プロローグ
暗い部屋の隅で、遥菜は小さくうずくまっていた。
母の怒鳴り声が遠ざかり、静けさが戻る。けれど頬にはまだ、叩かれた痕の熱が残っている。
冷たい床に額を押しつけながら、遥菜は目を閉じた。
――思い出すのは、遠い日の光景。
夕暮れのやわらかな光。
父の大きな腕に抱き上げられて、くすぐったくて笑った自分。
「ママにそっくりだなぁ。可愛いよ、遥菜」
低く優しい声が胸の奥に響く。
その隣で、母・遥香も優しく微笑んでいた。
春の陽だまりのようなその笑みと、頭を撫でる柔らかな手。
小さな家の中に確かにあった、温かい家族の時間。
――けれど、その幸せはあまりにも唐突に終わった。
父は、ある日突然帰ってこなかった。
ただ「事故で死んだ」とだけ知らされ、幼い遥菜はそれ以上を理解できなかった。
葬儀で泣き崩れる母の姿を見て、幼いながらに一緒に泣いた。
あの大きな腕も、優しい声も、世界から消えてしまったのだと悟った。
けれど――そこから母は変わってしまった。
塞ぎ込み、泣き続ける日々が続き、やがてその涙は怒りへと変わった。
怒りは苛立ちに、苛立ちは憎しみに姿を変え、その矛先は遥菜へと向かった。
「あなたがいるから……私は苦しい」
そう告げる母の顔は、かつての優しい微笑みではなく、憎悪を宿した仮面だった。
理由はわからない。ただ、家族の幸福はもう二度と戻らないのだと幼い遥菜は知った。
膝を抱え、感情を押し殺す。
――父と母に愛された日々は幻のように胸に残り、現実は冷たく歪んでいく。