第一話
新作です。内容が重くてすみません。
覚えているのは真っ白い壁紙。
でも、正確にはくすみカラーの石目調の無地の壁紙らしいのだが、そんな長ったらしい名称を覚えているわけもなく、あたしはママの言葉をぼんやりと聞き流していたような気がする。
その真っ白い壁紙が真っ赤に染められたのは確か数か月前のこと。同じクラスの香菜ちゃんと唯ちゃんと放課後遊ぶ約束をして、走って家まで帰った。今日は何故かパパは仕事を休んでいて、ママもパートが休みだと話していた。夕方近くにお客さんが来るけど、瑚都が帰ってくる前には帰っていると思うからと話していたので大して気にしていなかった。
むしろ、その「お客さん」の来訪のことをその時のあたしはすっかり忘れていた。
家に着いた時に、まずドアノブがおかしいなと思った。
いつもママはあたしが帰ってきた時に「鍵をちゃんと閉めた?」と確認をする。私が頷くと、ほっとしたように息をつく。
用心深いママという印象があるので、ドアノブが少し開いたままになっているのはとてつもなくおかしいと思った。
誰かが急いで入ってきた?あたしの知らない、見知らぬ人が?
ゆっくりとドアを開くと、家の中はしんと静まり返っていた。ママやパパのおしゃべりの声もしない。二人そろって出掛けているのだろうか。
何故だろう、あたしの中の何かが「危険だ」というアラートを鳴らしている。いつもの家の中で間違えがないはずなのに。血の気が一気に引いていくが、あたしはそのアラートを振り切って、着実にリビングへと歩みを進めた。
「ママ、パパ―――」
むんっとした鼻を覆うほどの異臭が鼻から脳内までつき向けた。
床に広がっているのは臙脂の水たまり。そして、そこに横たわっているのは見知っている顔だった。
「パパ―――!」
背中と首から血を流し、うつ伏せになっている。
「パパ!どうしたの!何があったの!?」
辺りを見渡すと、真っ白い壁紙に無数の血痕が飛んだ下にママと見知らぬ女性が倒れている。
「ママ!やだ!やだやだやだ!!」
あたしはあまりの惨状に立っていられなくなり、その場に座り込んだ。その時、キッチンの方からがたっと物音がした。
あたしは黒いフードで顔を隠した人物と目が合った。手には包丁を握っている。
そのままその人物は急いで外に飛び出していった。
あたしはそのまま座り込んで目の前の光景を見続けていた。
ママのお気に入りの真っ白い壁紙、汚くなっちゃった。
そんな不謹慎なことをぼんやりと考えると、ゆっくりと立ち上がり外に出た。
「―――あら、瑚都ちゃん。こんな時間にどうしたの?」
近所の立花さんに言われて空を見上げると、いつの間にか日は沈み、あたりは暗くなっていた。
香菜ちゃんと唯ちゃんの約束、破っちゃった。
「立花さん、家の中でママとパパが倒れているの。あと、知らない女の人。警察と救急、どっちに先に電話をすればいいのかな?」
両親を惨殺された少女Aは、次の日からニュースや新聞で引っ切り無しに報道された。ママのママは遠方で、足を悪くして動けないと聞いていた。パパのパパママは車で二時間くらい掛かるのと、弟夫婦と暮らしているからかすぐに動けないと聞いた。ただ、お通夜や葬式はこちらが用意すると聞いた。
あたしは初めて警察で任意聴取なるものを受けた。
ママと一緒に倒れていた女性は、笹原さんという女性で、どうやらママの古くからの友人だったらしい。そのことを聞いて思い出した。あの日、「お客さん」が家に来ることを。そのお客さんがその笹原さんという人だったのかもしれない。
じゃあ、あの日キッチンにいた人物は「お客さん」じゃなかったのだろうか。それとも、「お客さん」は複数だった?
でも、あの「お客さん」は血の付いた包丁を持っていた。凶器はまだ見つかっていないと警察が話していたのをこっそり聞いてしまったので、あの黒いフードの人が犯人の可能性が高いのかもしれない。
あたしのパパとママ、そして笹原さんを刺した犯人。
その現実をあらためて直面した時に、あたしの目から滂沱の涙があふれ出てきた。精神的にもこれ以上続けられないと警察は聴取を一旦取りやめた。
そして、あたしはひとまず児童相談所にその身を置くことになった。
あたしはしばらく学校に通えず、ただ何人もの大人たちが入れ代わり立ち代わりで色々な質問をしてきた。あまりパパやママの話に触れることなく、学校で楽しかったこと、流行っていたこと、そしてパパの家族たちとはどれくらい会っていたのかなど訊かれたことを話せる程度にぽつぽつと話した。
夕方から夜の時間帯になるとあの時の光景が思い出されてしまい、私は膝を抱えて顔を押し付けて何も考えないようにして過ごした。
そうでもしないと、パパとママの姿や、これからあたしはどうなるんだろうという不安な気持ちに押しつぶされそうだったからだ。
数日後、パパとママの葬式が行われ、私は相談所の職員の人に連れられてパパが住んでいたおうちへ向かった。
「あら、あんたが瑚都ちゃんかい?小さい頃に一度だけ会ったけれど、大分大きくなったんだね」
白交じりの髪を結いあげた妙齢の女性があたしの足先から頭で目で追った。何だか嫌な感じだった。
「なー母ちゃん、俺のジャケットってどこにあんだっけー?」
バタバタと大きな音を立ててフェードカットのいかつい男性が走ってきた。コンビニに寄った時に自販機辺りでたむろしているお兄さんたちに雰囲気が似ていたので思わず身構えてしまった。
「あん?おまえが瑚都かーほとんど初めましてだな。叔父の保だよ。とはいっても、覚えてないか」
けらけらと笑い声を立てながらそう話す叔父に、あたしはぎゅっと見えないところで拳を握りしめた。
一緒に来てくれた職員さんも葬式の対応とは思えない態度に眉をひそめていたが、あらためて頭を下げて挨拶をした。
葬式が始まっても、あたしと同じくらいの小学生が二人と、幼稚園児くらいの一人は静かに座っていることなく後ろで走り回ったり、喧嘩をしていたりした。叔父さんの奥さん人らしき人が最初は注意をしていたが、あとから放っておいたのでほとんどお坊さんの読経が聞こえなかった。
目の前に掲げられているパパとママは笑顔なのに、きちんと悲しんで送り出してあげることもできない。そう思うと、一気に怒りが込み上げてきた。
「あんたらうるさい!葬式の間くらい静かに出来ないの!?」
思わず立ち上がってそう叫んでいた。
隣に座る職員さんには「瑚都ちゃん、落ち着いて」と言われ、あたしはそのまま椅子に座ったけれど、悔しくて悲しくて涙が止まらなかった。大事なお別れの時間なのに、こんなわけの分からない場所に連れていかれて、パパとママのことを汚されたような気分だった。
読経が終わり、出棺となった時に、「おい」と声を掛けられた。
くちゃくちゃとガムをかみながら目つきの悪い男の子が立っていた。
「おまえ、何偉そうに人のこと注意してんだよ。おれが恥ずかしい思いしただろうが。女のくせになめてんのか、こら」
品性の欠片もない言葉でそう話す男の子に「うるさい奴にうるさいって注意して何が悪いのよ」と返すと、拳を振るおうとして腕を上げた。だけど、あたしは睨みつけてそこから動かなかった。
「おいおい、落ち着けよ。これから出棺って時に何争ってんだよ、なぁ樹斗愛」
「―――父ちゃん!だってこいつが!」
「まぁ、そうだなぁ、あんなところで怒鳴られたらそりゃ面目丸つぶれだよな。ここはさ、瑚都ちゃん、双方謝ってお開きにしようや」
口元は緩めながらも叔父さんの目は笑っていなかった。
「―――あたしは、謝りたくないです。大事なパパとママの葬式を台無しにするような奴に謝るなんて」
「瑚都ちゃん!早く出棺が始まるから行きましょう」
職員さんがあたしの手を掴んでその場から離れた。
後ろを振り返らなくてもわかった。あたしは、叔父たちを敵にしたのだと。
出棺、火葬が終わると、あたしは職員さんと帰ることになった。
帰る時に、叔父さんが玄関まで来てくれた。隣には同じくらいの年の女の人が立っている。煩い子供たちを叱っていた人たちなので多分叔母さんにあたるのだろう。
「瑚都ちゃん、またな。すぐに会うことになると思うわ」
ポケットに手を突っ込んだままにやにやと笑みを浮かべる叔父さんは、隣の叔母さんにちらりと目くばせをした。その目くばせの意味を、その時のあたしは分かっていなかった。
それから二カ月後、あたしはパパのパパとママの住む家に行くことになった。
最後まで、葬式に来てくれた職員さんは気にしていたが、裁判所の決定には覆せないと悔しそうな表情を滲ませていた。
最小限の服や雑貨を詰めたリュックを背負って、あたしはその家の門をくぐった。
予感は的中した。
この家にあたしを歓迎する親族など、ただの一人もいなかったのだと。
お祖母ちゃんは基本、孫たちに無関心だ。どんな習い事をしていても、賞を取ってきても「ふーん」で終わらせる人だ。ご飯はちゃんと作ってくれるが、ママと比べると味が濃すぎてあまりおいしくない。お祖父ちゃんは葬式の時に会っていたはずだが、ほとんど会話を交わさなかった。空気のような人、そんな感じだ。叔父さんは明るい人だが時々ぞっとするような視線を向ける。それはあたしにだけだ。叔母さんは叔父さんと言い合いすることが多いが、何故か私に対してはそれなりに優しく接してくれる。息子の樹斗愛と喧嘩をしているとめちゃくちゃ叱ってくれるが、よく買ってくる化粧品や洋服を眺めるような視線を向けてくる。
あとの二人の子供たちも喧嘩ばかりしていて話にならない。瑠乃愛と那斗利と三兄妹とも凄い名前をしていて、まず一緒に遊ぶと殴ったり蹴ったりしてくるのでなるべく関わりたくないと思っているが、叔母さんがパートで帰りが遅い時などは、あたしが必然的に二人のお世話係になるしかない。
学校にもあたしの居場所はなかった。
樹斗愛は同じ五年生で隣のクラスだが、何か言いくるめられているのか男子も女子もあたしを遠巻きにして話しかけても虫の子を散らしたかのように去っていく。
先生も、あたしの境遇を知ってか腫れ物に触るかのように家族のことになると話を逸らそうとする。
香菜ちゃんや唯ちゃんにお別れを言えないままだった。
あたしはまたあそこに帰りたい。
堪える涙をこらえながら、あたしは伏魔殿に帰るしか道は残されていなかった。
少し公園で気持ちを落ち着けてから帰ると、リビングで叔母さんと誰かが話しているのを聞いた。今日はパートが休みだったらしい。
リビングの横の階段を上ろうとした時、
「あの子、本当にスポンサーだったよ、まじで有難いわ」
と声がして足を止めた。
「最近遺族給付金も値上がりしたし、遺族厚生年金とか穣さんがあの子のために貯めこんでた遺産も第1,2,3位とも我が家だからさ、もう一気に潤沢になっちゃって~もうあの子見ると顔がにやけてしょうがないのよね。こんなこと言ったらなんだけど、もう死んでくれてありがとうって」
最後まで聞かずにあたしは二階へ上がっていった。足音で聞かれていたことが分かったかもしれないが、どうせあの子は何もできないわよで終わる。
悔しい。パパとママが必死にあたしのために働いて貯めていてくれたお金をこの家にすべてを吸収されるなんて。
二階にあたしの部屋などない。叔母さんのクローゼットに入りきれなくなった洋服が溢れたかすかなスペースにあたしの小さな机と布団が置いてある。
枕に顔をうずめながらあたしは泣いた。声が漏れないよう静かに泣いた。でも、あたしの養育権はこの家であって、あたしはまだ11歳だ。当分出ることなど出来ない。
絶望に打ちひしがれながら、そのままいつの間にか寝落ちしていた。
それからさらに数か月が過ぎた。いつの間にか季節は秋になり、薄着のあたしは自分で自分を抱きしめながら歩いた。
あの日から、叔母さんはあからさまにあたしを蔑ろにするようになった。ご飯のおかずは少なめになったし、洗濯もしてくれなくなったので自分自身で夜中に洗面所で洗うようになった。お金目当てだということが露呈したので、今更良い叔母さんを取り繕うことを止めたのだろう。
息を吸うのもつらい毎日だった。朝から胃がきりきりと痛む。
ただ、勉強だけはしっかりしようと頑張った。それだけしか、あたし自身を守れるものがないと思ったから。勉強を智慧をあたしの盾にしようと思った。
まだ秋なのに指の先がかさかさと乾燥している。体にも心にも潤いがなくなっている状態だ。
ゆっくりと帰路を辿っている時、白い紙をもってうろうろと彷徨っているおばさんが居た。ちりちりの髪を一つに結び、黒縁の眼鏡を掛けている。パパやママより10歳くらいは年上だろうか。
前までのあたしだったら「大丈夫ですか?」と声を掛けたのかもしれない。だけど、今のあたしに人に善意を向ける余裕がなかった。
そのまま通り過ぎようとした時、「あのさ」と声を掛けられ、あたしはびくっと体を震わせた。
「あ、ごめんね。びっくりさせた?そんな怪しいものでもないよ。この辺りに濱門さんってお宅はないかな?」
「……えっと、あたしの、家ですけど」
そう小さく答えると、女の人は目をぱちぱちとさせてあたしの両肩に手を置いてぐっと顔を近づけた。
「な、ななななんですか……?」
初対面の人からこうも至近距離に迫られることがなかったので、あたしは震えた声でそう口にするしか出来なかった。
「あんた、瑚都ちゃん?瑚都ちゃんだね!あーやっと会えた!」
女の人は嬉しそうにガッツポーズをした。
そして、距離を取るとその場で頭を下げ、勢いよく顔を上げた。
そこには、この先の未来は楽しいことしか待っていないというような希望に満ち充ちた表情があった。
「大分待たせちゃったね、ごめん。私は三嶋糸子。瑚都ちゃん、あんたを迎えに来たよ!」




