その37
結子の歩幅は、恭介のそれよりちょっと狭い。なので、普通に歩いていくと彼に少し遅れることになる。そうならないよう、二人仲良くランランと歩いていけるように、恭介はいつも結子に合わせてくれていた。ところが、今は、本来の自分のペースですたすたと歩いていく。自然、結子は、恭介の肩先の温かさを自分の肩に感じる代わりに、彼の広い背を見るということになる。先を行く恭介は振り返らない。どうやら怒っているらしい。
これがもし大和だったら、
「なに怒ってんのよ?」
と言って後ろから頭をはたいてやるところである。しかし、それは十年来のクサレ縁に対してだからこそできることであって、付き合い始めて五カ月の恋人にできる行いではない。また、したいとも思わない。そんなことをして本心を訊き出すよりも、遠まわしに気持ちを探る方が情緒がある。
恭介は、とうとう教室前で別れるまで、結子を見ようとはしなかった。
「じゃあ」
素っ気なく言って、足早に自分の教室に向かう。その冷たい振る舞いに、結子は軽く胸を締め付けられた。付き合い始めてこれまで、恭介が結子に対して怒ったことは一度も無かった。大和との絶交に関しては叱られたわけだが、あれは怒りとは違う。友を、引いては結子を想うがゆえのことである。しかし、今は違うようだ。遠ざかる恭介の周りに「不愉快オーラ」がゆらゆらしているのが見えた。
恭介は寛大な男の子である。その彼が腹に据えかねるようなどんなできごとがあったのか、と考えれば、それは明らかに結子の父と会ったことしかない。しかし、なぜそれがそんなに怒るようなことなのだろうか。結子がもやもやと考えようとすると、途端に頭が痛くなった。
結子はとりあえず教室に入って席についた。教室には朝の喧騒が満ちている。恭介の件についてはこれからゆっくり考えれば良い。なにせ時間はたっぷりある。結子は、お昼休み時間までをこの案件に充てようと心に決めた。そうして、早速、実際に一時限目の社会の時間を個人的なことに使い始めた。
どうして恭介は怒ったのか。
父が何か失礼なことを言ったのだろうか、と結子は、自分の父親に対して失礼なことを考えた。しかし、どうやらそれはなさそうである。なにせ、父と恭介のやり取りに関しては、二人のすぐ近くにいた結子は、その全てを聞くことができていた。父は特段変なことは言わなかった。
「金輪際、娘に近づかないでくれ」
くらいのことを言ったのならばともかく、それどころか父は、「これからも娘をよろしく」というようなことまで言っていたのだ。ところで、むやみと娘のカレシに厳しいのはよくないけれど、初めからあんまりフレンドリー過ぎるのも考えものである。もう少しカレシに対して厳しくしてくれた方が、その分だけ娘を大切に思っているということになって、彼女の価値を押し上げるのではないだろうかと、結子は考えた。今夜、お父さんに注意しておこう。
父に責任は無いとすると、それを結子が負わなければならなくなる。やはり恭介は、結子が不意を打って父を目の前に連れてきたことに対して怒ったのだろうか。しかし、それはなぜ? 傍から見ていても恭介の言動は立派だった。初めて会ったカノジョの父親に対して物おじせず、礼儀正しく、言うべきことをちゃんと言ってくれた。同じことを結子ができるかというと自信は無い。絶対テンパって裏声で変なことを言いそうである。恭介はいつも通りの所作であり、結子は感心するとともに、改めて彼と付き合える我が身の幸福を感じた。恭介にとっては、カノジョの父親に会うことなど大したことではなかったはずである。
――じゃあ、何で怒ってるんだろ?
一時限目の社会から始まって、二時限目の理科、三時限目の音楽、四時限目の数学の時間をフルに使い、考えたが答えは出なかった。その考えたことが良くなかったのか、お昼休みになると、頭がガンガン鳴っていた。朝方よりも頭痛がひどくなったようだ。結子は、自分の頭のはしゃぎぶりに手を焼いて、恭介の怒りの理由を考えるどころではなくなった。それに、そもそも、分からなくても別に構わない、という思いが結子にはある。それは投げやりや面倒くさがりなどでは全然なくて、端的に恭介への信頼である。恭介は、自分の気持ちを隠したまま、ふてくされた顔をして、
「そっちでオレの気持ちを察してくれよな」
というようなわがままな子どもじみたことはしない。ある程度怒りを冷まして気持ちが落ち着いたら必ず自分の思うところを話しに来てくれるハズである。これにはある程度、結子の願望も含まれている。自分が付き合っている人にはそのようであって欲しい、という希望。
その希望は速やかにかなえられた。食欲が無い結子が給食をほとんど残して、片づけ担当の給食委員に渋い顔をさせていたところに、恭介が教室の戸口に立つのが見えた。結子は、ひらひらと手を振った。基本的に恭介も休み時間中に結子の教室に来ることはない。結子は全然気にしないけれど、自分のことでカノジョがからかわれるのを避けたいらしい。それにも関わらず来たということは、よほど切迫した用件ということになり、当然それは朝の件である。