第51話 単純な心理 単純な真理
「郁」
背後から声を掛けると、郁はびくりと肩を震わせて振り向いた。
「れ、蓮……」
郁の動揺っぷりは、それはもう見ていられないような有様だった。俺の顔を直視したかと思えば俯いて、変なTシャツを持った指先は強く握りすぎて震えている。こんなに緊張されたんじゃ、楽に構えていた俺まで体が強ばってしまうじゃないか。
こんな郁は、かなり久しぶりに見たような気がする。ちなみに前に見たのは小学生の時で、何かクラスの出し物の演劇の本番前という分かりやすいシチュエーションだったか。
「え……と、こ、甲塚さんは?」
「アイス食ってどっか行っちゃったよ。話ってのは、俺だけじゃまずいのか」
「いや、蓮にも……」
と、郁が強く握っている変なプリントのTシャツを、突き出すように寄越してきた。
「こ、これ。あ、明日の帰りに渡そうと……し、したんだけどね」
「なんだよ、これ?」
俺は受け取ったTシャツをコンビニの明かりで照らしてみた。表の白地にデフォルメされた犬がピースしていて、郁が握っていたからか既に皺ができている。
「えーと……」
郁の行動の意味がちっとも分からない。
「ごめん。何一つ意味が分からないんだけど……なにこれ?」
このまま俺が受け取って良いのかすらも分からないので、郁に突き返す。すると、素直に犬を抱きしめるように受け取った。さらに突然目をうるうるさせたものだから、
――あ、まずい。
と、危機感を察知した時にはもう遅い。
「うっ!! うえええぇぇぇ!!」
「ちょ! ちょ、ちょ、ちょっと!?」
郁は周りも憚らず大声を挙げて泣き出してしまったのだ。
こうなると、もう手が付けられない。泣き出した女子を前にした一介の男子高校生なんて皆平等、慌てふためくしかないだろうが。
というか、こんなシチュエーションを他の生徒に見られたらマジでやばい……!
「な、泣くなよっ。泣くな!」
「ううう! うえぇぇぇっ……」
泡を食って郁の肩を掴むと、パッとみて人気が無さそうな道へと引き連れていった。
少し歩いてからハッとした。それはまんま昼間に通った海へと向かう道だったのだ。日が落ちて昼間の様子とは違っていたので、行く手に夜の海が拡がったときにはこんな状況にも関わらず素直に感動してしまった。
「うっ!!……ううぅ!」
「お、落ち着けって……ほら! 郁! 海だぞ! 海!!」
「うっ! うっ、……うみぃ?」
まさかこんな子供だましみたいなやり口で泣き止みはしないだろうと思ったが、意外にもこれが功を奏したらしい。郁はずびりと鼻水を吸い上げると、濡れた瞳をぽかんと開いて景色を眺めた。
さっきまで面倒臭い甲塚を相手にしていた俺は、こいつは本当に単純で助かるなあとしみじみ感心してしまう。
「ほら。昼間掃除した分すっかり綺麗になっているじゃないか」
「う、うん……綺麗」
……今気付いたが、こいつ犬Tシャツで涙を拭いてやがる。
何なんだよ、全く。
「れ、蓮、昼間すっごく頑張ってたもんね」
「別に頑張ってたんじゃなくって、あれは何というか……ゾーンに入ってたというかさ……」
「ゾーン?」
「ああいう単純作業、俺得意なんだよ。それに、郁も俺の拾ったゴミ片付けてくれたんだろ? 全然気が付かなかった」
「うん……」
「一言くらい声を掛けてくれれば良かったじゃないか。なんか昔話に出てくる狐みたいだったぞ」
「んぶっふ」
鼻の奥が詰まっているからか、泡を吹いたような笑い声を挙げる。郁は慌ててティッシュで鼻を拭いた。
「それ『ごんぎつね』でしょ。小学校の教科書に書いてあったよ」
「そうだっけ……。まあそんなことより、話ってのは?」
ようやく郁がまともに話せるコンディションになったようなので、改めて本題に入る。
「さっきのこと……ごめん」
そう、きちんと頭を下げてきた。
「二階の件か?」
まあその話だろうなとは思っていたが、相変わらず郁の手の中で潰れている犬Tシャツの印象が強すぎる。こんなに真っ当な謝り方をするとまでは思わなかった。
「別に俺は怒っちゃいないよ。多分、甲塚もな」
「ほ、ほんとに?」
「怒ってない。それに、悪口言ってたの殆ど一ノ瀬だろ」
「でも……ごめんね」
「なんだよ」俺は苦笑して郁の謝罪を流した。「怒ってないって。マジで」
「怒ることと傷つくことは、違うことだよ」
「……」
こいつ、単純なくせにときたま単純な真理を言うよな……。頭の中にあんこでも詰まっているんじゃないだろうか。
確かに、俺も甲塚も傷ついたことは事実、なんだけど。
「でも、俺の方こそ郁に謝らないと」
「え?」
心底分からない、という顔をする。
「昼間のこと……なんだけど」
今の今になって、俺が今までまともに友人に謝ったことがない事実に思い当たった。「ごめん」の一言だけなのに、これほど胸がざわついて口がべたつくものか。
「なんか、変な突き放し方しちゃって……ご、ごめん……」
「あーっ!! あれか!? あれほんと傷ついた私! 謝ってよ!!」
郁はそれまでのしおしおした態度から一変して怒りだしてしまった。
「いや、だからごめんって……ていうか、そんなに傷ついていたのか……」
「傷、ついた、よ!! 何であんなこと言うの!?」
「だってそれは……俺みたいなのと連んでたら、郁が困るんじゃないかって思ったんだ」
「そんなことないよ!!」
「あるだろ。実際、さっき一ノ瀬と喋っているお前変だったし」
「……それは……」
また、しおっとした態度に切り替わる。しばらく離れていたから実感するけど、郁のテンションの乱高下っぷりに付き合っているとヘロヘロになってしまうな……。
「昼間はあんな言い方しちゃったけどさ、この合宿で改めて痛感したんだ。やっぱり郁と俺とじゃあまりにも生きてる世界が違うんだよ。さっきのこと混ぜっ返すわけじゃないけど、俺と話してるとこなんて他の生徒に見られたら、ああいうことはまた起こる……と、思うんだよな」
「そんなこと……ああ」
郁はふらっと堤防により掛かって、
「ロードしたい……」
と、万感の意を込めて呻いた。
また何を後悔しているのやら。郁の中で、今選択肢の間違いを発見したんだろう。
「人生にセーブポイントがあれば便利だよなあ。過去を変えられる権利が俺たちにあれば良いのにな」
「過去は変えられるよ」
海を眺めたまま、郁がぽつりと呟く。
「は?」
「ほんとはね。過去は、変えられるんだって」
「……未来じゃなくて?」
郁が、郁には似合わない深遠なことを言おうとしている……。
「何かの恋愛映画で言ってたんだ。私達は生きている時間の中で過去しか認識出来ない。だから、私達は今の行動で未来を変えていると思い込んでいるけど、実際は過去に逆襲して、解釈を変えることしか出来ないの。丁か半か、次に出る目は分からないけど、今までに出た目だけは知ることが出来るんだよ! だったら、私達に出来るのは一つ前に出た目を張り続けることだけ、でしょ?」
「でしょ? って言われても、意味分からないぞ……何か、話混ざってないか? 丁とか半とか」
「あれ?……えーと。未来は知ることが出来なくて、過去だけを知ってるから――ごめん、今度観なおして教えてあげる」
難しいことを言おうとしたらこうなってしまうのか。悲しい性だな。
「別に観んでもいい。教えなくてもいい」
盛大に溜息を吐くと、ぺろっと舌を出して郁が笑う。
「じゃあ、ロードしていい?」
「……できるわけないだろ」
「できるよ? 私と蓮なら」
「できんの!?」
俺の中では東海道先生がダントツで変なノリの使い手だったと言うのに、ここにきて郁の物凄い追い上げを感じる。……ライブハウスの一件で毒されたのだろうか。
ともかく、こういう雰囲気になってしまったらノリの使い手が望む反応をしなければ終わらないのだ。
「――分かった。分かったよ。ロードしていいよ」
投げやりに俺が言うと、郁は喜色満面で俺の背後に回る。そして、ビッと右手を挙げて、
「それじゃ、ロードしまーす」
そう宣言した。




