その21
詰まるところ結子は大和のために自分の傘を置いてきてあげたのだった。
「わたしは恭介の傘に入れてもらえばいいからと思ったのよ」
その理屈からすれば、大和にもカノジョがいるわけであるから、彼がその彼女に相合傘をお願いすれば良いことになるのだが、そもそも彼女が傘を持っているかどうか結子には分からなかったので、より安全な策を取ったというわけである。そういうわけで、結子は自分の折りたたみ傘を、大和のカバンの中にしのばせたのだった。授業が終わったあと、掃除の時間のことである。
「でも、それは誓って意識的な行動じゃないんです。傘を貸してあげる絶交なんて聞いたことないでしょ?」
結子は目の前にある細い肩に両手をかけると、思いきりゆさゆさと揺さぶった。
「信じてください。裁判長!」
キラリ。
スクエア型の眼鏡の奥で知的な瞳が光を放つ。
結子は唾を飲んだ。
ギルティ? オア、ノットギルティ?
「図書室行ってくるね」
そう言って、友人は席を立った。机を挟んで向かい合っていた結子はぽかんとした。トショシツ・イッテクルネ? それは一体どういう罰なのだろうか。いや、それともそれは「無罪!」を表す裁判用語であり、つまり結子は許されたのだろうか。
「コレもう読んじゃったからさ、別なヤツ借りてくるんだ」
少女はニコニコしながら手にしていた文庫本を見せてきた。
「次が最終巻なんだよねー。秋風の吹く五丈原、孔明最期のとき……」
夢見るような呟きを残して立ち去ろうとする友人のその腕を、結子はがしっと取った。
「杏子! あんたって子は、友だちが恋の相談しているときに、『三銃士』のこと考えてたの?」
「『三銃士』じゃなくて、『三国志』。全然違うよ」
しかし、結子に取ってはどちらでも同じである。所詮は、紙にインクをしみ込ませたものに過ぎないではないか。そんなものの方が無二の親友よりも大切などというリクツがあってたまるか!
「そうでしょ?」
勢い込む結子に、少女は、うーん、と首をひねる。
「一年半くらいの付き合いで、『無二』ってことになるのかなあ」
「一年半もあれば十分」
「じゃあ、十年付き合ってる岩瀬くんとユイコはどういう関係になるの?」
結子はグッと言葉に詰まった。何てことを訊く子だろう。
「前言撤回する。無二じゃなくて普通の友達に格下げする。ふふん、どう格下げされた気分は? 他のみんなは無二なのに、キミはもう並みなのだよ」
「それじゃあ、今相談していたような大事なことは、普通の友達にじゃなくて、別のクラスにいる無二の親友のところに行けばいいんじゃないかな。でも、ユイコ、ちょっと思ったんだけど……」
「なに?」
結子は期待するような目で友人を見たが、
「『無二』っていうのは『二つと無い』っていうことだから、無二の親友って本当は一人しかいないんだよ」
期待はずれもいいとこであった。折角のお昼休みにどうして国語の課外授業を受けなければいけないのか。
「それを言うなら、わたしもお昼休みは本を読む時間なんだけど」
「スゴイ! 友達が悩み相談しに来ているのに、それよりも本を読むことの方が大切なんだ。模試の偏差値は良いのかもしれないけど、杏子の人間としての偏差値は絶対に50を切ってるね!」
軽く人間失格のようなことを言われた友人はさすがに口を尖らせた。
「そんなこと言われてもさあ、わたしに恋の相談されても。そういうのはカレシがいる子に相談したらいいんじゃない」
「みんな都合が悪かったからここに来たのよ」
「その発言の意味、ちゃんと考えたほうがいいと思う。今の言葉、グサッと来たよ」
「わたしは気にしない」
「いや、気にしようよ! 友達傷ついてるんだよ! ……というわけで、ブロークンハートを癒すために、わたしは図書室に行ってきます」
「待て、眼鏡っ子!」
結子は、友人の頭の上の方に作られたお団子状になった髪の部分をつかんだ。
「何すんの~」
杏子は頭を振ったが、鬱屈した悩みエネルギーで満ち満ちた結子の手からは逃れられない。
「あんたのその『三大陸周遊記』を読みこなす頭脳で――」
「『三国志』だってば。絶対わざとでしょ」
「とにかくその頭脳で、悩める子羊にアドバイスをしてから、図書室なりなんなりに行きなさい」
「子羊って言うかむしろ狼じゃないの」
「にゃにおう! ワオーン!」
「分かったから。とにかくお団子引っ張るのやめて」
結子はお団子を解放してやった。
杏子は、振り向くと、暴行が終わったことに対して、ふう、と安堵の息をつきながら言った。
「気にしなければいいんじゃないかな。岩瀬くんとは兄妹みたいなものなんでしょ。だったら、妹が兄のために行動するのは普通なんじゃないの。傘くらい届けてあげたって構わないでしょ」
そこで杏子は、ぽんぽん、と結子の肩を優しく叩くと、
「世の中にはもっと苦しんでいる人が大勢いるんだよ、ユイコ。例えば、危急存亡のときに、その一身に国家の命運を背負い、勝算の低い戦いに赴かなければいけない宰相とかね。その人の気持ちを考えてみようよ」
言って、さっさと背を見せた。全く意味不明のことをまるで良いことでも言ったかのように自己満足して立ち去った友人を見ながら、結子はここに来たことによって少なくとも大和と顔を合わせなくて済んだわけだ、と精一杯のポジティブ・シンキングを試みた。
傘の事件の翌日の話である。