第249話 東海道先生がお酒を止めた日
ライブが終わるやいなや、南さんが宣伝するまでもなく物販スペースに人集りができはじめた。ライブの盛り上がりとは別種の熱量で、何やら異様である。
出入り口へ上がる階段の下で呆然としていると、混沌とした人の渦から郁がにゅっと顔を出す。
「ちょっとお! 早く列に並ばないと、売り切れちゃうよ!?」
郁はすっかり爆買いモードになっているが、俺からすればとんでもないことである。Tシャツ一枚三千円。タオル一枚が千八百円。パーカーに至っては七千円!! そりゃ低価格なリストバンドやステッカーなんかがあるにしても、高校生の財布で堂々と乗り込む場所じゃないだろう。
「い、良いよ、俺たち。そういうのは……な?」
甲塚は俺に追従することなく、意味深に肩を竦めた。
「あら。行かないの? せっかくだからついでにTシャツ買ってきて貰おうと思ってたのに」
「……マジ!? お前が先生のバンドのグッズを欲しがるなんて……」
「私もあまり詳しくないけど、有名になったらインディーズ時代の芋くさいグッズって高額で売れそうだと思わない?」人差し指で上向いた唇を撫でながら言う。「一口三千円の投資と考えたら、中々面白いじゃない」
感動が一気に消え失せた。とうとう、甲塚も東海道先生に懐いたのかと思ったのに。
思わず甲塚の頭をコツンと叩いて、
「この馬鹿。何を不埒なこと考えてんだ。転売はいけないことなんだぞ」と叱る。
「何言ってんのよ。転売が問題なのは定価で売り出されたものを買い占めて消費者を困らせるからでしょ。見なさいあれ」
甲塚が視線を飛ばす先では南さんが次から次へと段ボール箱を運び出していた。ステージに立っていた時よりも表情が活き活きしているのは気のせいだろうか……。
――と、奥で汗を拭く西原さんと目が合った。こちらを指差したと思ったら大げさに腕を振って……何か怒ってる? ジェスチャーの意図が全然解読できないので首をひねると、じれったそうにスマホで連絡を飛ばしてきた。
「おい! お前、まだ帰るなよー」
「なんでですか?」
「ライブの打ち上げ兼、送別会やがな」
「……送別会?」
まあ、一応そういうのは考えてはいたけど、なんで「きたはいずこに」絡みでそういうイベントに発展するんだろう。
「部長ちゃん、まだおるやろ? お前らストーカー同好会が勢揃いしてるとこ目に納めとかな、勿体ないやんけ。チェキ撮ってやる、チェキ」
「はあ、……チェキ……」
「取りあえず、部長ちゃんの門限平気か聞いとけよ。じゃあな」
一方的に電話を切ると、西原さんは一つ溜息を吐いて物販のコーナーに出て行った。案の定、熱狂した西原がガールズにすぐさま囲われてチェキ会が始まる。あの調子だと打ち上げに移行するにもまだまだ時間が掛かるだろう。
「おい。この後打ち上げあるんだってさ。それまで外出てようぜ」
隣に立っている甲塚を促すと、不満そうに顎を揺らして階段を上り始めた。
郁は――まあいいや。西原さんたちが回収してくるだろ。
「何で私が参加する前提で話進んでるわけ? 勝手に決めて貰っちゃ困るんだけど」
「……あっ。門限、平気だよな?」
甲塚は一つ咳払いをして答えた。
「今日、ママには遅くなるかもって伝えてる。だから、常識的な範囲までは平気」
「西原さんが、兼、送迎会とか言ってたぞ。なんか挨拶とか考えておいた方が良いんじゃないの」
「私、東海道以外の人とマジで面識ないんだけど……」
「学祭で会ったきりだもんな。別に良いじゃん。主賓なんだし、タダで飯が食べられるぞ」
「卑しい奴」
今日は東海道先生のバンドが最後なんだろうか。ライブハウスを出ると、さっきまでの熱気を湛えた客たちが路上で屯していた。彼らは彼らでどこか飲みに行く雰囲気である。
「それであんた、私に話しがあるんじゃ――」
と、甲塚が声を掛けてきたところにライブハウスの階段を凄い勢いで駆け上がってくる足音があった。驚いて振り向くと、ベーコンエピみたいなポニーテールを揺らしながら、東海道先生がこちらに向かって――
「佐竹く〜ん!」
抱きついてきた。
「……!!!」
いや、違う。
抱きついてきたというよりは、追突。あまりにもあんまりな登場の仕方で、プロレスの技みたいに飛び上がって背中をぶつけてくるのである。
突然のことに、慌てて先生の体を両手で受け止める。彼女が幼児体型でなければこれで俺の体のどこかが悲鳴を挙げていただろう。
足はなんとか踏ん張ったが、勢いを殺しきれずにくるりとその場で回って、甲塚に真正面から向き合ってしまった。
東海道先生を抱っこした状態で。
……先生は俺の肩に手を回して、そのまましゃべり始めるし。
「甲塚さん。あなたのことがステージから見えましたわ!」
上機嫌な理由はそれか。
「嘘ばっかり。あんな暗い人混みで、客の顔なんて分かるわけないでしょ」
「嘘なんかじゃありませんっ。ね? 佐竹君」
「はっ……、はいっ……!?」
「あなたが声を上げてくれたお陰で、甲塚さんのことを見つけられたのよ。アイコンタクトしたじゃありませんの」
そういえば、あの瞬間は思いっきり目が合ったな。ステージから知り合いの顔を見つけるだけでこれほど喜ぶとは。恥をかいた俺も浮かばれるというものだ。
それはそれとして、腕の筋肉が悲鳴を挙げている。しかも、結構ライブの汗を服に染みさせたまま密着してくるし。臭いとか不快とかではないが、そういうの気になったりしないのか?
「はあっ……まあ……、ていうか、重いんですけど……!?」
「コラッ! 女性に向かってなんてことを言うの! あなたは!」
そう口では怒りながらも、慌てたように俺の腕からすり抜けて地面に足を下ろした。
「甲塚さんも、この後一緒にお店行くのでしょう? お母様にご連絡は?」
「さっきもこいつに聞かれたけど、平気よ。一応」
先生はほろりと、俺に向かって笑顔を見せた。
「初めてフルメンバーでお食事できるわね! 人間観察部勢揃いじゃありませんか」
「あ……。言われてみれば」
俺と東海道先生、俺と甲塚プラスたまに郁、なんてことは今まで何度かあったが、東海道先生と甲塚が一緒に食器を持っている姿は見たことがない気がするな。
……いや。そもそも、教師と一緒に食事をするってあんまないよな。感覚バグってるのは俺も方かも。
「わたくし、こういう会に参加するのは随分久しぶりなのよ。佐竹君」
「え? ああ、節約ですか。大変ですね」
「それもあるけど、こういう場ではどうしてもお酒を飲むことになりますもの。あまり近づかないようにしているのよ」
「……」
俺は内心で少し驚いた。酒を止めろとは言ったが、未だに断酒と言えるレベルで制限していたとは。あれは俺も結構勢いで言っちゃった部分はあるので、逆に申し訳なくなってくる。
「お酒を飲まないお陰で、最近眠りが深い気がしますわ。肌もつやつやしている気がしますわ。頭もハッキリしているし、世の中良い人間と善意で溢れている気がするの」
「絶対プラシーボ効果……」
甲塚はそう低く唸ったが、どうだろう。泥酔状態の彼女を見たら、案外そんなこともあるかもしれないと思っちゃうが。
「それじゃあ、今日は久しぶりにお酒を飲んだらどうですか? ライブも大成功だったし」
「あら。良いの?」
「……なんで佐竹に許可を求めてるわけ? あんたがこいつの酒量を管理しているの?」
「べ、別にそういうわけじゃない。けど、今日くらいは良いんじゃないですか?」
「そうね――そうしましょう!」
*
ところが、いざ個室の居酒屋で注文したビールを前にすると、東海道先生は石のように固まってしまった。
各々グラスを掲げて乾杯の音頭を取っても、先生は一人泡のはじけるビールを上から覗いている。
「おい、どうした恵。暫くぶりの酒に感動しとんのか?」
早速ジョッキを半分飲んで赤くなっている隣の西原さんが茶々を入れる。先生の対面に座っている俺は、ウーロン茶を飲みながらぼんやりと様子を眺めていた。隣では郁が甲塚相手に購入したグッズの発表会をしている。
「わたくし、……」ちらりと上目遣いに俺を見やって、笑いながら言った。「やめておくわ。やっぱり」
「……俺の言ったことを気にしているんですか? なら――」
「違うのよ。なんだか私が甲塚さんと会ってからのことが全部――あの夜のことが――」
ジョッキの縁を眺める彼女は、万感の思いに浸っているようだった。
西原さんは、そんな表情も露知らずといった感じで先生の肩を叩く。
「なにブツクサ言っとんねん。お前らしくもない」
「夢になる気がするのよ」
東海道先生はそう言うと、近くを通った店員にウーロン茶を頼んだ。




