その35
目覚めると、全身にびっしょりと汗を掻いていた。下着にしているTシャツのべたべた感が半端なく気持ち悪い。
時刻を確認すると、朝まだ早き時間である。しかし、それは、「小宮山家朝ご飯担当大臣」のれっきとした出勤時刻である。弱い光の中で、結子はベッドから抜け出した。小宮山家のメンバーに朝のエネルギー供給をするという大切な仕事が待っている。
不意に体が揺れた。危なく倒れそうになった結子は、勉強机の椅子につかまって何とか難を逃れた。どうやら体の調子がおかしいらしい。しばらくそのままにして落ちつかせたあとに、こわごわと歩き出してみると足は動くようである。結子はゆっくりと歩いて部屋を出た。廊下に出て、それから階段を降りる。降りるときは、念のため手すりにつかまった。
キッチンに立って朝食の準備をしていると、ときどき締め付けるような頭痛がした。額に手を当ててみると少し熱いような熱くないような、自分ではよく分からないが、ともかくも気分は良くない。どうやら、昨夜感じた頭痛は、カレシのことで脳をフル稼働させたからではなかったらしい。体調不良の前触れだったようである。
時折頭を襲うズキズキに耐えながら、何も乗っていないダイニングテーブルを少しずつ彩っていると、家族が集まって来た。
食卓に集まった家族に給仕を終えた結子には、食欲が無かった。父母と弟がもりもり食べるのを横目にしてちびちびと箸を動かす。「わたしが作ったものは一粒たりとも残さないこと!」と普段家族に厳命している手前、自分が食べないわけにはいかなかったが、どう頑張ってもさして大きくない椀の半分ほどしかご飯が入っていかない。おかずも同様である。
その様子を見た母と父が、
「ユイちゃん。気持ちは分かるけど、今は体ができる時期なんだから、無理なダイエットはダメよ」
「そうだぞ、ユイコ。それにな、女の子が思ってるほど男っていうのは細い子が好きなわけじゃないんだ」
見当外れのことを言って来た。食べないことを何で即ダイエットに結び付けようとするのか、それは返って、「ダイエットした方がいい」と言っているようなものではないか。そんな風に曲解してしまうのも体の調子がイマイチのせいか。
母と父の誤解の言葉を聞き流しながら、結子は隣に座っている小学五年生の弟の頬を両手で挟んで固定すると、自分の額を彼の額につけた。
弟は瞳に迷惑そうな色を浮かべた。
「なにしてんの、お姉ちゃん?」
「わたしのおでこ熱い?」
「え?」
「おでこよ、おでこ。少年漫画の主人公みたいに燃えてる?」
「よく分かんない」
「使えないヤツ」
さらりとひどいことを言った結子のもとに、ようやく事情を察した母が体温計を持って来てくれた。が、結子は断った。体温計の数字を見てもいいことは無い。下手に高い数字が出てしまったら、それで返って気分が悪くなりそうな気がする。多少体調がよろしくなくても歩くのに支障がなければ、学校には行くつもりだった。
「休んでもいいのよ。この頃、休んでないんだから」
結子は首を横に振った。別に、学校が好きな訳ではない。
「でも、行く。わたしがいない間に、恭介に変な虫がついたら後悔しきれないもん」
その言葉を聞いた父は、年頃の娘を持つ父親の役目を忠実に果たした。
「今度うちに連れて来なさい、ユイコ。お父さんが見定めてやるから」
それがなかなかうまくできないからこそ苦労しているのだ。結子は、
「大丈夫だよ。わたしが男の子を見る目は、お母さん譲りだから」
と適当なことを言って父の言葉を受け流した。それを聞いた父はほくほくとした上機嫌になったが、母が「それじゃあ、心配だわ」と頬に手を当てながら言うと、ええっ、とショックを受けた顔をした。じゃれあう夫婦を横目に、結子はシャワーを浴びに浴室へと向かった。
汗を流してちょっとすっきりとした結子は、バスルームの鏡の中の顔を見た。暗い顔である。無理無理口角を上げてみると多少はマシになった。早く大手を振って化粧ができる年になりたいものである。そうすれば、顔色がすぐれなくてもごまかしようがある。
髪を乾かして制服に袖を通すと、父が学校まで送ってくれると言う。結子は渋い顔をした。父のことは嫌いではないが、平日に学校前まで車をつけられて、別れ際に運転席の窓から「じゃあな、ユイコ。一日、がんばれよ」などとでも顔を出されようものなら、それを見ていた周囲の同校生から嘲笑の的となり、ファザコンの誹りを免れなくなる。
「ありがとう、お父さん」
その後に当然続けられるべき、「でも、大丈夫だから」という言葉は出てこなかった。学校までは三十分かかる。愛しのカレシに合流するにも十五分はかかる。その時間歩くのが、どうやら億劫であるようだった。それが一つ。
それにもう一つ。結子の頭に紫電のように閃いた考えがあったのだ。痛む頭でこんな素晴らしいことを考え出してしまった結子は自分の天才ぶりが怖くなったが、その思いつきに巻き込まれる二人の人のことまでは頭になかった。