクサレ縁の男の子の顔だった。
結子は大きく深呼吸した。拳に込められた力は緩んで、手の平にしっかりと巻き込まれていた指はほどけた。まるで親の仇でも見るかのような憎々しげな目をしている明日香から、結子は一歩あとずさった。引っぱたく気は消えていたし、ましてもう一発引っぱたかせる気はさらさら無かった。
二人の間に冷ややかな風が流れた。
やがて、明日香は無言で踵を返した。言いたいことを言って、したいことをして満足したのだろう、と結子は思った。そのまま校舎へと駆け去っていく小さな背を見ながら、結子も重たい足を引きずり始めた。
「どうだった、ユイコ?」
教室に戻った結子は、大和の能天気な顔を見た。大和には明日香に会いに行くことを告げてある。結子は、首尾を知りたげな顔をして近寄ってきた大和を見て、そして無視した。
「おい、ユイコ」
「……話しかけないで」
「何だって?」
「当分わたしに話しかけないで」
クラスメートの目を憚って抑えてはいるが、しかしはっきりとした声で結子は告げた。訳の分からない大和は当然事情を聞きたがり、それからお昼休みが終わるまで何度も話しかけてきたが、結子はそれをことごとく無視した。ひっぱたかれて侮辱された怒りで上手く話せそうにないし、仮に話せたところで、明日香にされたことを説明したのち大和に向かって乙女にあるまじき口汚い罵声をぶつけてしまいそうであることを怖れたからである。