その10
結子はそれほど本が好きな方ではない。人並み以下に読むことは一応読むのだが、本を読むくらいなら体を動かしていた方がよっぽど楽しいと思うアクティブな性質である。うら若き小学校低学年時代、折角父が娘の情操教育のためにと買ってきてくれた少年少女文学全集なるものを積み木代わりにして「本の塔」という前衛的作品を作ったり、またそれを「チェストー」という勇ましい掛け声とともに蹴り崩したりしていたのは良い思い出。まさか女の子の蹴りを受ける憂き目に遭うと思わなかった由緒正しき本たちは、今は結子の弟の部屋の本棚で本来の役目を果たしている。
――そんなに面白いかなー。
図書室に入った結子は、大きなテーブルに座って食い入るように本を眺めている文学少年少女たちを見た。それぞれ全く周囲が気にならない様子で一心に本に見入っている。彼らの魂はおそらく、この現実世界を離れ、異世界を旅しているのだろう。その世界の中で彼らは、勇者になったり王女になったりしているわけだ。
彼らを見ていると結子は、呆れたものを覚えるのと同時に、何だか自分が損をしているような気分にもなるのだった。ひょっとしたらわたしは人生の楽しみを逃しているのではあるまいか。そんな気になって、誰にともなく、
「わたしに読書の楽しみを教えてみろ!」
と要求したくなるのである。
そんな結子だったが、とはいえこれまでの人生の中で、何冊かは面白かった本もある。モンゴメリ女史の「赤毛のアン」はその一つだ。カナダのプリンスエドワード島という美しい島を舞台にして紡がれる青春小説。ヒロインのアンの行動が何とも小気味良い。分別くさいミス・レイチェルを口八丁で手玉にとり、赤毛を馬鹿にしてきた男の子ギルバートの頭をかち割り、好きな詩句をそらんじては空想にふける。そんなアンの活躍を読んで、結子は心から思ったものだった。
「でも、アンよりはダイアナになりたい!」
ダイアナとはアンの親友で、黒髪の美少女である。
そういう例外はあるものの、基本的に本には興味が無い結子である。
――本を読んでる恭介を見るのは好きなんだけどなー。
何の関係も無いことを考えて、結子は思わずにへらとした。
そのニヤケ面を向けたところに友人のうつむき姿勢があった。俯いていても、後頭部にできたお団子とスクエア型の眼鏡でそれと知れる。二年生の時に同じクラスで親しくなった少女である。結子は彼女の隣に席を取ると、その横顔をじっと見つめた。彼女はこちらを気にすることなく、眼鏡の奥にある瞳をキラキラ光らせている。一体どんな乙女チックな本を読んでいるのかと手元に目を向けると、そこには、「三国志」と背表紙に銘打たれた文庫本があった。
――また読んでる。
「三国志」とは、二世紀末から三世紀半ばまでの中国を舞台にした歴史物語である。時は戦国の世であり、群雄が覇を競い合っていた。中国全土の王となるため武勇と知略の限りを尽くして戦う、男たちの熱きドラマ。歴史にも熱血にも関心の無い結子にはその面白さが良く分からないのであるが、友人によるとこれほど面白い話は無いのだという。彼女は、「三国志」だけでなく、古代中国の歴史全般が好きなようで、他にも色々と読んでいるばかりか、所属している文化系部活動で古代中国関連の新聞を作って、校内の掲示板に掲示するという筋金入りであった。
驚いたことに、恭介も大和も「三国志」については良く知っていた。二人とも大好きらしい。以前、三人でいるときに不注意にもその話を振ってしまったところ、男二人で、やれあの武将が好きだとか、あの戦はこうすれば結果が違ってたとか、女の子の登場人物の数が少ないところが不満だとか、結子からしたら愚にもつかない話を延々と聞かされる破目に陥り、げんなりした覚えがある。以降、彼らの前で「三国志」というワードを出すことを自らに禁じた結子であった。
友人はあまりに集中して本に向かっているので、その邪魔をするのも忍びなく思い、結子は声をかけないままそっと席を立った。それから近くにあった書架へと向かう。図書室へ来たのは、本を借りるためである。本好きなわけでもない結子が本を借りに来たのは、彼女の本意ではない。朝のホームルーム前に、「読書の時間」というものが十分ほど設けられており、何か本を持っていないと、教卓に鎮座するクラス委員長から白い目で見られるという事情による。
――何にしようかなー。
書架に縦横無尽に視線を走らせながら、結子は迷った。いっそ「三国志」を借りようかとも思ったが、やめた。実は結子も前に少し読んだことがある。カレシが好きなものは自分も好きにならねば、という殊勝な心もちからぺらぺらとめくってみたことがあるのだ。しかし、その感想をカレシに告げたところ、
「ユイコ、その武将の行動はそういう意味じゃないんだよ」
と子どもを諭すような声を出されて、あまつさえ、そのとき近くにいた大和に、
「許してやれよ、キョウスケ。所詮、女には分からない世界さ」
などという男女差別的発言をされて、すっかり読む気をなくしたのであった。また同じ思いをする気は無いし、そもそも、
――カレシに媚びるなんて女がすたる! わたしの好きなものをキョウスケが好きになればいいんだ!
という風に考えを改めたので、読むメリットはなくなったと言って良い。
結子はしばらく、書架から書架へとはしごして、暇をつぶしていた。