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第222話 交通事故

 どうして俺は、どうして俺はこんなことになっているんだ。どうして俺は――


 夜の国道を疾走しながら、心臓を動かしているのとは違う自分が脳内で呟いてくる。子供の頃、俺に不気味な記憶を植え付けたあの女が今、ウェイトレスの服装で俺を追いかけてきている。金属バットを持って。どうして俺が、俺がどうして――と暗く呟く俺に、今転びかけた働き者の俺自身が思考の淵に押しつける。違うだろうと。


 今俺の背後にいる般若はあのときの女じゃない。年齢が全然違う。「だとしたら、あの女の子供が俺に復讐に来たとでも言うのか?」と、これは淵に追いやられた暗い声が言う。苦しそうに。「金属バットで、あの女の娘が俺を殺しに来たんだ」それも違う。だって、だってあの女は、あの女は。


 七輪を買っていたじゃないか七輪を買っていたじゃないか七輪を買っていたじゃないか。


 その時、足をもたつかせた俺の背中にドスンと衝撃があった。金属バットで殴られたと言うには体重が乗っていて――これは蹴りだ。俺は前方のアスファルトに掌を擦りつけて倒れてしまった。両手が燃えるような痛みを訴える。だけど、そのお陰で肘や膝を打つことは免れた。あれだけ大切にしていた手なのに。俺はすけべ絵師なのに。これでは絵が暫く絵が描けなくなってしまう。


 顔を上げると、交差点の向かいの居酒屋――そこの外席から何人かの酔客が俺の様子を見ていた。笑っているのだろうか。俺は今殺されようとしているのに、これが正常性バイアス? 大声を挙げれば。大声で助けを求めれば彼らもこれが異常事態だと気付いてくれるかもしれない。


「――あの女は死んだ筈だ!」


 俺の口からぽんと飛び出したのはそんな言葉だった。それは、多分さっきから俺の思考の淵で叫んでいた俺の声だったのだろう。これでは駄目だ。あの酔客達に危機感が伝わらない。ところが、


「何を言っているんだお前」と、予想外にも今目の前でバットを握っている般若が、低い声を出して言うではないか。


 今なら逃げ出せるかも知れない。が、俺の口は、暗い部分から湧き出る叫びは止めどなかった。今、他人の筈のこの般若が、俺が置き去りにしていた筈の過去を伴って今、俺にケリをかましてきたように思えたんだ。思えたんじゃなくて、本当にそうなのかもしれない。


「あの女、あの女は、自殺したんだろ!? あいつは七輪を買っていた! 俺を誘拐して――それで――心、中、を――練炭で! だから、だから、俺に優しくっ……した……」


 喋ってる途中から冷静さが込み挙げてきて、言葉の端に弱みが混じる。けど、冷静さは俺にまともな思考と行動をするチャンスをくれた。鼻を擦ると、掌が血まみれになっていることに気が付く。


「ウチにはお前の言っていることが分からない」般若は観念したようにそう言うと、仮面の裏に指を掛けた。「誰かと勘違いしているだろ」


「はあ、はあ……あ……お前――」


 その瞬間。


 交差点の向かいから「ヒャーッ!!」という奇声が聞こえてきたんで、俺も般若もそちらの方を向いた。ショウタロウが、絶叫しながら両手を挙げてこちらに走って来ている。


 俺を助けに来たのか、あいつ……!


 とは言っても、交差点の向かいからのことなんでこちらへ来るには車道を横断してこなければならない。俺は血が出る掌を上にしたまま奴の到着を待った。般若も呆気にとられているようで、ぼんやりと彼を見ている。


 ショウタロウは一旦挙げていた手を降ろして、ガードレールを乗り越えて、


「ヒャー!!」


 道路を渡って、中央分離帯をぐるりと迂回して、…………。


「ヒャア~~ッ!!」


「おっ! あ~っ!! おうっ!! おう、おうっ」


 別の方向からの叫び声は、きちんと車道を走行するママチャリに乗ったおじさんだった。目の前をイケメンが絶叫しながら横切ってきたんで、ガクガクとハンドルを右に左に回し――ブレーキのゴムがタイヤを擦る音、ガシャンという派手な音を立て、ショウタロウと追突。両者がアスファルトの地面に転がる。


 ……。


 あっ。


 これ交通事故か。

 

「あーあー! 全く、何やってんだよ! もー……」


 呆れたように般若の面を外して、コーコはショウタロウとおじさんに駆け寄って行った。


 *


 今、俺とショウタロウはバーカウンターに並んで座っている。


 店内全体は間接照明が視界を暖める程の暗さ。この時勢には珍しく喫煙可能なようで、擦れた革張りのソファ、木の柱、長年置きっぱなしで埃を被った壺、造花の葉、全てにヤニの茶色がこびり付いている。


 だが、そんな大きなのっぽの古時計みたいな世界観の店内でもカウンターの向こう、キッチンだけは清潔なステンレスの銀色と白色照明で輝いていて、そこには総白髪をオールバックに撫で付けた品のある爺さんが立っていた。


 ……で、ウェイトレス姿のコーコは俺の隣席でタバコを唇で咥えながら俺を睨んでいる。――正確には、ショウタロウも。


 ショウタロウが半ば当たり屋の交通事故を起こした後、その場を取り持ったのはコーコだった。激昂するおじさんをなだめすかし、それでも怒るので警察を呼ぶぞと脅して追い払い、満身創痍の俺たちをこの店へ連れてきたのだ。……この、喫茶店に。


 コーコに睨まれながら店の救急箱で手当をしていると、爺さんがカップを俺とショウタロウに出してきた。不思議なことに、今カウンターにカップを置いた筈なのに水面が全く波立っていない。ベタベタとテープを巻いた掌を翳すと暖かく――白い。


「……。牛乳?」


「こんな時間にコーヒー飲んだら寝られなくなるでしょ」

 

「はあ」


 えらい子供扱いされているようだな。この時間にコーヒー飲む事なんて日常茶飯事なんだけど。……それから、爺さんは煙草を吸っているコーコの前にもホットミルクを出した。それを、彼女はカウンターの方に滑らせる。


「煙草吸ってる人間にミルクなんか出すなよ」


 突き返されたカップを、再び爺さんはコーコの前に滑らせて、それきり何も言わずに奥に引っ込んでしまった。この二人は一体何なんだろう。取り敢えず、爺さんの方は貫禄からして店主であることは間違い無いとして。……で、コーコは? え? 何、この格好。


「……それは、まさか、メイドのつもりなのか?」


「あ? ああ、このカッコ? そうだよ。メイドメイドー」コーコはフリルの付いたスカートを引っ張って言う。「メイド喫茶やってんだ、今」


 ここはどう見てもメイド喫茶という趣ではない。老舗の純喫茶だ。そもそも、この格好にしたってそういう店のものにしては格調高すぎるし。


「……ヤマガク辞めて?」


「うん。そー。結構似合うだろ」


 コーコは平坦な声でそう言うと、底の浅い灰皿に煙草を押しつけた。


 そんな仕草の一つ一つが、なんだか俺には女の子が大人ぶっている様に見えて、……腹の底から、粘ついた怒りが吹き上がってくる。


「コーコ、お前……」


「ん?」


「こんの、クソ馬鹿野郎が!!」


「怒るなよ、佐竹蓮」


「あの、蓮。ちょっと」そこで、ショウタロウが俺の肩を叩いてくる。「……知り合い? その人」


「ああ。……えーと。こいつは俺の通っている絵画教室にいた奴で、元々ヤマガクにいた一つ上の先輩……? 一応」


「佐竹蓮、ウチにもそいつ紹介しろ」


「ああー……。こいつは、えー……。美取さんの弟……?」


「は!? あのクソ風紀委員の? 弟!?」


「……あ? クソ……?」


 俺を挟んで、美取を貶されたショウタロウが冷えた笑みをコーコに向ける。コーコはそれを真正面から受け止めて(俺越しに)、両者、疑問符の応酬を始めだした。


「ん? ん?」


「あ?」


「は?」


「ああ?」


「……ちょっと待った。ショウタロウ」


「あ?」

 

「お前のトークスキルとやらは本格的にどこ行ったんだよ。これじゃチンピラ同士のメンチ合戦じゃねえか」

 

「…………」


「とにかく、コーコには聞きたいことがありすぎる」


「ウチも、お前には言わなきゃならないことがある。……そうか。あの、『青海』の一件以来だな」


 それからカップを口に近づけるタイミングが、何故か横並びの三人で揃ってしまった。

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